初めての対話
「…橋本!おい、何をしている」
美優は気づけば、自分自身の規律を破り、彩花に声をかけていた。美優にとって、他者の行動に干渉することは、己のエネルギーの無駄でしかない。だが、彩花のあの執拗なまでの努力は、彼女の合理性を乱した。
腕立て伏せの姿勢から、彩花は慌てて身体を起こした。道着は汗で道着が張り付き、顔は真っ赤に染まっている。
「えっ…自主練です。こうしないと、上村さん始め、ついていけないから…」
彩花は、率直に、そして屈託のない笑顔を見せた。その言葉には、成績最下位であることへの卑屈さは微塵もなく、ただ純粋な焦燥と、追いつきたいという意志だけが宿っていた。
「ついていけない? 自主練でどうにかなるレベルではないだろう」
美優の口から出たのは、冷徹な分析だった。それは事実だ。彩花の成績は、一朝一夕の努力で埋まる差ではない。
「そう、ですよね!」彩花は肩を落とすどころか、笑った。「でも、やらないと不安で。上村さんみたいに、才能も実力もないなら、人より多くやるしかない、って思って」
「才能?」
その言葉に、美優の眉がぴくりと動いた。美優の強さは、「才能」などという曖昧なものではない。それは、血を吐くような自己規律と鍛錬によって、積み上げられた「結果」だった。
「私に、才能なんてものはない」美優は断言した。「あるのは、努力と、勝利への合理的なアプローチだけだ」
「えー!そんなことないですよ。剣道の授業を見た時、上村さんだけ、動きが全然違いました。まるで、水が流れるみたいで……。すごいなって」
美優は、ただ見つめた。自分に向けられた、その曇りのない尊敬の眼差しを。それは、彼女の孤独な城の中では聞いたことのない、「友情」や「仲間」の領域に属するような、熱を帯びた感情だった。
彩花は慌てて竹刀を手に取り、美優に差し出した。
「あ、あの!よかったら、少しだけ、見ていただけませんか? 打ち込みが、全然うまくいかなくて…」
ーー他人に干渉するな。己の鍛錬に集中しろーー
頭の中の規律が警鐘を鳴らす。だが、美優の足は道場の中央へと動いていた。
「……一回だけだ。無駄な時間を割く気はない」
そう答えた美優の心臓は、高校時代、個人戦の決勝に臨んだ時よりも、強く、不可解なリズムで脈打っていた。
その一瞬、美優の「個人戦の応用」という完璧な武装に、初めての亀裂が入った。




