携帯のムコウに
就寝前に交わした『おやすみ』。まさか、それが最後の対面だったなんて。
僕と未海は、借りた別荘で一泊する予定だった。未海は、半年前から付き合っている彼女だ。
僕が入り口に近いリビングのソファ、未海が奥側にある寝室。これが反対であればと、今も切に願う。
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パチパチという線香花火のような音で僕は目覚めた。暖房を切り忘れたのかと勘違いするほど、部屋内が熱されていた。
寝ぼけ眼だった僕は、炎の燃焼する音を目覚まし時計のアラームと勘違いし、のんきに右腕で辺りを探った。借りた別荘に、最初から目覚まし時計など無かったというのに。
いくら探しても時計に触れることが出来ず、また不規則な音の並びを不審に感じた僕は、目覚めてから
三十秒後、ようやく事の次第に気付いた。
『火事が起こっている』と。
まだ早朝の出来事で、窓から光は差し込んでいなかった。炎とその周辺以外はブラックホールに吸い込まれたかのような暗闇、下手に動くことは許されなかった。
僕の身体は、即座に緊張し切った。卒業式でも、中々経験しないくらいの緊張度だ。
『未海はどこにいるのか』。僕の脳に真っ先に浮かんだ懸念だった。
未海が寝ているはずの寝室は、僕が横になっていたソファの左手にある。そして無情にも、燃え盛る炎も同じソファの左に位置していたのだ。
既に、火焔は天井にまで達していた。
未海を助けるには、灼熱地獄を突破し、帰還する必要がある。僕は、今なら何でもできるという気になっていた。アドレナリンが大量分泌されていた。
だが、その希望的観測は打ち砕かれた。天井部から、燃焼によって耐久力が著しく落ち、加重に耐えられなくなった木板が降ってきたのだ。
このままでは、いつ天井が崩壊してもおかしくはなかった。
全身に水を被って突入すれば、未海を発見すること自体は可能。だがしかし、その衝撃で別荘が崩壊しては元も子もない。
僕の良心が、告げた。
『ここで未海を見殺しになんてしないよな?』
悪鬼もまた、告げた。
『命あっての物種だろ? 自己犠牲なんて言い訳は聞かないぞ』
僕は、狭間でもだえ苦しんだ。『人殺し』『逃げても仕方ない』……。抗争はヒートアップしていった。
僕は、スーパーヒーローなどではなかった。万事解決することの出来ない、ただの一般人であった。アドレナリンはどこかへ霧散していった。幻と自分を照らし合わせてしまっていたのだ。
結局僕は、携帯だけを身に着けて別荘の外へと飛び出した。携帯だけを持ち出したのは、消防を呼ぶためだ。
僕は逃げたのだ、弱い方へと。
僕は、未海を見捨てたのだ。救助の困難さと自己保身を盾にして、未海を取り残すことを正当化したのだ。
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『プルルルルル』
悲観に暮れていた僕は、危うくその着信音を聞き逃すところだった。
『竜哉、くん?』
電話の向こう側は、未海だった。
『周り一面炎で覆われてて……。逃げ出せない』
僕は、未海の悲痛な告白をただ黙って聞いていることしか出来なかった。
『竜哉くんは、大丈夫?』
未海は、『炎』という確実な指標が間近まで迫っているはずの状況で僕のことを構ってくれた。僕とは大違いだ。
『うん、うん……。竜哉くんが無事で、良かった……』
僕が無事だから、何になるのかが分からない。僕が無事でも、未海が居なければ無意味だというのに。未海の居ない世界など信じられない。
『……心の底から、全部吐いちゃっていい、かな?』
そんなもの、僕の許可はいらない。
『……こんなところで死にたくない。焼け死にたくない……。独りぼっちで死にたくない、こんなところで終わりたくない!』
未海の涙が混ざった本音が、僕の心に溶けていった。
『……ごめんね。取り乱しちゃって』
未海は、優しすぎる。本心を隠してまで、僕を庇ってしまう。毛布にくるむように、ふんわりと巻いてしまう。
『……ちょっと頭が……。もうそろそろ、なのかな……』
こんな時に、僕はそばに寄ってやることすらできない。自身の不甲斐なさが情けなかった。
『……そうだ、前に卒業式で歌った歌、歌ってくれない? 私、竜哉くんの声を聴きながら逝きたい……』
せめて、僕に出来ることは全てやる。僕は、静かに旋律を取り始めた。
サビまで到達した。『さよなら』『別れ』は、卒業式に歌った時とは全く違うニュアンスに思えた。
携帯電話の向こう側から細く長い叫び声が聞こえた。そして、それっきりだった。
僕は、涙を流した。涙はとめどなく流れ続けた。頬を伝ったしずくが、ポタポタと携帯電話の液晶に落ちた。
『通話終了』
画面上に映し出された四文字が、未海がもうこの世に居ないことを示していた。
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