03. Day2
翌日の火曜日。その放課後。
ホームルームの終わった教室から真っ直ぐに部室へ向かい、その戸を引く。室内は既に遮光カーテンが引かれており薄暗かった。
「亮太くん、遅いよ!」
「いや、時間通りだし遅くはないだろ……」
そう反論しつつ、鞄を適当に置いて部屋中央の椅子に座る。それを合図にパタパタと動き出す高崎へ話し掛けた。
「催眠術を俺に掛けるんだっけ?」
「そうだよ。準備してるからちょっと待っててね」
「了解。しかし、催眠術かぁー。アレってヤラセなんじゃねーの? 本当に掛かるのか?」
「うーん、どうなんだろうね。亮太くんには掛かるかもしれないし、掛からないかもしれない。やってみないと分からないと思うの」
こちらに顔向けた高崎の口元が僅かに震えている。笑みを懸命に堪えようとしているように見えた。彼女は今の状況が楽しくて楽しくて仕方がないに違いない。それは当然だと思う。初めて試した催眠術はあっさりと成功したし、今日も簡単に成功するだろう。催眠術で何をしようか今もワクワクしているはずだ。
そしてヤラセを疑っている目の前の男は、昨日コロリと催眠術に掛かった。そんな事言ってる君もこの後すぐに催眠状態になっちゃうだよクスクスって感じだろう。高崎の心の声が聞こえた気がした。
そんな高崎は俺の掌の上で今も踊っている。この状況、かなり楽しいなあ。
「亮太くん、お待たせ! それじゃあ始めるね」
そう言う高崎は右手の蝋燭を灯し、顔の付近まで腕を上げる。
「山田亮太さん。私の手元にあるこの蝋燭の炎をじっと見つめてください」
◇
催眠誘導の手順は進む。基本的な流れは昨日と同じ。俺は黙って指示に従う素振りを見せるだけでいいのでとても楽だ。
「もう貴方の体に力は残っていません。頭の力も抜けているので思考することもできません」
「貴方の体は動かない。何も考えることができない。ただ、私の声にだけ従っていれば良い。耳を傾ければ良い。それがとても心地よく感じます」
ここで高崎の声は一旦途切れる。
催眠導入の手順はここで終わりだ。昨日は後催眠を掛けて催眠状態を解いて終了している。今日は何をするつもりなのか、ちょっと楽しみになってきた。
「山田亮太さん。今の貴方は深く暗い所に居ます。私の言葉だけが聞こえる、とても心地の良い場所です。私の声がとても気持ち良く感じます」
そう口にした高崎は一度言葉を切った。微かな息遣いだけがしばらく聞こえる。
少し待つと大きく息を吸い込む音がした。その後、吐く息の音の後に言葉が続く。
「心地よい私の声が聞こえます。私の言葉が貴方の胸の奥まで染み込んでいきます。とても気持ちが良い、安心する音色の声です」
「貴方は私の声を聞くと安心します。心の奥に掛けた鍵が外れ、素直な貴方になってしまいます。貴方は私の質問に正直に答えたいと思うようになります。どんなことでも私には嘘偽りない本音を喋ってしまいます」
「これから私はいくつかの質問を貴方に投げかけます。貴方は正直に本心を答えてください。本音を曝け出すのはとても気持ち良い。貴方は隠すことなく本心を喋りたくなります」
ここまで喋ると高崎はまたしばらく黙る。紙の擦れる音がするので何かを確認しているようだ。
さて、なんとなく予想してはいたが、高崎は俺に何かを聞き出したい様子だ。そして彼女の認識では、この後に俺の喋る言葉は嘘偽りないものとして扱われることになる。
実際は催眠術に掛かってないので偽り放題なんだけど、質問に答える際にはそれを念頭に置いておくべきだろう。
「山田亮太さん。貴方の好きな色はなんですか?」
「青色です」
催眠術では、術者と被験者の信頼関係の上で、被験者が受け入れても良いという暗示だけが実現される。被験者が嫌だと思えば拒否できるし、答えたくない質問には答えなくて良い。
その点において、高崎は正しい手順を踏もうとしている。本音を聞き出したいのであれば、まずは心理的ハードルの低い質問を続けて信頼関係を築くべきだ。その後に、徐々にハードルを上げていき、相手の反応を見ながら答え難い質問をぶつけるように進める必要がある。
「貴方の好きな食べ物はなんですか?」
「ラーメンです」
「貴方の好きな授業科目はなんですか?」
「数学です」
◇
その後も質問はいくつも続く。
いや、高崎さん。質問の数が多すぎるって。正確な時間は分からないが、結構な時間を質疑応答に費やしている気がする。質問の心理的なハードルも徐々に上がっている。
「貴方が最後におねしょをしたのはいつ頃ですか?」
「……小学二年生の夏頃」
うん、問題ない。幼馴染だけあって高崎は知ってる事実だからね。恥ずかしい質問ではないし何も問題ない。後で覚えておけよ!
