1-2
晩夏でも衰えることのない灼熱地獄が、じりじりと私を焼いた。
あぁ、なんだかふらふらする。
そういやこのところまともに食べていなかったな、そのせいかな。
太陽が私を干物にしようと更に熱く燃える。
ふと、駅に向かうために通る歩道橋を見上げた。車がせわしなく通る車道の上。あそこから落ちれば、落ちた衝撃と車に轢かれて確実に死ねるのではないだろうか。でも何の罪もない人を巻き込むのは宜しくない。信号が赤になったタイミングでなら、車を巻き込まずに済む。頭から落ちるようにすればなんとかなるか。
歩道橋の登り階段に足を掛ける。
中段まで上ると大きく眩暈がした。思わず前かがみになってしゃがみ込むと、後ろから歩いてきた男性が迷惑そうに舌打ちをして、私をぎりぎりで避けて階段を上ろうとする。その足が私の手提げ鞄にぶつかって、鞄が蹴り上げられるように数段上に飛んでいく。
「あっ…」
起き上がらなきゃ、立ち止まってたら迷惑になっちゃう。手すりにしがみつくようにして、ふら付きながらもなんとか立ち上がる。そうして足を踏み出した瞬間だった。
――ぐら り
足を掛けたはずの場所は、何もない真っ白な空間だった。
踏み出した身体は前のめりに傾いていく。
眩暈とは違う浮遊感に冷や汗をかく。
「な、に」
落ちたと思った先から真っ白な空間が溢れだしてきて、あっという間に白い世界に放り出される。
どっちが上か下かもわからない。ぐらぐらと体が不安定に揺らいで気持ち悪い。
恐怖に身を竦めていると、きらきらと足元が金色に輝きだした。
不思議なことに、足が光に触れる感覚がある。
「あれ、立てる…これって道なの…?」
光の上に降り立つと、浮遊感が収まった。
光芒の道となったそれは、様々な大きさの光の玉が寄り集まって出来ていて、どこか遠くへ伸びている。
「なにこれ…でも、凄いきれい…」
ついさっきまでは、都会の煤けた階段だったはずなのに。
意味の分からないことばかりで不安なのに、同じくらい綺麗な煌めきに心を奪われてしまう。何故だかとても暖かくて、神々しいとさえ感じるのだ。
ふと、自分の身体が軽くなっていることに気付いた。眩暈も収まっている。これは夢なのだろうか、それにしては意識がはっきりしている気が――
「っ!」
ふと背後に人の気配を感じて、弾かれたように振り返った。
強い気配に目を細めて警戒していると、人シルエットが浮かび上がってくる。やがてはっきりと見えたその姿に、私は息を呑んだ。
「お父さん…!」
父が、死んだはずの父がすぐそこに立っている。
生前と変わらない穏やかな笑みを浮かべて私を見つめている。
溢れ出す感情のままに私は叫んだ。
「お父さん、お父さん、会いたかった!!」
手足を必死に動かして父の元へ近寄ろうとするけれど、どうしても父に近寄ることが出来ない。それでも足掻く私に、父は首を横に振った。
『澄玲。辛い思いをさせてしまったね』
「そうだよ、辛いし寂しいっ!なんであんな事故に!お父さんのせいじゃないのに!こんな、こんなの酷いよ!どうして!」
視界が潤んでゆらゆらと揺れる。父の姿が滲んでしまう。それでも、有り余る想いに声を上げることしかできない。
「お父さんが大好きだった」「ずっと辛かった」「お盆に会いに行けなくてごめんなさい」「独りぼっちにしないで」
父は眉を下げて困ったように笑った。いつもと同じ優しい笑顔。それがなにより好きで、大切だった。父と過ごした日々が、どれほど大きな宝物だったか。思えば思う程溢れて止まらない。それでも。
「あぁ…うそ…もうダメなの…?」
不思議と理解させられてしまう。父とこうして言葉を交わせる時間が残り僅かだということに。自分がまだ父と同じ場所に行けないことに。
「…お父さん。大好き。会いた、かったの…っく…!」
ボロボロと頬を流れ落ちる涙が、大切な時間を邪魔してくる。
『父さんも、澄玲が大好きだ。心から幸せだった。離れていても、ちゃんと見守っているから』
「うっ、でも、私もう…っ!一人じゃ、もう……!」
『大丈夫、澄玲にも行くべきところがある』
父が指差したのは、先程まで見つめていた光芒の道。
