04. Day3
翌日、水曜日の放課後。
約束通りに部室へ向かい、今日も高崎による催眠術が始まった。
今日で既に三回目となる。彼女の台詞回しや手際の良さもかなり向上してきたように感じる。
「もう貴方の体に力は残っていません。頭の力も抜けているので思考することもできません」
催眠導入の手順は順調に進んでいる。お互いに手慣れたものだ。
ところで、高崎の催眠術の目的は一体なんなのだろうか。思い返せば、当初の目的は俺の女性関係を調べる事だったと思う。だとすれば既に達成されているはずであるが、この催眠術は今日も続いている。彼女の着地点はどこなのか。一抹の不安を感じる。
「貴方の体は動かない。何も考えることができない。ただ、私の声にだけ従っていれば良い。耳を傾ければ良い。それがとても心地よく感じます」
催眠導入の手順は終了したようだ。これで俺は催眠状態ということになる。次の暗示に向けて、高崎の声に意識を向けた。
「山田亮太さん。貴方の心の最奥には小さな部屋があります。扉には鍵がかかっており、その部屋に立ち入ることが出来るのは貴方にとって特別な存在だけです」
「貴方の手の中には小部屋の鍵があります。小さくて綺麗な鍵です。さあ、扉を解錠して部屋に入ってみましょう」
「小部屋の中は六畳一間の狭い場所です。貴方にとって心が落ち着く、穏やかな空気の漂う空間です。ホッと息を付ける、その場所には大切な存在しか足を踏み入れることは出来ません」
「部屋に入った貴方は、その空間に人を招き入れました。その人は誰ですか?」
質問されたので健介の名を答えた。
友人や男友達と呼べる存在は何人もいるが、心を許せる親友は一握りしかいない。その意味では、親友の健介は俺にとって大切な存在と言える。
言葉とは曖昧で不完全な道具である。特別な存在。大切な存在。言葉で表すのは簡単だ。しかし、示す対象は人によって微妙に異なる可能性があると思う。多分俺と高崎では捉えている対象が微妙に違うのだろう。
「健介って佐々木くんのこと!? え、思ってた答えと違う。どうしよう……」
困惑の色を感じる高崎の呟きを聞き流す。
付け加えるならば、その小部屋には高崎も出入りしている。彼女は合鍵を持っていて勝手に出入りし、今もお茶を飲みながら寛いでいる。
彼女とは物心ついた頃から一緒に過ごしていた。お互いに綺麗な部分だけではなく汚い部分も見ている。何度も喧嘩をした。扱い慣れない言葉でお互いの心を傷付けたりもした。それでも俺の隣に居てくれたし、これからも一緒にいたいと思っている。
既に高崎も俺にとっては特別な存在だ。彼女の望む形ではないようだが。
◇
しばらくの沈黙の後、小さな咳払いの音が聞こえた。思考を中断し、再び彼女の声に意識を向ける。
「山田亮太さん。先ほどの部屋の隣に新たな小部屋を増設しましょう。部屋の大きさは同じくらい。邪魔者が侵入しないように入り口には扉が付いています」
「心安らぐ空間で貴方の全てを曝け出しても何も問題はありません。安心して身を委ねてしまいたい。そう思う素敵な小部屋です」
「その部屋にはたった一人だけ、異性を招き入れることができます。貴方にとって特別で、あいし……好意を寄せる女性だけが部屋に入れます」
「貴方はその部屋の扉を開けました。中にいる女性は誰ですか?」
質問には誰もいないと答えた。高崎の反応はない。彼女の言葉を待つ。
「貴方は部屋に一人の女性を招き入れたいと考えています。少しだけ。いや、ほんのちょっとかもしれない。貴方が微かに好意を抱いているはずの女性のことです」
「貴方は…………高崎ここあを……その部屋に……特別だと思う女性だけが入れる部屋に…………招き入れます」
「ううん、分かってるの。今はまだ……亮太くんは嫌だと感じると思う。でも——」
口から感情が溢れそうになり、慌てて唇を噛み締める。
昨日の続きをするつもりなのだろう。高崎は俺の心に本気で介入しようとしていた。真剣に好意の矢印の向き先を変えようとしている。こんなにも積極的な彼女の姿は初めてだ。
