2-1
「どうか、アレクシアと呼んで欲しい」
「…はい…あ、アレクシアさん、その…」
今、私に会いたかったって言った…?
こんな綺麗な人に会ったことは無いはずだ。
首を傾げながらも記憶を必死に辿っていると、私の顔をじっと見つめていたアレクシアさんの表情が曇った。
にゅっと顔に手が伸びてきて、両手ですっぽりと頬を包み込まれる。
至近距離でまじまじと見つめられて目を白黒させていると、そのまま肌の感触を確かめるように親指の腹で頬を撫でられた。
「顔色が良くないね、体も辛いのだろう?休むためにも場所を変えたいのだけれど、立ち上がれるかい?」
そう言われて今更自分の体調を思い出した。アドレナリンが出ていただけで、自覚したとたん身体が重く感じる。
こくりと一つ頷いて、アレクシアさんに補助してもらいながらゆっくりと立ち上がった。軽い立ち眩みがしてバランスを崩しそうになったけれど、しっかり支えて貰っていたので倒れずに済む。優しい花の匂いが鼻をかすめた。
「…すみません」
「焦る必要はないよ、ゆっくり向かおう」
アレクシアさんがその場に居た人々へ指示を出していく。また室内にざわめきが戻ってきて、そこで私は皆の言葉が理解できるようになっていることに気が付いた。
混乱した頭のまま大広間を出る。
傍で支えながら歩いてくれるアレクシアさんは、私より10センチは背が高かった。私も長身な方なのに、本当にモデルさんみたいだ。
広くて長い廊下に敷かれた深緑のカーペットの上を、コツコツと小さな足音を立てて歩く。
大きな金縁の窓から入ってくる光が幻想的に見えて、窓の外を覗くと青い空と緑豊かな庭地が眼下に見えた。
日本では見たことのない、巨大な宮殿のような建物が庭地の奥にそびえたっているのも。
思わずごくりと喉が鳴る。
「ここには貴女を傷つける者は居ない。だからまずは身体を回復させよう」
傍で控えていた女性が扉を開けた先、私は談話室のような部屋に通された。
暖色の絨毯に、革製のやわらかそうなソファーが向かい合わせて配置されている。そこへ私を座らせると、アレクシアさんも正面に腰を下ろした。給仕らしき女性がテーブルに茶菓子と飲み物を並べ、そのまま部屋の隅へと下がっていく。
「さぁ、遠慮せずに飲んで。ほんのり甘くて美味しいよ」
そう言われて少し躊躇ってしまう。このまま素直に口を付けてしまっていいのだろうか。ちらりとアレクシアさんを伺いみると、瑠璃色の瞳と目が合う。そして直ぐに気づいたように頷くと、私のカップを持ち上げて口を付けた。
「あ…」
「すまない、警戒するのは当たり前のことだ。この通り毒など入っていないから安心して飲むといい」
「…はい、頂きます」
私の前に戻されたティーカップをそっと持ち上げて、一口飲む。口の中に広がるのはほんのり甘いミルクティーの味。私の大好きな飲み物だった。あたたかくてほっとする、父がよく作ってくれた優しい味。
「…美味しい」
ぽつりと独り言のようにこぼれた言葉に、ふっと優しく笑う気配がする。
「それはよかった。そのまま少し話を聞いてほしい、今はまだわからないことばかりだと思うから、まずはこの世界のことを簡単に話すよ」
「この世界…?」
「そう、この世界へ来たスミレは、もうあの職場に行かなくていい。もう二度とあのような辛い思いはさせない」
この世界?
行かなくていいというのは、会社を辞められたということ?
あの上司が納得してくれたのだろうか。
「その…この世界へきた、というのは、どういうことですか」
「私が召喚魔術を行使して、別の世界にいたスミレをこの世界へ呼びだした、ということ」
「は…えっと、すみません、それはどういう…?」
「信じられないかもしれないが、現実なんだ。この世界はニホンではなく、チキュウでもない、全く違う世界だよ」
ぽかんと口を開けて呆けてしまう。
なんだそれ、ドッキリでも仕掛けられている?
