ぼくは『英雄』から逃げる
「けどな―――いざ逃げるとなると、大変だぜ」
「うん」
「まず王国には報告はできねぇ。そして、誰にも言っちゃいけねぇ」
「うん」
「……当然、アイツの耳に入っちまったら……わかるよな?」
「うん」
シャハリの言葉に、僕は小さく頷いた。
最悪の展開は、想像するだけで頭痛がしてくる。
城から逃げ出して、それが露見したときに待っている未来。
そして――彼に、何を言われるのか。
「幸い、祝賀会ではアイツも酒を呑んでた。今頃はベロベロに酔っ払って、寝ちまってるだろうさ」
「じゃあ……祝賀会が完全に終わって、夜が更けた頃に……」
「最低限の荷物だけ持って、抜け出す……いいな?」
何度も、何度も頷いた。
誰にも聞かれてはならない会話。
それだけで、もう胸の鼓動は耳にまで響き、足は竦みかけていた。
魔王に挑んだあの夜よりも――よほど恐ろしかった。
けれど、もう決めたのだ。
僕は、“英雄”にはならない。
これからもう、“英雄”でい続けるつもりは、ない。
この作戦が誰にも知られぬよう、僕とシャハリは時間をずらしてバルコニーから広間へと戻った。
普段通りを装い、誰の目にも不自然に映らぬよう振る舞いながら、夜の訪れを待つ。
彼に気取られぬよう、必死に“英雄”を演じ続けた。
***
――そして、時は来た。
僕は静かに、足音を立てぬよう寝室の窓辺へと立ち、事前に用意していたロープを外へと垂らす。
蛇王の巣で手に入れた、異様に強靭なロープ――まさかこんな場面で役に立つとは思わなかったが、備えておいて正解だった。
慎重に身体を滑らせ、地面へと降り立つ。
城門を抜け、シャハリと落ち合うことができれば――逃げ出せたも同然だ。
僕はもう、“英雄”にならなくて済む。
「よお、ちゃんとバレずに逃げられたな」
城門の番兵には予め金を握らせていた。通過した先で、シャハリが待っていた。
彼女は笑みを浮かべ、身軽な装いをしている。持ち物も必要最低限で、武器と道具のみだ。
「多分大丈夫……ここに留まっている方が危ない。早く行こう……!」
「あっ、お、おい……!」
そう言って、僕はシャハリの腕を掴み、街の奥へと駆け出した。
なるべく遠くへ。
なるべく早く。
なるべく気づかれぬうちに――。
「――ところで……どうして僕と一緒に来てくれるの?」
逃げながら、ふと疑問が湧いて口にした。
「い、今さら聞くことか、それ……」
息を切らしながらも、シャハリは小さく呟いた。
「そ、そりゃあ……オレは、ヒデオを……ダチだと思ってるからさ……」
僕の耳に届いたのは、かすれた声だった。
でも、それだけははっきり聞き取れた。
「ありがとう」
素直に、そう言葉がこぼれた。
「あ、ああ……どういたしまして」
やっぱり、シャハリは僕の唯一の理解者だ。
その事実が、嬉しかった。
自然と腕を引く手に力がこもる。
「いっ、痛ぇってヒデオ!」
「あっ、ごめん……」
シャハリの声にハッとして振り返り、苦笑を漏らす。
王城を離れ、都からも抜け出せた。
ようやく、胸を撫で下ろせそうだった。
そう、思った矢先――。
「――英雄様、どちらへ行かれるおつもりで?」
不意に響いた声に、僕とシャハリの足が止まった。
と同時に、全身から血の気が引いてゆく。
――彼に見つかってしまったのだ。