顛末
『過酷なパワハラに耐え続けた女性!たった一人の肉親であった父を喪い、行方不明に』『発見!パワハラ被害女性の鞄、通勤路で拾得物として交番に届出』
『会社の対応に非難轟々!大手企業傘下で不祥事』
『もみ消し対策か、SNS投稿の訳』
テロップと共に、憶測で被害女性の気持ちを代弁する臨床心理士。会社の対応について非難する専門家に、神妙に頷いて意見を求めるアナウンサー。
本人不在のなかで好き放題に騒ぎ立てるマスメディアに嫌気がさすが、澄玲がこちらの世界にとどまり続ける限り知らせるつもりは無い。
だから、私だけ知っていれば良いとアレクシアは思う。
就寝する少し前。
アレクシアは自室のソファーでディメンションスコープを覗いていた。
そこに映っているのはある男の部屋。
脱ぎっぱなしの服とコンビニのビニール袋が床に散乱し、所々に発泡酒の空き缶が転がっている。テーブルの上には飲みかけのウイスキーの瓶。そこに顔を埋めるようにして、男が突っ伏していた。
暗い部屋の中をテレビの青白い光が照らしており、荒れた部屋の中を縁取っている。
「なんで俺が」「あいつらのせいだ」「冬月さえ見つかれば」
「無理矢理にでも犯してやればよかった」「俺は悪くない」
耳をすませば呪詛のような、聞くに堪えない言葉を吐きだしている。
幽鬼のようにゆっくりと上体を起こした男は酷くやつれていた。目の下にははっきりと隈を浮かべている。かつての鋭気に満ち溢れた様子から一変したその人物は、澄玲を恫喝していた上司だった。
澄玲が出社しなかったあの日、あろうことかこの上司は澄玲の自宅へやってきた。
電話口で怒鳴って言い聞かせた澄玲が出社しなかった事が許せなかったのだ。
引きこもっていると確信しているのか、扉をガンガンと叩いて大声で呼びかけ続け、出てこないことにしびれを切らし「近所迷惑になるぞ!この部屋に住めなくなってもいいのか!」「それでも社会人か!」と怒鳴った。
こう言えば澄玲の罪悪感を刺激できることを知っているのだ。
ところが、偶々近くを巡回していた警察官がその声に気が付いた。
声を掛けられた男はうろたえつつも、繕った笑顔を浮かべて事情を簡単に説明する。
「父を亡くして傷心していたようで、心配で見に来た」
「明日から出社予定だ」
警察は自殺の可能性を考え管理人を呼び開錠することも考えたようだが、男が日中に本人と電話していることを踏まえ、経過観察とした。
警察が介入してきたことで余計な時間を取られ不快な思いをした男は、翌日の朝礼で部下たちに発散するかのように声を荒げた。
澄玲の人間性を貶し、自分がいかに気分が悪くなったかを。お前たちは違うよなと。
それを聞いて、ずっと傍観していた澄玲の同僚たちはようやく重い腰を上げる。澄玲に最悪なことが起こったのだと想像し、次は自分達がターゲットになると恐怖したのだ。口々に「冬月さんの為に動こう」と言い出して団結した。
そこからは早かった。
同僚の一人が自衛の為に恫喝する音声を大量に録音していたのだ。
全員で人事部長のいる本社へ赴き告発。証拠も揃っていて、澄玲とも連絡が取れなくなっている。こうなると動かざるを得なかった。
すぐさま男は謹慎処分を受けたが、それはたった三日で終わった。元々ブラック気質の社風に加え、上に良い顔をしていた男に軍配が上がった。
上司が直ぐに出社してくる。ということは、告発した自分たちは報復されるということ。更に恐怖を覚えた澄玲の同僚たちは、最終手段に出ることにした。
労働基準局に訴えるのと並行して、SNSに音声データを投稿したのだ。すぐに拡散されて、同日に週刊誌の取材依頼が入り全てを打ち明けた。幸か不幸か、この会社は大手ゲーム会社の下層ではあるが傘下であり、話題性があったのだ。
あっという間に世に知れ渡り、この男と会社は窮地に立たされたのである。
当然謹慎期間は伸びて、丁度一か月後に下された判断は懲戒解雇だった。会社は当然のごとく男を切り捨てた。SNS上で氏名と顔を特定され、一部過激なアカウントでは攻撃的な言葉と共に「こいつを許すな」と拡散されている。
まさに泥沼。社会復帰は当分難しいと言えるだろう。
情報番組で流れた罵声が自分の夫のものだと知った妻は、恐怖に引きつった顔で息子を連れて実家へと戻っていった。ポストには離婚届が突き刺さっていた。まだ幼い息子が男の被害者になることを恐れたのだろう。
それ以前に、男の不倫が妻にバレていたことが大きな理由だろうが。
そして誰も居なくなったこの家に一人、酒に飲まれている様がこの二か月程で起こった転落劇の結末だ。
この男はあれほど過酷なパワハラをしていたにも関わらず、澄玲に好意を持っていたことにアレクシアは気が付いていた。たまに舐めるような視線を澄玲に向けていたし、しょっちゅう肩や背中に手を触れていた。きっと従順になるよう手懐けようとでも思っていたに違いない。
「ははは…これはこれは、愉快な転落劇だな」
アレクシアはワインを片手に、蔑むような視線を向けて笑っていた。
爛々とした瞳で仄暗く笑う姿は、平民が見れば無条件で平伏してしまうだろう。普段の静謐とした彼女からは想像できない、苛烈な一面。澄玲に関することにのみ溢れ出てくる様々な感情のうちの一つ。
男の声はぼそぼそと良く聞こえないが、アレクシアは煩わしそうに手をスコープに翳して音声を切った。
「物語のクライマックスだと言うのに、名残惜しくスミレの名を呼ぶなど、度し難く汚らわしい」
アレクシアはこの男をどうしても許せなかった。
澄玲を執拗に追い詰めていた男だ、毎日その様子を見続けたアレクシアは、嫌悪を通り越して憎悪していたと言っても過言ではない。
もし澄玲が日本へ戻ることになれば、一番の障害になり得る警戒すべき人物。この男に居場所を知られてはいけない。出会ってしまえば最後、逆恨みして報復に出てくるのは必至だ。
だから動向を探っていたのだけれど、あっという間に自滅していく様は痛快だった。アレクシアは自ら手が下せないことをもどかしく感じていたし、正直まだ苦しみ足りないとは思うが、苦悩はまだ始まったばかりなのだ。まさに因果応報。澄玲を苦しめた罰だ。
アレクシアの中に渦巻いていた黒い感情は無くならないが、少しは溜飲が下がる。
今頃になって保身で動き始めた同僚たちにも思うところは多々あるが、状況が違えば澄玲とアレクシアは出会えなかったのだ。だから目を瞑る。限りなく黒に近いこの感情は、アレクシアが棺まで持っていくべき不善の心だ。
「スミレは私が幸せにしてみせる、お前はそこで嘆き続けていたら良い」
この男に相応しい末路にグラスを掲げて、ワインを煽った。見世物として楽しかったのはここまでだ。この男の観察は一旦ここで終えることにする。
澄玲がこの世界に居る限り、もうこの男はどうでも良い。
そこから思考が切り替わったアレクシアは、ぱたんとディメンションスコープを閉じて澄玲のことを想う。今日は魘されてはいないだろうかと考え、そろそろ寝室に行こうかと腰を上げた。
彼女はこの執着が、どのような感情から発生しているのか未だ気付いていない。




