毒殺の花嫁~殿下、残念ながら私の攻略対象は2番目です!~
全身を焦がしていく感覚は酷いもので、もう二度と味わいたくないと願った。
どこかの誰だか分からない偉い存在。
多分、神様にそれが認められて、気づけば今ここにいる。
ピコンっ!
と、そばで耳慣れた電子音がした。
嫌な予感を胸に抱いて、文乃は振り返る。
何もない空間にいきなり浮かぶ、透明な四角い物体が一つあり、中には見慣れた文字が浮かんでいた。
「ステータス……画面?」
そこにはデカデカと喜ばしさを告げるように、輝く文字が点滅する。
『毒殺耐性獲得!』
見たことのない文字のはずなのに、なぜか理解できてしまう。
頭の中にあった奇妙な違和感が、さっと通り過ぎていく。
とたん、昨夜の記憶が鮮明によみがえった。
フルートグラスからシャンパンを飲んだら、喉が焼かれる痛みに襲われてしまい、息ができなくなった。
口から泡を噴き出してけいれんする自分の肉体を、文乃は別人の視点から見たような錯覚にめまいを覚える。
「は? 私、死んだ? え、まじか……」
困惑しながら有り得ない、といつもの口調で文乃がぼやくと、心の中で誰かが叫んだ。
「そんな汚い言葉遣いをしないで、仮にも男爵家の娘なんだから!」と、彼女は言っていた。
誰の声だろうと確かめる間もないまま、言葉は静かな部屋の壁に吸い込まれて消えていく。
同時に、彼女の声もだんだんと弱まっていき、最後には乾いた地面が雨水を吸い込むように、文乃の中に染み込んで消えた。
「あ……あれ」
自分の大事なものを失った気がして、そんなため息が落ちる。
虚無感に襲われたとたん、ずきんっと頭が鈍い痛みに晒され、落ち着いたらすべてを理解していた。
「転、生……? え――嘘! ‥‥‥ここは‥‥‥ゲームの世界?」
それが分かったのは、あの光景に見慣れた文字がもう一つあったから。
空間に投影されたステータス画面の左上。
そこにはくっきりとした日本語で『毒殺の花嫁』とゲームのタイトルが並んでいたからだ。
あからさますぎ。
そのおかげで、ここがどこで自分が何者かも、なんとなく理解してしまう。
だって、寝かされていたベッドから見える鏡にくっきりと映し出されているのは、千時間以上を費やしたゲームのヒロイン、レベッカだからだ。
そこまで分かった瞬間、佐藤文乃はレベッカになった。
少なくとも、心に自覚が生まれたのは、確かなことだ。
アディッテ男爵令嬢レベッカ
毒殺される予定の、殿下の花嫁。
つまり、王太子妃になる予定の――今はまだそうではないのだけれど。
そこに写っているのは、搾りたてのミルクのように白い肌をした、金髪碧眼の美少女。
豊かに波打つ、混じり気のない金色の髪。
長くて濃いまつ毛の下には、澄んだ湖の底のような苔色の瞳がある。
垂れ目がちなに目は、恐怖と怯えが見え隠れしていた。
小さくて濃いぷっくりと膨らんだ唇は真紅の美しさを保っている。
土気色に色あせた頬は、レベッカがようやく落ち着きを取り戻すと、薄く朱色に染まり始めた。
驚きのあまり、言葉を探している唇が半ば開かれてどこか間抜けだが、この際、見なかったことにしておく。
自分で言うのもなんだか、昨晩の夜会に参加していたどの令嬢よりも、美しい。
それに華奢でほっそりとしながらも発育の良い身体を見ると、ああ、あのゲームの中にいるのね、と両肩を抱きたくなる。
「すごい! ちょっと待って、これ悪い冗談じゃないよね? 本当に……」
転生した! 驚きだった!