『この光が示すまま、歩いていけばいい。澄玲を大切にしてくれる人が待っている。父さんがこうして澄玲に会えた感謝を、その人へ伝えておくれ』
私は涙を拭って顔を上げた。目の前の父の姿はもう、半透明になって薄れている。
「お父さん…!」
『父さんはずっと澄玲の味方だよ。さぁ、光が消えてしまわないうちに進むんだ』
私の身体がくるりと反転して、差し示した方へ向く。父の方へ振り返ろうとしても思うようにいかなくて、その代わりに暖かい何かに背中を押し出された。直感的に、それは父の大きな手のひらだと思った。
一歩、足を踏み出す。
不思議な感覚だ、自分の意思なのか勝手に動いているのかわからない。
ただ堰を切ったように、勢いよく私は走り出した。父がずっと背中を押してくれている感覚。
振り返ろうとすると「真っ直ぐ前を見て」と耳元で父の声がした。
それから私は無心で駆けた。父の言葉を信じて、永遠に続いていきそうな光の道をただひたすらに駆け抜けた。身体が羽のように軽い。どこまでも走っていけそうだ。
『幸せになるんだよ』
優しい声が、最後に響いた。
**
ぽたり、と手の甲に落ちた雫に、沈んでいた意識が覚醒する。
あぁ、私は泣いていたのか。
なんだか周囲が騒がしい。
話し声が飛び交っているが、聞いたことのない言語であることに違和感を覚える。
閉じていた瞼を開くと、ぺたりと座り込んでいる私の膝と、白い石床が映る。ひんやりとした床の感触が足に伝わってきたところで、私ははっと我に返った。
見たこともない大広間の中心に私がいて、円を描くように周りに人が立っている。目が合った人々は驚いた顔をして数歩下がった。
その顔を見て、全員日本人じゃないことを知る。彫の深い顔立ちに、髪や目の色は様々。私みたいなアジア人は見当たらない。
「えっ…!?」
どういうことだろう、多分私は歩道橋の階段で倒れていたはず。そこから夢を見ていて…目が覚めたらここに居た。まさか誘拐だろうか。それとも介抱されていた?ともかくここはどこなんだろう。
「あ、スマホ…」
位置情報を見ればいい。スマホを入れていた仕事用鞄をキョロキョロと探すが、どこにも見当たらない。そういえば鞄は蹴り飛ばされてしまって、その後回収した記憶がない。
「うそ…」
手が震えだす。どうしよう、怖い、わけがわからない、ここはどこ。
浅くなる呼吸と共に押し寄せてくる動悸。手で胸をぎゅっと押さえつけたときだった。
女性の声がホールに響いて、一筋の光がくるりと宙を舞った。金色の光は、私の周りに舞い落ちてきて、溶けるように消えていく。
「スミレ、私の言葉はわかるかい?」
弾かれたように顔をあげると、ゆっくりとこちらへ女性が歩み寄ってくる。
このときの私は、混乱も乗じて呆けた顔をさらしていただろう。ぱちりと目が合ったその人の美貌に釘付けになってしまったから。
宝石のように美しい瑠璃色の瞳、陶器のような滑らかでシミ一つない白い肌、形の良い鼻と唇。それぞれが完璧なバランスで配置されている、恐ろしいまでの美貌。モデルみたいな等身に、騎士のような恰好良い服。性別を超えてもはや物語の王子様だ。
こんな人現実に存在するの?やっぱり私もう死んでる?
固まった私を見て、女性は少し困ったように首を傾げて「スミレ?」ともう一度私の名前を呼んだ。そこで私はようやく我に返った。
「あっ、は、はい、そうです」
「よかった、怖がらせてしまったね」
女性はそういうと、優雅な所作で膝を折った。その一つ一つが洗練されていて美しい。ぺたりと座りこんでいる私に、微笑みながらすっと手を差し出した。
「え、っと…」
どうしていいか分からず視線をうろうろと彷徨わせていると、掬い上げるように私の手を取って、包み込むようにきゅっと握られる。
じんわりと私の手に温もりが伝わってきて、それが不思議と緊張を和らげていく。気が付けば手の震えも収まっていた。私が落ち着いてきた頃合いを見て、女性はゆっくりと口を開く。
「初めまして、スミレ。私はアレクシア・ミア・ノルスタシア。あなたにずっと会いたかった」
そう言って、美しく微笑んだ。