「ちゃんと私を見てください。亮太くんお願いです。私を……高崎ここあを……部屋に入れてください」
「亮太くんが見てくれれば。時間さえ貰えれば。貴方はわた……高崎ここあの事を……きっと好きになります」
これは暗示と呼べるのだろうか。込められた感情が眩しくて冷静に受け止め切れない。
ただ、催眠状態で良かったと心底思ってしまった。だって、返事を返さず保留にできるから。そんな卑怯な考えが頭の中を占めていた。
◇
長い長い静寂が続いている。時折聞こえる吐息の音以外に沈黙を邪魔するものはいない。
正直助かったと思っている。心を整える時間が欲しかった。彼女の深呼吸の気配に合わせて俺も静かに息を吐く。
しばらく待つと咳払いが聞こえた。彼女も落ち着いたようだ。耳に意識を集中させる。
「うぅ、ちゃんとしなきゃ……えーと、はい。じゃあ、続けます」
「コホン。えー、貴方は心の最奥に小部屋を二つ持っていますね。その中の一つ、先ほど増築した小部屋に女性を招き入れたいと貴方は考えていました。その女性の名は高崎ここあです」
「貴方は部屋を解錠して扉を開けました。これでいつでも室内に入ることができます。それでは彼女の手を引いて中に入りましょう」
「彼女を中に入れることに少し抵抗を感じるかもしれません。でも安心してください。彼女は貴方の事を大切に想っています。いつも一緒に居たいと心の中で願っています。大好きという気持ちを胸の奥底に秘めています」
「貴方は彼女の手を引いてください。ほら、彼女の右足が部屋に入りました。何も問題はありませんね。貴方はリラックスしており安らぎを感じたままです」
「更に彼女の手を引いてください。彼女の左足も部屋に入りますよ。はい、彼女の全身が部屋に入りました。全く問題ありませんね。貴方の心は穏やかなままです」
「貴方の居る場所は心休まる空間です。その部屋で座っている彼女も心休まる存在です。安心して身を委ねても良いと思える人です。そんな彼女は貴方にとって愛情を感じる対象です。その彼女……高崎ここあは貴方にとって特別な存在になりました」
「部屋をよく見てみましょう。貴方にとって特別な彼女は、貴方の目の前に座っています。彼女の目を見つめてください。貴方は目が離せなくなります」
「彼女の目を見つめていると全身が燃えるように感じます。貴方の心臓が徐々に動きを速めて高鳴ります。胸の奥底にある『好き』という感情が膨らんでいきます」
「彼女の目を見つめ続けてください。胸の中で『好き』がどんどん大きくなります。膨らみ続けて溢れそうなほど大きくなりました。貴方は彼女の目が大好きになりました。貴方は彼女の目が大好きです。貴方は彼女のことが大好きです。彼女……高崎ここあのことが大好きになりました」
先程から高崎の暗示は続いている。頭の中で身近な物をイメージするよう指示し、次々と関連付けた別の物に印象を移す暗示である。少し思考が回る程度には冷静さを取り戻せたらしい。
高崎の本気度はようやく理解できた。ただ、彼女の暗示は俺には掛からない。着地点は……まだ見つけることは出来ていない。
「目の前には貴方の大好きな彼女が座っています。貴方は彼女の目を見つめ続けています。少し視線を下げてみましょう」
「貴方の視線が徐々に下がります。鼻先。頬、そして口。貴方の視線は彼女の唇で止まりました。彼女の口元をじっと見つめてください」
「貴方は彼女の口元をじっと見ています。もう目を離せません。彼女の唇の形、色。貴方には全てが魅力的に見えます。…………………大丈夫だよね?魅力あるよね?」
「えーと、そうです。貴方は彼女の唇を見ています。じっと見ています。見つめ続けていると触れたいと思うようになります。その……ちゅ、ちゅーをしたくなります」
そうですか、ちゅーですか……。
今日の高崎さん、変なスイッチが入って暴走してませんかね?お口から欲望がダダ漏れですよ?
