09. Day8
週初めの月曜日。
放課後になると、はやる気持ちを抑えて部室に向かった。
「亮太くん。来てくれてありがとう」
顔を合わせた高崎は作り笑いすら満足に出来ていない。笑顔に似た何かを張り付けていた。
「ここあ。今朝、先に行っちゃうなんてどうした? なんかあったのか?」
「……ごめん、伝えてなくて。えっと……そう、クラスの用事があったから……早く家を出たの。一緒に登校出来なくてごめんね」
「あー、いや。別に怒ってないし。そういう事じゃなくて、特に何もなかったならそれで良かったよ」
「ごめんね。あと…………メッセージも……せっかく貰ったのに……返してなくてごめんなさい。昨日は忙しくて……家の用事とか色々で……」
「ああ、そっちも気にしてないよ。ほら、そもそも大した内容じゃないし、わざわざ返すようなもんでもないから。気にしてないから、ここあも気にするなよ」
「うん。……ごめんなさい」
ああ、思った以上に高崎は重症だ。大丈夫なのだろうか。このまま計画を進めてしまっていいのだろうか。ちょっと不安になる。まあ、やるんだけどさ。
「それで、本題は何? 俺に話があるんだろ?」
「うん。あのね、その……催眠術を……亮太くんに掛けさせて欲しいの」
「…………………………催眠術? ……先週の続きをやりたいってこと?」
「うん、そう……じゃなくて、先週は失敗しちゃったから。もう一度だけ、亮太くんに催眠術を掛けられるか試させて欲しいの」
「試すのは別に構わないんだが……ああ、いいよ。それが必要なら協力するよ」
「亮太くん、ありがとう。今日で最後にするから。失敗しても、もうお願いすることはないから。協力して欲しい」
「まあ、分かった。ここあの好きにすればいいよ。気の済むまで付き合うからさ」
「ありがとう。…………だから全部終わらせるね」
◇
「もう貴方の体に力は残っていません。頭の力も抜けているので思考することもできません」
いつもより元気のない声で催眠誘導の手順が進んでいる。ただ、始まってしまえば高崎の口も回りだし、ちゃんと喋れるようになっていた。
しかし、あれだけのことがあって、今日も催眠術を続けるとは想像すらしていなかった。何が始まるのか全く予想できない。不意打ちを食らった気分だ。
「貴方の体は動かない。何も考えることができない。ただ、私の声にだけ従っていれば良い。耳を傾ければ良い。それがとても心地よく感じます」
さて、催眠誘導の手順は全て終了した。
これで俺は催眠状態ということになり、今から高崎の暗示が開始されるはずだ。
「暗い、何もない空間に貴方は居ます。段々と貴方の身体は沈んでいく。貴方の中の深いところへ落ちていく。深い深い場所へゆっくりと沈み込んでいきます」
「貴方は今、心の最奥まで辿り着きました。目の前には二つの扉があり、厳重に鍵が掛かっています。扉を開けるとそれぞれの小部屋へと繋がっています」
「左側の扉を開けて中に入れるのは、貴方が大好きだと思う特別な女性だけです。心の距離を縮めたい。恋人にしたいと願う女性だけ部屋に入ることが出来ます」
「では、左側の扉を開けてみましょう。貴方の掌には小さな鍵が握られています。可愛らしい装飾の施された小さい鍵です。その鍵で扉を解錠しましょう。貴方は扉を開けて中に入ります。部屋に入ると暖かく心地の良さを感じます。心が安らぎます。その部屋を見回してください」
「目の前には一人の女性が立っていてこちらを見ていますね。貴方が大好きな、恋人にしたいと願う女性がそこに居ます」
「さあ、彼女の名前を私に教えてください」
「高崎ここあです」
彼女の名を口にすると、軽い溜め息が聞こえた気がした。
「ええ、そうです。貴方の目の前には、高崎ここあが立っています。………………ごめんなさい」
「……えっと、はい。そうですね。彼女を部屋から連れ出しましょう。右腕を伸ばして彼女の手を握ってみてください」
「握りましたね? では、そのまま手を引いてください。部屋の外へ彼女を連れ出すのです」
「彼女の手を引き、貴方は部屋の外へ向かいます。ほら、彼女の右足が部屋から出ました。彼女のことが好き、その気持ちが薄らいでいきます」
ここまで聞いて、ようやく高崎の目的を察することが出来た。
彼女はこれまでの全てを無かったことにしようとしている。そういう暗示をかけようとしている。それが彼女のやろうとしている事だろう。
「続けましょう。そのまま更に外へ連れ出してください。徐々に、彼女は部屋の外を出ていきます。右腕、胴体、左腕。彼女の身体がどんどんと部屋の外へ出ていきます」
「意識してください。とうとう残っていた彼女の左足も部屋を出ました。見回してください。もうこの部屋には誰もいません」
