02. Day1②
遮光カーテンを引くと部室は薄暗くなる。
窓の外から聞こえていた喧騒も小さくなり、『オカルト研究部』の部室はどこか神秘的で非日常感を醸し出していた。
椅子に座る俺の前には、右手に蝋燭を持った高崎が立っている。小柄とはいえ、座った状態の俺よりは彼女の身長の方が若干高い。灯のついた蝋燭は彼女の顔の位置あたりで微かに揺れていた。彼女の左手で抱えられた書籍の背表紙には『催眠術入門』の文字が見える。
「山田亮太さん。私の手元にあるこの蝋燭の炎をじっと見つめてください」
妙に芝居がかった彼女の声を聞き、揺れる炎を見つめてみる。
「段々と貴方の瞼が重くなってきます。それでもこの炎の灯を見つめ続けてください」
「瞼が重い。重くてすぐにでも閉じてしまいたい。まだ炎を見つめていて下さい」
「重くて瞼が徐々に落ちてきます。炎を見つめてください。貴方の瞼が今にも落ちてきそうです。そのまま身を委ねて目を閉じると心地よいでしょう。まだ炎を見つめ続けてくださいね。貴方は目を閉じたくて堪らない。ほら、段々と瞼が下がってきて……貴方は目を閉じました。目を閉じるのはとても心地よく感じます」
高崎の言葉の通りに、俺は両目を閉じていた。
これは凄い! 彼女の指示通りに体が反応して勝手に目が閉じたぞ!
なーんて、ね。
高崎が行ったのはよくある催眠状態へ導入する手順の一つである。
人体構造上、水平よりも高い位置に目線を上げると目に疲労感を感じる。視線の先にある蝋燭の灯は風で微かに揺れており、これを見続けるという行為も目を疲れさせる原因になる。また、凝視するように何度も指示を出すことで瞬きの回数が減り、やはり眼精疲労を感じる一因となっている。
こうやって被験者が自然と目を閉じたくなってくる状況に誘導し、頃合いを見て術者が目を閉じるように声をかける。すると、まるで催眠術のせいで勝手に目を閉じたように錯覚する。
このような体験を重ねることで、術者と被験者の間には信頼関係が生まれ、被験者が次の暗示を受け入れやすい心理状態を作り出す。これが催眠術の本質だと思っている。
「山田亮太さん。目を閉じた貴方は今、とてもリラックスした状態です。これから更に脱力して心地よい状態になりましょう」
「全身に意識を向けてください。貴方の体には疲労が溜まっています。全身の血管に小さな光の粒子が流れている様子をイメージしてください」
「まずは足に意識を向けましょう。光の粒子が流れていて両足がとても怠く感じます」
「光の粒子が太ももからつま先に流れる様子をイメージしてください。徐々に疲労感が抜けて心地よくなってきます」
「光と一緒に力もつま先へ流れていきます。ほら、太ももの力が抜けて気持ちいい状態ですね。光の粒子がどんどんと太ももから無くなって行きます。力が抜けてとても心地よい」
「つま先に集まっていた光が指先から放出されていきます。一緒に力も抜けていき、貴方の足には力が入らなくなります。脱力した状態は心地よいですね。指先から光が抜けて、貴方の足には光が無くなってしまいました。もう貴方の足は動きません。それがとても気持ちいい」
高崎の声を聞きながら、足に意識を集中させる。彼女の言葉の通りに脱力するのは確かに心地良さを感じた。
これも催眠状態へ誘導する手順の一つになる。
身体をパーツに分けて、足・腕・胴体といったような順番で意識する箇所を変える指示を繰り返す。すると、被験者は術者の声に耳を傾けることに没頭し始め、徐々に被験者の集中状態が高まるのだ。
催眠状態とは、ある種の集中した状態であると言われている。ゾーンに入るとか、トランス状態になるとか、状況によって色々用語が使い分けされているが大雑把に言えば全て集中状態であると思っている。
高崎が現在行っている行為も、余計な事を考えないようにさせるためにあれこれと指示を出し、彼女の声にだけ集中する状態を作り出す手順であると言える。こうして導いた催眠状態が、暗示を受け入れやすい心理を生む一助となるのだ。
◇
「頭に僅かに残っていた光がつむじから抜けていきます。一緒に頭の力も抜けていきます」
「もう貴方の体に力は残っていません。頭の力も抜けているので思考することもできません」
「貴方の体は動かない。何も考えることができない。ただ、私の声にだけ従っていれば良い。耳を傾ければ良い。それがとても心地よく感じます」
高崎の声はそこで途切れる。
恐らく催眠誘導の手順はこれで終了なのだろう。
催眠状態の俺は自分自身の意志で体を動かすことが出来ないし、余計なことを考えることも出来ない。この後は、高崎の声に導かれるままに好きなように操られてしまうのだろう。彼女のイメージする催眠術だとそういうことになる。
「……亮太くん。起きてる?」
顔の付近で手を振られている雰囲気を感じる。俺が起きているかどうかを確認しているのだろう。その後、彼女は俺の体を何度か揺する。
「嘘……本当に眠っちゃったよ! 私でも催眠術出来ちゃうんだ。もしかして実は才能あったりするのかな?」