高崎が覚えているかは知らんけど、彼女とキスは経験済みだ。もちろん幼稚園の頃の話だけれど。
当時の俺はマセたエロガキだった。そんな幼稚園児がキスという存在を知ったらどうなるか? 試したい、やってみたい。例に漏れず俺もそう思った。そして隣には高崎がいるじゃないか、と。そりゃ何度も迫ったよ。合意の上だった……はず。
「彼女の口元を見続けてください。彼女と、その……ちゅーがしたい。したくてたまらない。貴方は強く思います」
俺もエロガキだったけど、俺の記憶違いでなければ高崎も結構なキス魔だったと思う。
当時の俺と高崎はごっこ遊びをよく楽しんでいた。教師ごっこ、医者ごっこ。自動車教習所ごっこに、取り調べ室ごっこ。全部は覚えてないけどかなりのバリエーションがあったと記憶している。その中で夫婦ごっこ遊びをする時には、何か理由をこじ付けてキスしまくっていたと思う。おはようのキスとか、行ってきますのキスとか。
あと、ごっこ遊びをする時、何の状況で遊ぶのかは高崎が決めていたのだがいつの間にか夫婦ごっこしかしなくなっていた。そして、遊びが始まれば高崎からのキスの嵐だ。その姿はまるでキツツキのよう。唇を重ねる際に微妙に歯が当たる。コツコツコツという音付きで。
小学校に上がってからはしなくなったけど、当時の高崎も相当だったと思う。
だとすると疑問がある。彼女は自己主張しない子だ。正確には、希望は言うけど意見が割れれば取り下げるし、拒否されると思えば引いてくれる。そういう臆病な女の子だと思っていた。
本当にそうだったのだろうか?
やり方が遠回しなだけで強く自己主張していたんじゃないのだろうか。キスの件や、催眠術のように。あるいは俺が色々と見過ごしていたかもしれない何かのように。
よく知っているつもりだったけど、本当に俺は高崎のことを理解していたのか。ちゃんと見ていたのだろうか。そんなことを考えてしまう。
「でも、ちゅーするのは恋人同士でないとダメです。貴方は彼女とちゅーがしたい。ちゅーするためには恋人になる必要がある。貴方はそう考えます」
「ちゅーのために彼女と恋人になりたい。貴方は彼女……高崎ここあと恋人になりたい。高崎ここあと付き合いたい。恋仲になりたいと願うくらい高崎ここあのことを愛している。貴方はそう強く思います」
……いやいや、キスするために恋人になれよって暗示はどうかと思うんだ、高崎さん。流石に動機が不純すぎる。
「この後、貴方は私の声に導かれて目を覚まします。目が覚めた貴方はこの場所で起こった出来事を忘れてしまうでしょう。しかし、催眠術に掛かったという事実の記憶だけは貴方の頭の中に残ります」
「そして、高崎ここあを好きだ、その想いは胸の最奥にちゃんと残ります。目を覚ましても貴方は彼女のことを大好きでいることが出来ます」
「名残惜しいですが起きる準備をしましょう。貴方はこの場所をとても気に入りました。また来たい。もう一度心地の良い体験をしたい。貴方はそう考えています」
彼女は後催眠の口上を述べ始めた。
いつもより長く感じた催眠術の時間もようやく終わろうとしている。
「心地の良い感覚は貴方の心の奥底に残り続けています。私が『目を閉じて』と言えば、すぐに心地の良いこの場所へ戻ってくる事ができます。再び戻ってくることを貴方も望んでいます」
「さあ、そろそろ意識を呼び戻しましょう。この後、十の数字を数えます。カウントが進むにつれてゆっくりと意識が浮上します」