「二ヶ月前に貴方のお母さんが処分したエッチな本のタイトルは?」
「…………月刊おっぱい大好き」
何故それを知っている? リーク元は母さんだろうな。あの人はどうして息子の秘密をすぐに暴露してしまうのか。
まあ、問題はない。「へー」と言う相槌に若干の冷気を感じるのは気のせいだろう。何も問題はない。男子はみんなおっぱいが大好きだからね。
立て続けに高いハードルを乗り越えた。身体と心が軽い。今ならどんな質問にも答えてあげられる気がする。
しかし、その後に高崎の言葉は続かなかった。しばらくは静寂が辺りを覆う。
今のが最後の質問だったのか、それとも次が本命の質問になるのか。少しすると高崎の深呼吸の音色が聞こえた。
「……この間、貴方と一緒に歩いていた女性は誰ですか?」
しばらく言葉を発しないでいると、「あれ?」や「どうして?」という呟きが聞こえてくる。
いやいや、質問が不明瞭すぎていつの話なのか本気で理解できない。一体どこを歩いていた時の話なのか。しかも催眠中だから質問返しするのも不自然だ。このままでは答えようがない。
「先週の土曜日。昼過ぎごろに貴方は駅前を歩いていましたか?」
しばらく待つと、聞き方を変えた同じ質問が来たので肯定を返した。
「その時、一緒に歩いていた綺麗な女性は誰ですか?」
「姉ちゃんです」
そうそう。先週末は姉ちゃんの買い物に付き合わされていたんだった。確かにうちの姉ちゃんは外見だけは超絶美人だ。性格は終わってるけど。
と言うことは高崎は最近の姉ちゃんと会っていないらしい。今年大学生になった姉ちゃんは髪色を染めて本格的に化粧するようになったからなあ。元々化粧しなくても美人に見える方だったけど、今は身内贔屓抜きにしても凄い綺麗になっててビックリする。しばらく会っていなければ気付かなくても仕方がないかもしれない。
答えを返すと高崎は軽く咳払いをした。
仕切り直したかったのか、彼女の中で何かを誤魔化したかったのかは分からない。ただ、質問はまだ続きそうな気配は感じる。
「り、亮太くん。今好きな人はいますか?」
……おい、高崎。口調が元に戻っているぞ。
「彼女はいませんし、好きな人もいません」
彼女いるかと言う質問も来る気がしたので、先回りして両方答えておいた。「ふ、ふーん。そうなんだぁ」という上擦った呟きが返ってくる。
「亮太くんの好きな……どんな女の子が好みですか?」
「年上だな。包容力のあるホンワカ美人なお姉さんが好みです」
兄弟姉妹が居る場合、恋人には異なるタイプの異性を求めるという話を聞いたことがある。俺の場合は結構合っていると思っている。
俺の姉ちゃんは性格がどキツい。大雑把だし、会話を交わせばナイフのような鋭い言葉で心を傷付けられる。癒しが足りないのだ。
だから恋人になる女性は優しくて甘やかしてくれる人が良い。妹タイプも悪くないけど、やっぱり年上の癒し系お姉さんに憧れる。胸が大きければ尚良し。
予想に反して、彼女のリアクションは何もない。しかし、何かを言い出そうとする気配は感じた。質問はまだ続きそうだ。
「じゃあ……えっと……その——」
自分は鈍感な人間だという自覚はある。恋愛経験もないし、女心もさっぱり理解できない。
そんな鈍い俺にも言い淀んだ先の言葉が推測できてしまう。この話の流れだ。つまりそう言う事なのだろうか。
「亮太くんは…………た、高崎……高崎ここあという女の子のことを……どう思ってますか?」
質問の上辺をなぞって答えを返すことは可能だ。耳障りの良い言葉を投げても良い。あるいは曖昧に答えて誤魔化すことも出来る。けれど、彼女が催眠術を持ち出してまで求めた本心はそんな事ではないだろう。
