2-2
ちゅんちゅん、と鳥の囀りが遠くから聞こえてくる。
「ん…」
なんだか久しぶりにゆっくり眠れた気がする。
もぞもぞと布団の中で身体を丸めると、肌に触れるシーツの感触が心地よくてたまらない。こんなに気持ちいい目覚めはいつぶりかな、と思ったところではたと気付いた。
「ここどこ…?」
布団から顔を出して目を開いても、メガネが無いので全く見えない。慌てて自分の周りを手探りすると、いつものように枕の横に置いてあった。ホッとしつつ、仰向けに寝転がったまま瓶底メガネを装着する。
天井には見たことも無い絢爛な薔薇の絵。一拍置いて天蓋付のベッドに寝ていたのだと気が付いた。レースが幾重にも重なってベッドの周りに広がっている。
よく見ればこのベッドも、大柄の男性が二人手を広げて寝れる程のビッグサイズだ。
「夢…じゃないんだ…」
異世界というのも、魔法があるというのも。
『貴方は素敵な人だ。少なくとも私にとってはかけがえのない人だよ』
あんなこと、初めて言われた。
ありえないのに、とても嘘をついているようには思えなかった。もう一度話をしてみたい。途中で眠ってしまったこともきちんと謝ろう。また…会えるだろうか。
もぞもぞと起きあがってベッドサイドのテーブルを見ると、呼び鈴と思われるベルと一枚のメッセージカードが置いてあった。
〝おきたらベルをならして〟
ひらがなとカタカナで書かれた文字は日本語だった。昨日アレクシアさんが空中に書いて見せてくれた文字を思い出して、じんわりと胸が温かくなる。きっと私のために書いてくれたんだ。
少し緊張しながらベルを持ち上げて左右に振ると、ちりんちりんと軽快な音が鳴った。待っていると、コンコンというノックの音と女性の声が聞こえてくる。
「入室してもよろしいでしょうか」
「はいっ!ど、どうぞ」
ベッドの垂れ布の間から覗くと、これまた美しい花模様が描かれている扉が開いた。
入ってきた女性は臙脂と黒の落ち着いたドレスを身にまとっていて、昨日給仕をしてくれた女性だとすぐにわかった。プラチナブロンドの髪に、透き通るような真っ白い肌。近くまで来ると、瞳はエメラルドグリーンだとわかる。一礼した女性は、慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべた。
「おはようございます、スミレ様。お加減はいかかでしょうか」
どうぞお飲みください、と差し出されたのは白いマグカップ。
言われるがままに受け取って、そっと一口飲んでみると、ほうじ茶のような日本人に馴染みやすい味がした。熱すぎない温度はちょうどよくて、ごくごくと飲んでしまう。そこで私は喉が渇いていたことに気が付いた。
「ありがとうございます、だいぶ良くなりました。ご迷惑をお掛けしてすみません」
「いいえ、スミレ様は酷くお疲れだったと伺っておりましたから。深く眠れたようで安心いたしました」
「…あの、私かなり寝ていましたか?」
「お休みになられてから日付を跨ぎまして、現在は早朝にございます」
「そ、そんなに寝ていたんですか」
びっくりしていると、ふふっと女性は上品に笑った。
「昨日より少し顔色が良いようで安心いたしました。申し遅れましたが、わたくしは第二王女殿下付きの侍女、メアリ・モメントリと申します。どうぞメアリとお呼びくださいませ。本日よりスミレ様に付かせて頂けることとなりましたので、スミレ様が憂いなくお過ごしになれますよう、わたくしにお任せ頂ければと存じます」
そう言って、メアリさんは綺麗なカーテシーをした。
「冬月澄玲です、よろしくお願いします。メアリさん…私、色々とよく分からなくて」
「ふふ、慌てなくても大丈夫ですよ。何でもお聞きください」
メアリさんはすっとしゃがむと、ベッドの端に座っている私と視線を合わせてくれた。
先ほどの自己紹介やカーテシーのように洗練されたものとは違い、少女のように可愛らしい仕草に少し緊張が解れる。その眼差しに、アレクシアさんと同じ温度を感じた。
「あの、ここはどこなんでしょうか」
「はい、ここは薔薇園の離宮、薔薇の宮と呼ばれるところです。アレクシア様が陛下より賜りお住まいになられている宮です。こちらの寝室と、あちらに繋がっているお部屋がスミレ様のものとなります」
「そう、なのですね」
先程から王女、陛下、殿下と聞きなれない言葉が通り過ぎていく。
混乱していてもこの状況、なんとなく察してしまう。もしかしてここは、とても高貴な方々がいる場所ではないだろうか。
「その…恐れながら、『第二王女殿下』というのは…」
「アレクシア様のことにございます。アレクシア・ミア・ノルスタシア第二王女殿下は、このノルスタシア王国を統べる国王陛下の御子にあらせられます」
「やっぱり…」
じわりと冷や汗が背中に滲む。物腰や言葉遣いからアレクシアさんは位の高い、偉い人なのだろうとは薄々思っていたけれど、まさか王女様だったなんて。
私はこの国の王女様に召喚されてここに来てしまったんだ。身分制度に馴染みが無くともわかる、とてつもない規模の出来事の中心に自分はいるらしい。