「よく見てください。この部屋は恋人にしたいと願う女性だけしか入れません。そして、今の貴方の小部屋には誰もいません」
「貴方はもう自由です。今の貴方には恋する女性がいません。そして、貴方は自分の意思で好きになる女性を選べるようになりました」
「もう大丈夫です。もう貴方を縛るものはありません。もう貴方は……高崎ここあの事を……好きでは——」
彼女の言葉は途切れ、最後まで聞くことはできなかった。
嗚咽が聞こえる。何度か鼻を啜る音も聞こえてきた。時折、布の擦れるような音がするのは、ハンカチを取り出しているからなのだろうか。
長い時間待った。あまりにも長いので演技を投げ出して、起き上がってしまいたい衝動に駆られる。それを懸命に抑えた。ちゃんと最後まで聞き続けなければならない。そうしなければ彼女の決意に背くことになる。
何度目かの咳払いの後、喋り出す雰囲気を感じたので耳に意識を向ける。鼻を啜る音はいまだに聞こえ続けていた。
「はい、続けます。そうです……貴方は高崎ここあの事を……もう好き……ではありません。ぐすん。彼女を好きになる……必要も……ありません」
「彼女を女の子として見なくても問題ありません。ぐすっ。大丈夫です。貴方……の中での彼女は……ぐすん……仲の良い………………幼馴染の友人…………になるのですから」
「だから貴方は……亮太くんは……高崎ここあを好きでいることを…………もうやめます」
そこで鼻声だった彼女の声は一旦途切れる。
大きな深呼吸の音が繰り返される。呼吸を続けることで必死に心を整えようとするような、そんな雰囲気と共に。
しばらく待つと、また咳払いの音がした。彼女の声に集中する。
「少しイメージを変えましょうか。頭の中でゴム風船を想像してみてください。息を吹き込むと膨らむ、あの風船のことです」
「それでは、ゴム風船を口元に運んで息を吹き込んでみましょう。大きく息を吐いてください。風船が少し膨らみましたね」
「貴方の体内には私が催眠術で掛けた暗示が残っています。思い出してみてください」
「貴方の中には、高崎ここあを見ると可愛く感じる暗示が残っています。その暗示を風船に向かって吐き出してみてください」
「もっと大きく息を吐いてください。貴方の中に残った暗示が流れて、風船に吹き込まれました。風船が膨らみましたね。そして、貴方の中の暗示も一つ消え去りました」
「貴方には、高崎ここあを好きになるという暗示が残っています。恋人にしたい、そういう暗示です。意識して思い出してください」
「その暗示も乗せて、風船に向かって息を吐き出してみてください。風船がどんどん膨らんでいきます。そして貴方の中の暗示も一つ消え去りました」
「彼女をデートに誘うという暗示も残っていましたね。こちらも風船に吹き込んでみましょう。更に大きく膨らみます。どんどん膨らんでいきます」
「そして貴方の中の暗示も一つ消えました。もう彼女をデートに誘おうとは思いません。一昨日のはデートではなく、幼馴染と遊んだだけです。だって、デートは……好きになる予定の人とするものなのですから」
「手元のゴム風船に意識を向けてください。大きく膨らんだ風船です。貴方に掛かった暗示の詰まった大きなゴム風船です」
「では、ゴム風船をゆっくり空に向かって投げてみましょう。手放された風船は徐々に空高く昇っていきます。どんどん昇っていき、貴方から離れていきます」
「風船は更に空へ昇っていきます。見える風船は小さくなり、貴方から遠ざかっていきますね。どんどん風船は小さくなります」
「風船が小さく見える。どんどん小さくなり、完全に見えなくなりましたね。貴方の側に風船はもうありません。貴方に掛かった暗示も完全に消えてなくなりました」
「暗示は全て消えましたね。だから貴方にとっての彼女は、ただの幼馴染になりました。妹のような存在です。恋をする……そういう対象ではなくなりました」
「この後、貴方は私の声に導かれて目を覚まします。目が覚めた貴方はこの場所で起こった出来事を忘れてしまうでしょう。しかし、催眠術に掛かったという記憶だけは貴方の頭の中に残ります」
「さあ、そろそろ意識を呼び戻しましょう。この後、十の数字を数えます。カウントが進むにつれてゆっくりと意識が浮上します」
「十、九、八——脱力していた身体に力が戻ってきます」
「……亮太くん、今までごめんなさい」
「七、六、五——靄のかかっていた頭の中がスッキリし、意識が徐々に戻ります」
「嫌いにならないで……なんて、私からは言えません。だけど……」
「四、三——間もなく意識が完全に戻ります。気持ちを整えて目覚める用意をしましょう」
「幼馴染でもいいから……貴方の隣にいさせてくだ……」
啜り泣く声がカウントを止める。少しすると大きく息を吐く音がした。呼吸と共に心も整えているのだろう。