前世の日本で流行だった悪役令嬢転生モノの物語たち。
仕事の忙しさとストレスのはけ口にむさぼるように読んだたくさんのそれを思い出し、なんだか感動を覚えた。
まさか自分が当事者になる日が来ようとは、予想していない。
ついでに自分のあられもない姿がそこには映っていて、これはまずい、とシーツで肌を隠す。
昨晩着ていたはずの、あの豪奢なドレスはどこに行ったのか。
胸元が大きく開いたイブニングドレスに身を包んだあの時、レベッカだった彼女は憧れの舞踏会、憧れの社交界デビュー、憧れの社交ダンスに、酔いしれていた。
そのせいで余計なトラブルに見舞われたのだが――。
ウェイターが持ってきたトレイから、彼のために用意されたシャンパンを間違えて取ってしまい、口を付けたらこの有様。
「いやでも……。怪我の功名?」
そんなわけないでしょ! とどこかで誰かが叫んだ気がした。
ついでにレベッカだった時の記憶と前世の記憶が入り混じり、また頭を鈍器で殴られたような痛みが通り過ぎていく。
前世の自分は佐藤文乃。
どこにでもあるような平凡な顔立ちと平凡な名前と、ストレスのせいで過食となり醜く太った外見と、不況のせいで就職難に合い、派遣された製薬会社の工場ラインで働いていた過去を思い出す。
どんな不手際があったのか分からないが、薬品事故で猛毒の白煙に巻き込まれて、たった27歳で死亡した。
思い出せばストレス解消のためにこのゲームにはまったなあ、と腕組みをする。
今世であるレベッカは、王族に連なる貴族の末裔だ。
しかし、家は没落寸前。
家格だけは高いが極貧に生きるという、どん底の生活を送っている。
末端だが王位継承権もあり、そのプライドにしがみついている両親は仕事をしようとしない。
そんな親と違い、レベッカは生まれた時から庶民と接して育ってきた。
自分の境遇をよく理解していた彼女は、自らアルバイトをして家計を助けるような、貴族令嬢らしからぬたくましい生き方と根性に溢れた女性だ。
このスタイル、この顔立ち、この家柄。
没落さえしてなければ、彼女はさぞや美しい貴族令嬢として、社交界の華となっていたに違いない。
「貧乏かー。貧しさは何もかも奪ってしまってしまうって聞いたけど、本当ね」
前世の文乃は男勝りな性格だった。
一人暮らしが長かったから家事や炊事には長けていたけれど、おしゃれや美容に使うお金を、全部、ゲームにつぎ込んでいた。
今から思えば、小学校から大学までずっと空手とかやってたから……体育会系のどエムな体質が災いして、あんな酷い労働環境の中で、挫けずにやってこれたんだと思う。
女よりも男らしく今だってベッドの上でシーツにくるまり、胡坐をかいて座ってしまう。
スカートよりもズボンの方が性に合っていた。
だからかもしれない。
こんなに悲惨な状況に転生したというのに、どうにかなると余裕がある。
「待って、なにがどうなってるんだろ。いまシナリオのどこらへん?」
混乱している記憶を、とりあえず時系列に整理した。
「確かビオラ様から依頼を受けて――夜会に潜り込んで、殿下にお会いして――」
殿下の婚約者になる最有力候補である伯爵令嬢ビオラから、傲慢だと噂の殿下がどんな男性なのか、確かめてきて欲しい、と依頼を受けたのは数週間前。
家柄だけが取り柄とほこる両親によりレベッカは礼儀作法を幼いころから教わっていた。
王太子妃補に偽装しても通用する作法を叩きこまれていたのが、幸いした。
二週間の契約で容姿がよく似たビオラに成り代わり、準備を整えて、社交界に挑んだのだ。
ところがその殿下の身代わりとなり愚かにも死んでしまった。
「やっぱり引き受けるべきじゃなかったよね。あんな痛みと苦しみを二度目……?」
二度目だと気づく。毒殺されるのは二度目なのだ。
一度目は現世での毒ガスによる事故死。
今回は毒による他殺。
「二度目、だわ。二度目だから、こんな耐性が身に付いた?」
毒殺される悪役令嬢の世界なのに、毒殺される耐性がつくってどういうこと。
それじゃあまるで、ハイファンタジーのヒーローみたいにチートを得たようなものじゃない。
ヒロインは自分が代わったビオラで、レベッカは彼女の怒りを買って毒殺されるのだ。
殿下を横取りした罪で。
「……間接的に殺されてるんですけど」
もしかしたらそのせいで、ゲームのシナリオ進行という強制力から、解放されたのかもしれない。
そうだとするとやっぱり思うことは一つだけ。
それは腐女子として当たり前の欲求だ。
自分の推しキャラ。
