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1ー1


震える手に力を込めて、言葉を絞り出す。


「お休みを頂いてしまい、申し訳ありませんでした。葬儀が終わって…今日東京に戻ってきました」

『はぁ…随分かかったなぁ。納期迫ってるからすぐ出社、泊まる準備も忘れるなよ』

「今日付けで辞めさせてくださいっ、お願いします…!」

『はっ…?あのなぁ、そんなん通用すると思ってるのか?何度も言ってるけど、俺が目を掛けてやってるうちが華だからな。寧ろ感謝してほしいくらいだってのに』


嘘ばっかり。

わかっているんだ、この上司に沢山仕事を押し付けられていること。目を掛けているんじゃない、目をつけてるだけ。


「っ…ごめんなさい、それでも、今日限りで退職します」

『はぁ…父親が死んだことには同情するよ。その見た目じゃ男もいなさそうだしなぁ、甘えられる唯一の男がいなくなって寂しい、ってところか』

「あ…あの、すみませ…っ」

『あー否定しないのね。まぁどうしてもって言うなら慰めてやるけど。言っておくけど俺は本意じゃないからね?部下と関係を持つのなんて…でもそれで冬月にやる気が戻るなら…なぁ?』


舌なめずりするようなねっとりとした声色に、ぞわりと背筋が粟立つ。


「む、無理ですっ!ごめ、なさっ、もう辞めさせてください…」


バン!

受話器越しに机を叩く音。次に飛んでくるであろう怒声を想像して思わずスマホを床に落とした。


『ごちゃごちゃ言い訳するな!社会人だろ!!いいか、今すぐ会社に来い!来なかったらどうなるかわかってんな?』

「あ…あっ…!」


通話終了と表示されたスマホを、茫然と見つめる。

いつからだろう、上手く言葉が出てこなくなったのは。相手の表情を伺ってロクなことが言えなくなったのは。そんな自分が惨めで悔しくて、情けない。私は本当に社会不適合者になってしまった。


冬月澄玲(ふゆつき すみれ)、二十三歳。短大を出て現在の会社に入社してから三年。

仕事にポジティブに取り組めていたのはほんの数か月程度だった。ブラック企業だと確信した頃には、もう就活する気力も体力も奪われていた。

毎日終電近くまで残業、休日出勤は当たり前で寝ずに三日間仕事をすることもざらにある。


それでも同僚達との関係は良好だったので、なんとか続けていけると思っていた。その考えが崩れ去ったのは一年前。人事異動により地方から赴任してきた上司がとんでもない人だった。部下に高圧的に仕事を押し付け、上にはごまをする典型的なパワハラ上司。しかも私は何故か目を付けられてしまい、理不尽が私だけに集中し始めた。仕事量が増え、ありとあらゆる嫌味を言われ、こき使われる毎日。

同僚たちは私を少しずつ避けるようになっていき、あっという間に私は社内で孤立した。仕方のないことだ、標的が自分に移らないように自衛するにはそれが一番だから。ブラック企業に勤められる社畜には、現状に異議を唱えられる人物などいないのだ。


私の生活は健康とかけ離れていった。

食生活は偏り、カップラーメンと栄養補助食ばかり食べていたせいで不健康な痩身。食事は頭を働かせるために摂るもので、楽しむものではなくなった。

メイクも最低限しか出来なくなった。ファンデーションはしばらく買っていない。ドライアイが加速してコンタクトを付けていられなくなって、恥ずかしくて家でしか使っていなかった分厚い眼鏡を常に掛けるようになった。髪の毛も伸ばしっぱなしのぼさぼさ頭。洋服はこの一年買った記憶が無い。


『日々を丁寧に暮らせる人は、自分の人生も丁寧に生きられる』父がよく言っていた言葉が重く響く。


学生時代のお洒落や美容に気を使っていた私とはまるで別人だ。明るく元気、いつも楽しそうと評していた友人たちは、今の私を見てもきっと誰か分からないだろう。

集まりに都合をつけて欠席することが増え、私が意図的に欠席していることに気付き始めた友人たちも少しずつ距離を置き始める。今では誰からもお誘いは来ないし、私からも連絡をしない。あっという間に疎遠になった。