しばらくの間、待っているとまたカウントが再開された。ただ、声は鼻声のままだった。
「二、一——もうすぐ……ぐすん……貴方は目を……覚まします。……起きる準備を……ぐすん……してください」
◇
遠慮がちに揺すり起こされて顔を上げた。
目の前にある顔は泣き腫らした様子を隠せていない。目は充血していて鼻まわりも赤くなっている。僅かに震える唇からは、また嗚咽が漏れてきそうだ。
彼女から顔を背けると、言葉を選びながら声をかけた。
「終わったか?」
「……うん」
返ってきたのは一言だけ。それでもう十分だ。彼女はよく頑張ったと思う。
逆の立場だとして、俺は彼女のように行動できただろうか。
自分の願いが叶うかもしれない。もう少しで望んだ未来を手に入れられる。そんな状況を彼女は自分の意思で切り捨てた。ちゃんと催眠術を終わらせた。そんな行動を取れる彼女は心の強い人だと思う。尊敬できる、素敵な女の子だ。そんな彼女に恥じないように、俺も行動しなければならない。
であれば、俺も終わらせよう。俺のやり方で催眠術をちゃんと終わらせてやる。
「ところで、ここあ。そろそろ借りを返してくれないか?」
「………………………え?」
泣いている女の子に借りを返せと迫る男子。中々に酷い絵面だ。高崎もそんな話をされるとは思っていなかっただろう。
案の定、予想外の出来事に彼女は口を半開きで固まってしまっている。お陰で涙も引っ込んだ様子である。それならば問題なし。多分最善だった筈。
「ほら、催眠術に協力する代わりに何でもしてくれるって約束したじゃん」
「えっと、そう……だっけ?」
「忘れちゃったの? 酷いなあ。初日にお願いされた時に約束したよな?」
「……そうだっけ? そうだったかも……」
高崎はどうやら覚えていないらしい。ここは少々博打だったから助かった。覚えていないなら好都合だ。
もちろん嘘偽りはない。ただ、冷静に俺の話を聞けば色々とおかしいことに気付いただろう。だが、今の彼女は冷静さを欠いていて気付いていない。バレていないなら何の問題もなし。このまま続行だ。
「じゃあ、何でもしてくれるってことでいいんだよな?」
「うん、そうだね。私にできる事があれば」
高崎から催眠術を受けてみて、これはイカサマだと思う気持ちは今も変わらない。
催眠状態になった俺を好きなように操る事なんて出来なかったし、催眠中に何されたのか俺の記憶にちゃんと残り続けている。知らない間に心を操られてしまうことなんてなかった。
それでも無理矢理に催眠術を肯定しようとするならば、催眠術とは術者と被験者との信頼関係に基づいて行われる茶番劇だと思う。これも前と変わっていない。特殊な環境下で、お互いが催眠術の支配下であるかのように『演技』をしているのだ。意識して演技する場合もあれば無意識の場合もあるだろうけれど。
とはいえ、実際に演技するかどうかの決定権は被験者である俺にある。だから術者である高崎は、拒まれないような心理状態になるよう俺を言葉巧みに誘導し、拒否されないであろう暗示を選ばないと、俺は言われた通りには演技しないのだ。
「言ったな、ここあ。なら、今すぐお願いを聞いてもらおう」
「……ふぇ? 今すぐ!?」
「なんだ、不満なのか?」
「え、ううん。別にそういうわけじゃないんだけど……」
「ああ、そんな心配しなくても大した話じゃないから。多分、軽めのお願いだから」
「そ、そっかぁ。うん、わかった。それで亮太くんは私に何をして欲しいの?」
「それは——」
高崎は俺に二つの暗示を掛けた。
一つは彼女を好きになれという暗示。
もう一つは彼女を好きになることをやめろという暗示。
相反する暗示だということは、一旦脇に置いておくとして。
受け入れるかどうかの決定権は俺にあるのだから、両方の暗示を拒否しても構わない。もちろん両方受け入れても良い。
そういうことなので、俺が受け入れても良いと思う暗示だけを受け入れても何の問題もない。だって催眠術とはそういうものなのだから。
「ここあ。俺とデートしよう。割引はないけど、また今週末に映画館デートしてくれないか?」
「…………ん? えっと、うん? あれ…………ごめんね、よく聞こえなかった」
「もう一度言うからちゃんと聞いてくれよ。高崎ここあさん、今週末の土曜日に俺とデートしてください」
「……どうし……え? …………なんで……どうして?」
高崎が望みを伝え、俺が受け入れてそれに応える。
先週の一週間、俺たちはこの行為を催眠術と呼んでいた。
ただ、これは別の言葉にも言い換えできるんじゃないのか。今はそんな風に思っている。
「デートの後に大事な話がある。俺たちの将来に関する大切な話だ。だから必ずデートの誘いを受けて欲しい」
だから、彼女の告白に対しては、正面から向き合って応えたい。