でもアレクシアさんは至極真面目な表情でいて、冗談を言っているようには思えない。
確かに、先ほど見た建物は日本のものとは思えなかったけれど。
困惑して沈黙する私に、続けるねとアレクシアさんが口を開く。
「ここはノルスタシア王国。その名の通り王政の国で、王がいて、貴族がいて、平民がいる。ニホンでは身分制度に馴染みがないと思うけれど…」
この国は階級社会で成り立っていて、数多ある国の中でも大国といわれる国であるらしい。
「今はそれだけ覚えておいてくれればいいよ。あとはそうだな…うん、信じてもらうには魔法を見せるのが早いだろうか」
「魔法があるんですか…?」
「そう、この世界では魔法が使えるんだ。スミレの世界でも存在を語られることはあったよね?先程の部屋で、スミレの周りが光ったことは覚えている?」
「はい、金色に光っていたのなら…」
「あれは翻訳魔法の光だよ。スミレに魔法を掛けたことで、私たちは会話が出来るようになった」
「あ…!」
そうか、だから突然言葉が理解出来るようになったのか。
アレクシアさんは人差し指を宙に向かって伸ばす。すると指先が光り、指の軌道に合わせて光の線が流れるように現れた。
指先はカタカナで「マホウ」と文字を紡ぐ。
「まほう…」
「ふふ、読めるようで良かった。どうにもニホンの文字は難しくて、簡単なものしか覚えられていないんだ」
呟くような私の声に、アレクシアさんは目を細めて嬉しそうに笑った。その雰囲気がとっても柔らかくて、からっぽだった心が少しだけ温かくなる気がした。
「いきなり詰め込んでも混乱するだけだろうから、ゆっくりでいいよ。スミレは何か聞きたいことはある?」
「あ…えっと」
すぐに答えられなくて言葉に詰まってしまったけれど、アレクシアさんはゆっくりで良いと言って待っていてくれる。落ち着けと一つ深呼吸をしてから、口を開いた。
「どうしてアレクシアさんは私に会いたいと…、その、何も心当たりがなくて…」
「すまない、心当たりが無いのも当然だよ。ここには異世界を視ることが出来る魔道具があってね、私はそれを通してスミレを知ったんだ」
「そんな道具が…」
「うん。初めてスミレを見掛けたのは数年前、まだスミレが短大生だった頃。笑顔が素敵な子だと思った。不思議とこちらも元気付けられる気がしてね、それから時折様子を見るようになった。丁度私も大変な時期で、元気をくれるスミレの存在に勝手に助けてもらっていたんだ」
ふっと、アレクシアさんは視線を伏せて言葉を続けた。
「けれど短大を卒業して働くようになってから、過酷な環境にスミレの元気がなくなっていく。私の好きな笑顔が陰っていく。それが我が身のことのように辛く思えた」
アレクシアさんは見ていたのか、あの日々を。
「私たちは別世界の住人で、スミレとは生涯交差することはない。だから…当初は見守り、幸せになるよう願うことしかできなかった。けれど、スミレの御父上が亡くなった時に私は決意した。見守るだけでは駄目だと、同じ世界で、自らの手でスミレを守り幸せにしたいと」
伏せられていた瞳が私を見る。その強い輝きが眩しい。こんなに素敵な人が、私のために心を砕いていたというの?
「そうしないと、スミレが消えてしまいそうだった。スミレが居なくなってしまうくらいなら、私は利己主義者にも暴君にもなれる。どう呼ばれたとて構わない。たとえスミレに拒絶、されたとしても…。そう思い、この世界へ呼んだんだ」
そうか、私が何をしようとしていたか気付いていたんだ。
アレクシアさんを覗きみると、苦しそうに眉を寄せていて。
胸がぎゅっと苦しくなる。
全ては私の至らなさが招いたことで自業自得だというのに。アレクシアさんが言葉のままに私を思ってくれていたというなら、私は謝罪しなければならない。
「あ、アレクシアさんは、とても優しい人なんじゃないかと思います。だからその、ごめんなさい。私なんかの為にそんな苦しそうな顔しないでください。私は何の取り柄もない凡人で…」
「違うよ、貴方は素敵な人だ。少なくとも私にとってはかけがえのない人だよ」
「でも…っ!」
思わず声を上げたのに、続く言葉が紡げなかった。真っ直ぐな瑠璃の瞳に込められた熱が、誠実さを宿した碧い瞳が、私の平凡なこげ茶の瞳を捉えて動けなくする。
「それに、優しいのはスミレのほうだ。今だってそう、私の想いを聞いて受け止めようと歩み寄ってくれている。ねぇスミレ…私は、またスミレの曇りのない笑顔が見たい。それだけで私は救われるんだ」
落ち着いた優しい声が、私をあやすように心に響いてくる。
「ゆっくりでいい、少しずつで構わないから…スミレの心が安らいだときに、幸せに笑う姿を見られたら嬉しい。私が心から、スミレのことを大切に思っていることも知って欲しい。…長く話してしまったね、疲れていただろうに」
「…いえ、すみません。まだ飲み込めなくて…」
ぐるぐると、優しい言葉が思考を溶かす。アレクシアさんの言葉は麻薬みたいだ。私がずっと欲しいと思っていた言葉を沢山くれる。
俯いていると、視界の端にきらりと光が走った気がした。途端にすうっと身体の力が抜けていくような感覚を覚える。
「あ…れ?わたし…なんか…」
くらりと視界が揺れて、強烈な眠気に襲われる。瞼が勝手に閉じようとして、必死に抗うけれど言う事を聞かない。
「大丈夫、抗わなくていい。ゆっくりお休み…」
アレクシアさんの声がそばで聞こえる。完全に意識が途切れる直前、優しい花の匂いに包まれた気がした。