ゲームの中ではモブでしかない、王国の守り人。
王国騎士団、第二団長フェルナンド様に会ってみたい。
社会人になって働いた給料のほとんどをこのゲームに課金したのは、一重に彼を見て、毎日、その容姿と声に癒されたかったから。
前世と今世。
二つの人格と記憶が混じり合い、どうやら自分が……文乃がレベッカの外観と人生を受け継いだらしい。
「そんなわがまま許されるはずはないかな」
フェルナンド様は公務で忙しいし、爵位は高くても没落貴族の自分では、彼の元に会いに行くのにふさわしい装いすら用意できないだろう。
はあ……残念。
深いため息がベッドに落ちる。
それはさておき。
見覚えのないこの部屋がどこの誰のもので、先程から廊下の向こうで何やら騒がしい声がするのは一体どういうことだろう。
なんだか新しいトラブルに遭遇したような悪寒が背中を走る。
まもなくそれは、現実となった。
どかどかどか、とけたたましい長靴の靴音が、大理石の廊下をやってくる。
バタンっと勢いよく開けられたそこにいたのは誰でもない……殿下、
ではなかった。壮年の男性で制服を着用している。腰には剣を佩いていて、服装からゲーム内でいうところの騎士だと分かる。
続いて、ゲームの中で藍色のローブを羽織っていた神官が、衣装デザインそのままに扉をくぐって来る。
「ふむ。助かったか」
彼は、なんだかつまらなさそうにそう言い、手を挙げた。
騎士がなにか運んでくる。
手にしている物は、あのフルートグラスだ。
レベッカが飲んだ、あのグラス。毒入りのお酒がなみなみと注がれていた、あれだ。
彼はついっ、とレベッカの口づけの痕。
真っ赤なルージュが唇の痕を残しているそこを指先で拭きとると、ふっとそれに息を吹きかける。
すると、指先とグラスの双方から真っ赤な煙のような物が、漂い出て宙へと消えていった。
「迷惑な」
「……はい?」
「毒殺なんぞと企みおって、誰の仕業か知らんが、この程度の毒で殿下の暗殺を目論むなど、愚かにもほどがある」
いや、その犠牲者ここにいるんですけど?
文乃の心は届くこともなく、彼は「この程度のものなら、すぐに解毒が可能だ」と言って目を細めた。
そんなもんなんだ。
なら、毒殺耐性を獲得した意味なかったんじゃない?
「お待ちください、それではわたくしは死んでいない――?」
わたくし。レベッカの一人称がすらすらと口突いて出たことに文乃は驚いた。
彼女と一心同体なのだ。
「死んでいた。だが、蘇生させただけの話だ」
「そうでしたか――ならば、わたくしはどうすればよろしいのでしょう?」
「レベッカ嬢。こちらも知りたいことがある。あなたは本当ならばテルン伯爵令嬢ビオラ様のはず」
「うっ……」
ドキリ、とした。
バレている。
誰にもバレないと思ったのに。
「倒れたあとで、ビオラ嬢をよく知る学院の同期生の令嬢を呼びました。今夜は幾人かの学院生もここに招かれている、彼らは貴女を知らないと言った。よく似ているが、違うとの証言もある。これはどういうことか説明していただきたい。内容によっては貴女を殿下の毒殺未遂で逮捕しなくてはならなくなる」
「いや、その――ビオラ様に連絡は?」
「まだしていない。しくじったと知れ渡ったら逃げられてしまう。密やかに包囲してはいるがね?」
ああ、困った。
完全に殿下の毒殺を企んだ一味だと思われている。
これは偶然の事故なのに――毒殺はどうか知らないけれど。
もうレベッカとして生きなくてはならない、と文乃は覚悟を決めた。
よし――レベッカとしてこの世界で生きてみよう。
だけど待って。
「ビオラ様に毒殺されるのはわたくしなのに……」
「ほう、君は自分が毒殺されると知っていた、と? これは面白い」
「はっ!? いえ、そうではなくて、これは誤解……」
「その誤解とやらを詳しく訊きたいものだ」
神官は意地悪そうに微笑んだ。
レベッカはかいつまんで仔細を話した。
自分はアディッテ男爵令嬢レベッカであり、ビオラではないこと。
殿下の婚約者として最有力候補に挙げられているビオラから、容姿がよく似ているという理由で選ばれたこと。
殿下の人と成りを探ってきてほしいと頼まれたこと。
ビオラはこの婚約を受けるべきかどうか悩んでいることなどなど。
「――ですから、毒殺されるなんて夢にも思ってみませんでした。殿下を毒殺しようと思うのなら、自分が入れた毒の入ったグラスを誤って飲むなんてことするはずがありません!」
「これは困りましたな、『殿下』」