「十、九、八——脱力していた身体に力が戻ってきます」
「七、六、五、四——靄のかかっていた頭の中がスッキリし、意識が徐々に戻ります」
「三、二、一——間もなく意識が完全に戻ります。気持ちを整えて目覚める用意をしましょう」
周囲で人の動く気配を感じた。背後から遮光カーテンの開く音がする。
◇
「亮太くん、起きて! そろそろ帰る時間だよ」
高崎に揺すり起こされて顔を上げる。
「おはよう、ここあ」
「ふぇ? あ、うん。うん?」
惚けた表情の彼女を見ながら思う。
彼女が俺を『亮太くん』と呼ぶように、昔は俺も彼女を『ここあちゃん』と呼んでいたはずだ。けれど、小学校高学年の頃くらいに名前呼びはやめた。周囲に冷やかされたから。照れもある。思春期男子なんてそんなもんだ。
「じゃあ、帰るか。ところで明日の部活、ここあはどうするんだ?」
好きになる演技をする。それは一時的なものだ。すぐにやめて元に戻すことになる。だから、過剰に高崎の期待感を煽ってはいけない。
でも、このくらいであれば許容範囲内だと思う。そうであって欲しい。
「あ、えーと。やりたい……かな」
「了解。明日も部室に寄るわ」
「ま、待って! ……えっと…………呼び方……」
「ああ、なんとなく?」
苗字で呼んだあの時の、彼女の悲しそうな表情をさっき思い出したから。
「そっか。ううん。……嬉しかった」
口調と雰囲気から照れた笑みを浮かべているのだと思う。
でも、高崎の表情を直視できなくて彼女から目を逸らした。
◇
夕食を済ませて入浴後の自室。俺はメッセージアプリと睨めっこしていた。スマホの中では高崎との会話が続いている。
他愛の無いメッセージの交換は意外と楽しい。こんなことならもっと早くからやり取りを始めればよかったと素直に思う。
少し前までは俺から連絡することはなかった。家は隣同士で、部活も同じだ。わざわざスマホに頼らなくても話したければすぐに会える、そんな言い訳をしていた。実際は会いに行く勇気も持てないくせに。
<<声が聞きたい>>
送信する予定のない六文字を打ち込んでみる。すぐに消すつもりだ。送ってしまったら面倒なことになるからね。
高音で通りの良い声を思い出す。放課後、長い時間彼女の声を聞いていたから余計に耳に残っている。舌足らずな喋り方だが、不思議と聞き取れる。ちゃんと心まで届いている。
確かに、聞いていて心地の良い声だと思う。催眠術でそう暗示を掛けられたからではない。昔からそう思っている。でも通話しようとはしてこなかった。お互いすぐに会える距離に居るから。また言い訳だ。
文字を消し、言葉の代わりにスタンプを送った。それを合図に高崎からのスタンプの舞が始まる。
異性の幼馴染とは非常に面倒臭い。今でもそう思っている。
仲良くしていたら距離感が近いと言われた。好きなのか。付き合っているのか。周囲から冷やかされ、煽られる。
距離を取るようにしたら怒られた。高崎が悲しんでる、と。冷たい男だ最低だと。あの頃の俺はどうすれば良かったのだろう。
だから彼女は俺の妹になった。妹分だから意識するはずがない。家族のような存在だから当然の距離感だろう。ああ、これで問題は全て解決だ。きっとみんな幸せなはずだ。
時計を見ると日付が変わっている。そろそろ良い時間になってきた。
就寝の意を伝えるため寝ているアニメキャラのスタンプを送る。そのキャラはとても幸せそうな表情をしていた。