会わなくなったのは友人だけじゃない。唯一の肉親である父にもなかなか会いに行けなくなっていた。三歳の頃に私をおいて出ていった母の分まで、私のことを大切に育ててくれた父。成人してからは沢山親孝行したいと思っていた。だから父を心配させたくなくて、実家に帰る時だけは身なりをきちんと整えて明るく振舞った。仕事も忙しいけれど上手くいっているとアピールして、父が「そうか、頑張っているんだな」と笑うのを見て安心した。


最後に帰省したのは正月だ。心労が増した私はお盆に帰省するのをやめた。ぎりぎりまで迷ったけれど、今の精神状態では笑顔を取り繕うことが出来ないと思ってしまったから。

『仕事が忙しくてお盆に帰れなくなっちゃった。ごめんね』と送ったメッセージに既読がついて、スタンプと共に『わかったよ。無理はしないように』と返事が来た。


その文面が父との最期のやりとりになった。


翌週、帰る予定だったその日に父は事故でこの世を去った。対向車線を走行中のトラックが、車線をはみ出し父の車に突っ込んだ。全身を強く打った父は即死だった。トラックを運転していたおじさんは軽傷で、飲酒運転だった。


なんで、どうして私の父なの?

その瞬間、かろうじて保ち続けていた精神の糸が、ブツっと切れた音がした。


「私もう…どうやって生きていけばいいのかな、お父さん…」


泣いても泣いても、晴れることのない悲しみ。エンバーミングを施された父は、御棺の中でただ眠っているように見えて、なんで目を開けてくれないの、なんで死んじゃったのと何度も激情が湧き上がってきては嗚咽となった。

こんなことになるなら、意地でもお盆に帰ってくれば良かった。そうしたらあの道を通らなかったかもしれない。もう一度会って話したかった。声を聴きたかった。

とめどない後悔と悲しみに私は呑み込まれていって、極限まで擦り切れた心に、もう生きる気力は沸かなくなっていた。


それでも日々は否応なしに過ぎていく。

ひたすらに泣いて過ごした私は、ようやく重い腰を上げた。まずは仕事を辞めて、一人暮らしの家を引き払おう。この数年で築き上げたろくでもない生活を、なかったことにしよう。父と暮らしたこの家に戻ってきて、最期は思い出に浸って。

自分の後始末だけはやろうと思えた。


慶弔休暇なんてものはなく、溜め込んでいた有給で休暇申請をした。会社からは何度も連絡が来ていて、留守電にはまだ休むのかという上司からの嫌味がいくつも入った。一人暮らしの家に戻ってきて、お決まりのように掛かってきた一度目の着信に私は出たのだ。退職を願い出るつもりで。

それが先ほどのやりとりだった。

自分の情けなさに、ははっと乾いた笑いが口から出た。怖くて怖くて仕方がない。私は恐怖に直面すると、絵に描いたような弱者の挙動をしてしまう。

行く必要はない、このまま無断欠勤をして辞めてしまえばいい。頭ではそう理解しているのに。

自分でもわからない、あの上司に会うことを思うだけで手が震えるのに、行かないことを選ぶのが恐ろしい。

そうだ――社会人として、誰かに自分の尻ぬぐいをさせたくない。

だから出社しなければいけない。そう、これが理由だ。


自分という輪郭が曖昧になっていく。これが社畜根性ってやつなのかな、と他人事みたいに思う。消えたいと思っているのに、心無い言葉に傷ついているのに、行くことを選ぶ。ほんとうに馬鹿だなぁ、私は。

私はのそりと立ち上がって、目元を袖で拭ってから分厚い眼鏡を掛け直す。出勤用のシャツとスカートを身に着けて、玄関の扉を開けた。



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