「ですから殿下ではなく――殿下?」
「そうです。レベッカ様。貴女が本当のアディッテ男爵令嬢レベッカ様であらせられるなら、王位継承権を持たれている王族ということになります。240番目と玉座よりはるかに遠い貴女様が、王太子殿下フィリップ様を暗殺するというのは……どうも非現実劇だ。うまくいったとしても、玉座に就くことは難しい」
「ええ……わたくしもそう思います。ですから、今夜のことは単なる偶然で」
「まさか、王位継承権をお持ちの貴女様が関わっているのに、偶然だと? それは難しい判断だ」
神官はにっこりと微笑んだ。
今度はどす黒い、怪しい微笑だった。
「どう――しろ、と……」
「貴女が先程おっしゃった、ビオラ嬢に毒殺されるのは自分、だという言葉が気になりますな。それならば、こちらは共闘できる。まあ、真実ならば、ですが」
「証明しろとおっしゃるのですか、こちらにフィリップ殿下暗殺の意図はなかった、と?」
「もちろん。できなければ男爵家は取り潰し。貴女様とビオラ嬢は極刑」
「‥‥‥」
逃げられない。
いいや違う。
蘇生された時点で、もう包囲されていたのだ。
殿下暗殺未遂事件を解明するための駒として、手放す気はなかったのだ。
「証明していただきます。できる、できないに限らず。御家族の命は大事なはずだ。失いたくないでしょう?」
「まず、なにからすればよろしいですか」
神官はサルマン、と名乗った。
蛇のような目つきをする男だ。
睨まれたら心を鷲掴みにされたような気分になり、身動きがとれなくなる。
「では――まず、脱いでいただきましょうか。王位継承権をお持ちであれば、あれをお持ちのはず」
「ひっ――そんな……」
サルマンと騎士が部屋を辞退し、代わりに女官と侍女たちがわんさかと部屋に入ってくる。
この国の王位継承権を持つ者は男女問わず、左胸に黒薔薇の紋章を受け継ぐ。
もちろん、入れ墨で偽造も可能だ。
判別するには一部の神官や巫女しか知らない呪文を唱えればいい。
偽物なら反応せず、本物ならば青白く点滅する。
レベッカの黒薔薇は月明かりに照らされた大地のように、青白く瞬いていた。
「これで本物のレベッカ殿下と判明した訳ですな。大変失礼いたしました」
「なんてひどい真似をするのかしら。神官とはいえやりすぎではないかしら?」
「やりすぎなのは、ビオラ嬢の真似をしてもぐりこんだ、貴女様のほうですよ、殿下」
「ううっ……」
反論できないくやしさに身もだえする。
こんな嫌味を言われるなんて、文乃の人生を足してもあるかないかだった。
いや、ない。
「では、提案と参りましょう。調べたところ、殿下には毒に対する耐性が人よりも高くおありの様子。それを活かして、殿下の毒見役を務めていただきます。なに、死んでも蘇生させるので心配要りませんよ」
「最後の一言で恐怖をあおる様なことを言わないで下さい! でもどうして毒見役?」
「簡単な話です。貴女様はもう死んだことになっていますから、フィリップ様の安全を確保するには死んでもいい誰かが必要なのですよ」
大仰しくサルマンは両手を広げて見せる。
つまり、いつ欠けてもいい道具となれと言っているのだ。
文乃時代ならともかく、レベッカとしてはまだ男性も知らない深窓の令嬢である。
肉体関係を強要されないだけまだましかもしれない、とレベッカは唸ってしまう。
拒否権はもちろんなかった。
「‥‥‥承知しました。でも、それでは今度はわたくしの命が狙われません? 毒見役とは常にさまざまな権力に翻弄されると聞いております」
「御心配なく。護衛をつけましょう。適任がいる」
「適任?」
「仮にも王位継承権をお持ちの姫君だ。適当な人材は当てがえません。そこで王都の周囲を管轄する部隊から彼を呼び寄せた」
王都の周辺を管轄。
思い当たるのは第二騎士団だ。
そうか、推しのモブ、フェルナンド様の部下か。
まあ、それならいつかは彼に会えるかな? でも、犯罪者の疑いを懸けられた女なんて相手にしない――。
と、そこで嗜好は途切れた。
「‥‥‥嘘」
「第二騎士団、団長フェルナンド君だ。剣の腕は王国でも一、二を争う。ご存知でしょうか?」
「え、ええ……噂、だけは」
「初めまして、殿下。第二騎士団長の座を預かります、フェルナンドです。以後、お見知りおきを。殿下の護衛を身命に賭けまして務めさせていただきます」
嘘、うそ、ウソ。
推しがいる。
誰よりも大好きで、彼がでてくるシーンをなんどもめぐるためだけに課金して、千時間を費やした推しが――そこにいるッ!