えへへという笑い声の後、書籍を捲る音が聞こえた。
ゆっくりと顔を上げて薄く目を開けてみる。彼女は催眠術の書籍を眺めて次の手順を確認しているようだ。続いて、自分の指先に意識を向けるが問題なく動く。
まあ、催眠術には掛かってないんですけどね。
ここまでは予定通り。極めて順調だ。この後は、高崎が催眠術で何をしたかったのか、俺は掛かった演技を続けながら様子を見ていくことになる。
「もう亮太くんは私の言いなりなんだよね。この間の事を聞き出したいけど、本によると最初は催眠状態に慣れることを優先したほうがいいみたい。どうしようかな」
紙の擦れる音に重ねて、何か恐ろしい呟きが聞こえた気がする。催眠術は服従させる便利な道具じゃないんだけどな。
「よし、今日は後催眠を掛けて終わりにしよう」
軽い咳払いの後、書籍を閉じる気配を感じた。
催眠術とは茶番劇だと思っている。
『遮光カーテンの引かれた部室』という特殊な舞台の上で、催眠術という演目を演じる。役者は高崎と俺の二人だけだ。当然、部室という舞台から離れてしまえば催眠術という演目は終わり、被験者である俺が暗示に従う演技をする必要もない。
だから、部室から離れても演技を続けてねとお願いする必要がある。それが後催眠と呼ばれるもので高崎がやろうとしていることだ。
「山田亮太さん。今の貴方は深く暗い所に居ます。何も見えない。私の声だけが聞こえる。そんな心地の良い場所です」
「貴方はこの場所をとても気に入りました。また来たい。もう一度心地の良い体験をしたい。貴方はそう考えています」
「この後、貴方は私の声に導かれて目を覚まします。目が覚めた貴方はこの場所で起こった出来事、催眠術にかかった記憶を忘れてしまうでしょう」
「しかし、心地の良い感覚は貴方の心の奥底に残り続けています。私が『目を閉じて』と言えば、すぐに心地の良いこの場所へ戻ってくる事ができます。再び戻ってくることを貴方も望んでいます」
催眠中の記憶の忘却と、催眠術に対するポジティブな印象の植え付け。高崎は後催眠の代表といえる二つの暗示を掛けようとしていた。
ここまで色々体験してきたが、彼女の催眠術は手順を踏んだしっかりとした物だった。もっとゆるふわで雑な感じだと思っていた。それだけ事前に予習して準備してきたという事なのだろう。情熱というか執念に近い何かを感じる。
「目を覚ました貴方は、正面で立っている素敵な女性を可愛く思えるようになります。そして、催眠術に掛かる度にその感情、高崎ここあさんは可愛いという想いが強くなっていきます」
ん?この人、唐突に何かぶっ込んできたぞ。
催眠中の暗示の継続、あるいは関連する暗示の追加。後催眠を掛ける目的はどちらかだ。何の脈絡もない新たな暗示を掛ける意図が分からない。というか自分のことを可愛いって……そんな事を言う子だっただろうか。
「さあ、そろそろ意識を呼び戻しましょう。この後、十の数字を数えます。カウントが進むにつれてゆっくりと意識が浮上します」
「十、九、八——脱力していた身体に力が戻ってきます」
「七、六、五、四——靄のかかっていた頭の中がスッキリし、意識が徐々に戻ります」
「三、二、一——間もなく意識が完全に戻ります。気持ちを整えて目覚める用意をしましょう」
周囲で人の動く気配を感じた。背後から遮光カーテンの開く音がする。
◇
「亮太くん。そろそろ起きて! もうすぐ下校の時間だよ」
高崎に揺すられて顔を上げる。ワザとらしく背伸びをしてみた。
「あれ、俺寝てた? ここで何してたっけ?」
「……何もしてないよ。亮太くん、部室に来てすぐに眠っちゃったし。つ、疲れてたんじゃないかな、きっと」
惚けてみると、上ずった声で返事が返ってきた。高崎は演技が下手なようだ。
「そっかー。確かに昨日は寝るの遅かったからな。暗くならないうちにそろそろ帰るか」
「あ、えっとね。明日部活でやりたい事があるんだけど、亮太くんも部室に来てくれる?」
「やりたい事?」
「うん。今、催眠術を勉強しててね。それで亮太くんに掛かるかどうか、試してみたいの」
なるほど。今日の催眠術は無かった体になっているのか。そういう後催眠だったもんな。じゃあ、明日は初めて高崎から催眠術を受けるという演技が必要になるのか。面倒くさー。
「ああ、いいよ。いつもの時間でいいか?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとうね」
頷く彼女の表情には溢れそうな笑みが浮かんでいる。その顔を見てもう一つの後催眠を思い出す。
「ん? 今日の高崎って、なんか変えてたりする?」
「ふぇ?」
「いや、いつもより可愛いなあと思ってさ」
「……そ、そんなことないよぉ…………えへっ、可愛いって……催眠術しゅごい……」
照れる彼女はぶつぶつと呟いている。うーん、この人チョロすぎる。
その日は高崎の耳が真っ赤になるまで雑に褒めまくった。