表情を見る事はできないものの、彼女の声色からは緊張と覚悟の色を読み取れる。声は震えていて言葉は辿々しく並べられていた。それが彼女の感情を強調しているように思える。
自惚でなければ、そして俺の勘違いでなければ、高崎は俺に好意を持ってくれている。質問に隠された本心はそういう事だろう。ならば、ちゃんと気持ちに向き合いたいと思った。
「高崎は素敵な女の子だと思うよ。可愛くて優しくて一緒にいると元気を貰える。恋人というより妹のような存在かな。これからも幼馴染として長く付き合っていければいいなあと思ってる」
ちゃんと彼女を振った。
勘違いだったらどうしようとは思うが、告白される前に振る。
正面から想いをぶつけられたら俺は同じように返したと思う。そしてお互いに意識して気まずくなり、疎遠になっていく。これまでの関係は確実に壊れてしまう。だから、催眠術という回りくどい手段を高崎は取った。臆病で優しい彼女は新しい関係性の可能性を求める一方、今の関係も失いたくないんだと思う。その気持ちは俺にも共感できる。
俺たちには時間が必要なんだ。お互いの気持ちに気付かない素振りを続けていれば、いずれお互いに恋人を見つけ、新しい関係性に軟着陸していける。だから、これで良い。そのはずだ。
「……うん、知ってる。亮太くんならそう言うと思ってた。……ちゃんと分かってるの。…………でも、諦めたくない」
催眠中ということになっているので彼女の話を聞くだけだ。そもそも俺に何かを言う資格もない。
ただ、これで催眠術という茶番劇は終わりになるだろう。後は時間に委ねるしかないと思う。
◇
長い長い沈黙の後、高崎は催眠術を再開した。後催眠を掛けて覚醒に導くためだろう。そろそろ下校時刻が迫っている頃合いだと推測する。
「山田亮太さん。今の貴方は深く暗い所に居ます。何も見えない。私の声だけが聞こえる。そんな心地の良い場所です」
「貴方はこの場所をとても気に入りました。また来たい。もう一度心地の良い体験をしたい。貴方はそう考えています」
「心地の良い感覚は貴方の心の奥底に残り続けています。私が『目を閉じて』と言えば、すぐに心地の良いこの場所へ戻ってくる事ができます。再び戻ってくることを貴方も望んでいます」
「この後、貴方は私の声に導かれて目を覚まします。目が覚めた貴方はこの場所で起こった出来事を忘れてしまうでしょう。催眠術に掛かった、その事実だけが記憶に残ります」
後催眠の流れは概ね昨日と同じ。忘却の暗示も掛けている。しかし、一つ異なる点がある。催眠術を掛けられたという記憶だけは残したいらしい。高崎の意図が分からない。彼女は言葉を続ける。
「目を覚ました貴方は近くの女性をす……高崎ここあに対して……好意を抱いている事に気付くでしょう」
高崎、その暗示は……。正直これは予想外。
高崎という女の子は自己主張をあまりしないタイプだ。俺が否定すれば引いてくれる。こんな強引な手段で想いを押し通そうとする女子ではなかった。それが俺の知っている高崎ここあだ。今、目の前には俺の知らない彼女が立っている。
「彼女と言葉を交わす度に、貴方の中に生まれた好意が大きくなります。高崎ここあの事を考えるにつれて、彼女への……その……恋心が強くなっていきます」
高崎にとっての催眠術では、彼女の決めた暗示は絶対だ。だから俺は彼女を好きになる演技をしなければならない。
もしもそれを否定するならば、催眠術に掛かった演技自体をネタばらしする必要がある。今、このタイミングで。この場所で。
しかし、今ネタばらししてしまうと彼女を傷付けてしまう事になると思う。俺には出来ない。演技なんて初めからするんじゃなかった。今更ながら後悔だ。