レベッカは感激で喉がつまりそうになった。
目の奥から熱いものが溢れてくる。
この世界を孤独で生きていくことを強いられたと思ったのに……推しがいる。
いてくれる。守ってくれる。大好きな推しが、フェルナンド様が!
もう、これ以上に幸福なことがあるだろうか。
推しと常に寄り添えるんだと思うと感動して涙が止まらない。
「あ、あの、レベッカ殿下? 大丈夫ですか……毒がまだ効力を?」
「いえ、いいえ。なんでも――なんでもありません。ただ……わたくし、この役目を死んでも果たさせていただきます!」
涙が溢れる顔を両手で覆い、レベッカは感謝した。
もう少しだけ、この世界で生きてみよう。
彼がそばにいてくれるのならば、と。
感激しているさなかに、扉がノックされた。
「どうだ、ビオラ嬢は――泣いているじゃないか」
「フィリップ様! ここへ来られては困ります!」
いきなりやってきたのは、レベッカが毒見役を務めるはずのフィリップ殿下だった。
金髪碧眼の美丈夫。しかし、女性の噂が絶えない問題児。
彼はサルマンの制止をどこ吹く風とこなし、泣いているレベッカが座っているソファーの隣に腰を下ろす。
「悪くない。ビオラよりもいい。伯爵令嬢よりもお前がいい、俺の妃になれ」
「は? いやいやいや、それはないでしょ!」
一瞬、レベッカの中身は文乃に戻ってしまう。
呆れた口調で拒絶されたフィリップは、頬を歪めた。
でも怒ってはいない。驚きと喜び、そして悪意に満ちた笑顔だ。
「毒見をするんだろう? なら俺の身体に毒がないか、夜毎、調べにくればいい」
「なっ――!」
泣いていたのも忘れて、レベッカは顔を真っ赤にする。
頬に残る涙のあとを、フィリップは親指でぐいっと拭うと、ペロリと舌先で舐めた。
「フィリップ殿下、相手も王位継承権をお持ちの御令嬢です。お戯れはそれくらいに」
「変わらず堅いな、フェルナンド。まあ、そういうことにしておくか」
なにがそういうことなんだ、とレベッカは怒りで頬が熱くなる。
ぎりっと歯がなり、悔しさで額に皺が寄った。
文乃と同じくレベッカはどこか男勝りで礼儀に厳しい性格なのだ。
二人の性質が合わさった今、フィリップ殿下は嫌な奴、と頭の中で認定されてしまう。
「だが、夜伽は命じてもいい……」
「やめっ――やだ」
フィリップはレベッカの顎をくいっと持ち上げた。
今にもキスしそうな勢いだ。
近い近い、距離が近い! 推しはあなたじゃないの!
私の本命はあなたじゃなくて、キャラ投票で2番目のモブキャラ、騎士団長なんです――!
レベッカの心が悲鳴を上げると、フェルナンドが二人の顔の間に手を差し込んでくれた。
つまらないな、とフィリップはぼやき、待っているぞと言い残して退室してしまう。
「あの、その……ありがとうございました。フェルナンド――様」
「俺のことはフェルナンド、と。貴女の忠実な護衛となりますよ、レベッカ様」
「うっうう……ありがとうございます」
彼の真摯な瞳でじっと見つめられると、自分の心を認めないわけにはいかない。
わたくし、この方に恋をしてしまっている――。
レベッカは彼と引き合わせてくれる原因を作ったビオラに、少しだけ感謝した。
二人はこの後、フィリップを巻き込んだ王室の政略争いに巻き込まれていく。