何も考えずに名前を呼んでいたけれど、本来ならば不敬罪に当たるのではないだろうか。いやそれだけではない、会話中に眠ってしまっている。
「私、大変な失礼をしているのではないでしょうか…」
明らかにやってしまっている。
さあっと血の気が引いた私を見て、メアリさんは慌てて口を開いた。
「スミレ様、落ち着いて下さいませ!失礼などありませんでしたから」
「ですが、お話の途中で寝てしまうという大変な無礼を…」
「それも魔法のせいなのです、ですからスミレ様に一切の非はございません」
「魔法…?」
そういえば、意識がなくなる直前に金色の光を見た気がする。
あれは翻訳魔法と同じような光だった。
「鎮静の魔法、という緊張をほぐす魔法がございます。スミレ様は極度の疲労状態でしたので気を失うように眠ってしまわれたのですよ」
「そうだったんですね……あの、本当に大丈夫でしょうか」
「ご安心くださいませ。アレクシア様はスミレ様のお体を何よりも気にかけておられましたから、少しでも回復なさったお姿を見れば、きっとお喜びになりますよ」
不安を拭えずにいる私に、メアリさんは優しく笑ってくれた。どうやら本当に大丈夫みたいで、ほっと息を吐く。
「ありがとうございます。あ、その、そろそろ起きようかなと思いまして」
「かしこまりました、ではお手伝いさせて頂きますね」
「えっと、身支度するのに洗面所とかお借りしてもいいですか」
「借りるなど、そんなことをおっしゃらずにわたくしにお任せください。なるべくご負担のないようにと申し付けられているのです。まずは軽く湯あみを致しましょうか」
わたくしにお任せをとメアリさんは自信に満ちた笑みを浮かべた。王女様の元で働く彼女はとても優秀な人なのだろう。
まだ万全とは言えない身体を動かすのはつらかったので、私はメアリさんのご厚意に甘えることにした。
それからは、まさに至れり尽くせりである。
「ふっ、服は自分で脱げます!体も一人で洗えますからっ」
「いいえ、湯あみも体力がいるのですよ。スミレ様はただその場にいらっしゃるだけで良いのです。わたくしがしっかりと磨きますのでお任せください」
「ちょっ、ほんとに恥ずかしくてっ」
「ニホンには大勢の人が入る浴場があると伺いましたよ?それに比べ、今この場にはわたくししかおりません。ですのでご安心くださいませ」
「あれは洗ってもらうわけじゃ…!?」
「失礼しますね」
すっと眼鏡を外されたのを皮切りに、はあっという間に服を脱がされ、あっという間に泡まみれになり、あっという間にお湯に浸けられながら髪に香油を塗りこまれていた。
圧倒された私はされるがままだ。
――やっぱり王女様付きの侍女さんはとても優秀な人だった。色んな意味で。
「お疲れ様でした、スミレ様」
「いえ……ありがとう、ございました…」
気恥ずかしさに顔を赤くしながらお礼を言うと「これが日常となりますから、すぐに慣れてしまいますよ」とにっこり笑顔で返してくれる。この自信溢れる笑顔で言われると反射的に頷いてしまいそうになるのは不可抗力だ。ただ、それでも私の羞恥心が抵抗してしまうのだけは許してほしい。
お風呂から上がり体中にクリームを塗りこまれ、用意されていたラベンダー色のワンピースドレスを着させてもらう。
するすると肌触りの良い生地で、スカートの裾からはレースがちらりと覗いている。すとんと落ちるようなAラインのシンプルで可愛いデザインだ。
お化粧は遠慮させてもらった。分厚い眼鏡と伸びきった前髪のおかげでメイクしても殆ど見えないだろうし、手間を掛けてもらったものを無駄にしてしまうのは嫌だった。
最後に濡れた髪に巻いていたタオルを外して、櫛で軽く梳かしているメアリさんが口を開いた。
「乾かしますね」
そう言って広げた右手には、緑の光が集まっている。
驚いて鏡越しに凝視していると、その右手を指揮棒のようにくるりと動かした。すると緑の光が私の髪の毛を包み込んでふわりと舞い上がらせる。心地よい暖かな風を感じていると、光の粒子が消えていき、舞っていた髪も元通りに降りてきた。思わず肩に掛かった髪の毛を手に取って驚く。
「すごい、しっかり乾いています」
「ふふ、侍女や使用人は皆この魔法を習得しているのですよ。髪は結いましょうか」
「…いえ、このままでいいです」
「それでは、少し毛先を整えさせて頂きますね」
私が頷くと、メアリさんはハサミを器用に動かしてバラバラな毛先を揃えてくれる。ぴょんぴょんと飛び出している枝毛にもハサミを滑らせてくれて、終わる頃には少しまとまってくれるようになっていた。
「すごい…ありがとうございます」
「スミレ様は綺麗な黒髪ですから、磨き甲斐があります」
言葉のとおり、メアリさんは視線を髪に落としながら、丁寧に櫛で梳いてくれる。その姿に胸が詰まるような心地がした。こんなに良くしてもらって、罰が当たらないだろうか。なんの取り柄もない、何も持ってない私にこんな待遇を受ける権利など無いのに。
あの上司に言われてきた言葉の数々が列挙して心の中で叫んでくる。使えない、トロい、社会不適合者、ボサボサ女、取り柄無し。
優しく髪を梳かしてくれる手に抗えず目を閉じながらも、私は心中に芽生えた罪悪感を持て余していた。