彼女を好きになる演技をする。こちらも良い事だとはとても思えない。彼女を大きく傷付けてしまうんじゃないかとすら思う。かといって、妙案があるわけでもない。
「さあ、そろそろ意識を呼び戻しましょう。この後、十の数字を数えます。カウントが進むにつれてゆっくりと意識が浮上し、高崎ここあへの好意が膨らんでいきます」
高崎はそれで良いのだろうか。
……分からない。彼女の気持ちが推し量れない。他人の思いに鈍感な俺には無理だ。
「十、九、八——脱力していた身体に力が戻ってきます。高崎ここあの事を異性として気になるようになります」
現状維持だ。妙案を見つけるまで時間を稼ごう。
時間を開ければ高崎も頭が冷えて、自分の誤りに気付くかもしれない。
「七、六、五、四——靄のかかっていた頭の中がスッキリし、意識が徐々に浮上します。妹分だと思っていた高崎ここあの事を一人の女性として見れるようになります」
それまでは彼女の希望通り、好きになる演技をしよう。
これが現状の最善策のはず。もう決めた。
「三、二、一——間もなく意識が完全に戻ります。気持ちを整えて目覚める用意をしましょう」
周囲で人の動く気配を感じた。背後から遮光カーテンの開く音がする。
◇
「亮太くん。そろそろ起きて! とっくに下校の時間が過ぎてるよ!」
高崎に揺すり起こされて顔を上げると、彼女の顔を見つめてみた。
そういや、好きになる演技ってどうすりゃいいんだろうね。恋愛経験ないから想像も付かないわ。
「……おう。おはよう」
「え、あ……うん。おはよう」
お互い何だかぎこちないやり取りになってしまった。距離感がいまいち掴めない。
「そ、そういえば催眠術は? 蝋燭を見つめていたところまでは覚えてるんだけど」
「あ、うん。催眠術ね。なんか失敗しちゃったみたい」
「そっかー。失敗かあ。じゃあ諦めて今日はもう帰るか」
「あ、待って! もう一度試してみたいの。だから明日もまた亮太くんに協力して欲しいんだけど、ダメかな?」
「了解。明日も部室に寄ることにするよ」
「うん。ありがとう」
髪を弄りながら頷く彼女に更に話しかける。
「ところで、昨日美容院に行った? その、髪がさ——」
「え、凄い。なんで分かったの?」
「なんとなく。昨日と違うなあと思って」
いいえ、嘘を吐きました。昨日との違いが全く分かりません。
というか、部室に来てからの高崎は何度も髪を弄りながらチラチラこちらを見てくるからさ。髪切ったから褒めてアピールかと思ったよ。
姉ちゃん曰く、女の子は時間・労力・お金・愛情を最大限に投資してお洒落してるらしい。だからお洒落した部分を必ず褒めないといけないそうだ。姉ちゃん、言われた通りにちゃんと褒めるよ。出来れば今度は美容院に行ったかどうかの判断基準も教えておくれ。
「どうかな? 変じゃない?」
「いや、普通に似合ってるよ。いいと思う」
「……良かった。ちゃんと見てくれてありがとう」
褒められて照れる高崎はなぜか昨日より可愛く見えた。
◇
帰宅して夕食後、自室でスマホを取り出すとメッセージアプリを起動した。
「なあ、好きな女子にはどういうメッセージを送ればいいんだ?」
スマホに愚痴をぶつけながら送る内容を考える。
好きですとか。愛しているとか。碌でもない内容しか思いつかない。好きになる演技ってそもそも何すりゃいいんだよ。
<<今日は楽しかった。明日の部活も楽しみで待ち切れないよ>>
一時間くらい考えて、それっぽいメッセージを送ってみた。我ながら恋愛センスの低さに笑ってしまう。
肝心のメッセージは既読が付くとすぐに喜びのスタンプの舞が返ってきた。
いいのかなあ、こんなんで。