第20話 休息
私の体に覆いかぶさるようにして、奈都が小さな寝息を立てている。少し暑くなってきたからエアコンを入れたいが、リモコンに手が届かない。身じろぎしたら奈都を起こしてしまいそうで、息すら潜めている状況だ。
奈都は恐らく標準体重で、BMIで言えばやせ型に分類される方だろうが、それでも枕やぬいぐるみとは違う。奈都がしがみついている左半身がだんだん痺れてきて、さすがにそろそろ這い出そうか考え始めた。
時計が静かに時を刻んでいる。文化祭の翌日、月曜日。学校は休みで、涼夏にも絢音にも振られたから、今日は家でのんびり過ごそうと思っていた。
この一週間、平日は文化祭の準備で毎日遅かったし、土日は文化祭で走り回り、楽しかったけれど体は疲れていた。だから今日は、せめて昼までは寝ようと思っていたが、いつもの時間に目が覚めて、そのまま二度寝するタイミングを逸してしまった。
奈都は暇していないかと電話をしたら、呼出音で起こしてしまったらしく、実に眠そうに電話に出た。暇なら遊びに来ないかと誘ったら、奈都はあくびをしながら言った。
『誘いは嬉しい。でも、私は今日は寝る』
「じゃあ、パジャマを持って来て、うちで寝て」
咄嗟にそう、わけのわからないことを言ってしまった結果、今こうなっている。まさか本当にパジャマを持ってくるとは思わなかったし、来て早々ベッドに潜り込むとも思わなかった。
きっと文化祭の打ち上げで疲れたのだろうと思ったら、昨日に引き続き遅くまでアニメを見ていたらしい。長いテレビシリーズのバレーボールのアニメにはまっているそうだ。
私も元々寝ようと思っていたし、もう一度パジャマに着替えて一緒にベッドに入ったものの、奈都に抱き付かれて眠れそうにない。強く押し付けられる柔らかな感触を楽しんでいたが、そろそろ限界だと感じて奈都の体を押し退けた。
奈都は「んん」と喉から声を漏らしてから、体勢を変えて私に抱き付いてきた。そして、首筋に顔をうずめて息っぽい声で囁いた。
「今日は100パーセントチサの匂いがする」
意味がわからない。いつもは一体何の匂いが混ざっているのか聞いたら、奈都は仰向けに寝ている私の胸やお腹に手を這わせながら、眠たそうに答えた。
「今日のチサはまだ外気に触れてないから」
そんなに敏感に匂いを嗅ぎ分けられるのか、それともただの冗談か。極めてどうでも良かったので、それ以上は聞かずに目を閉じた。腕が楽になったから私も少し寝たかったが、お腹の上を這うように動く奈都の指がくすぐったくてそれどころではなかった。
その内寝るか飽きるかするだろうと思って我慢していたが、奈都はパジャマの裾からスルリと中に手を入れて、私の腰や背中を直接撫で始めた。起こしてしまった私が言うのもなんだが、もう寝る気はないのだろうか。寝ないのならお話をしようと、私はパジャマの布越しに奈都の手に触れて口を開いた。
「昨日、奈都のステージを見て、涼夏も絢音も、奈都を帰宅部に誘うのはやめるって言ってた」
「えっ? 何それ。泣きそうなんだけど」
突然奈都が体を起こして、真顔で私を見つめた。私が目をパチクリさせると、奈都は混乱したように「えっ、えっ?」と声を震わせながら、言葉通りじんわりと目に涙を浮かべた。奈都が泣くのはなかなかレアだ。じっと見つめていると、奈都が悲しそうに眉をゆがめた。
「私、何かした?」
「バトンの演技が思ったより良かったんじゃない? 絢音なんて、初めて見たって言ってたし」
何でもないようにそう告げると、奈都は複雑な表情で首を傾げた。
「バトンの演技が上手だと、仲間外れにされるの?」
「誰も仲間外れにするなんて言ってないけど。奈都は帰宅部よりバトン部の方が似合うねって話」
私が苦笑いを浮かべると、奈都はしばらくポカンと口を開けてから、涙を拭って怒ったように言った。
「ミスリードだよ! 私を騙して楽しい?」
「何も騙してない」
「見損なった! 許さない!」
奈都がそう言いながら、私の体にしがみついて肩に顔をうずめた。再び服の中に手を入れて、背中をグッと引き寄せる。
背中で何かゴソゴソしていると思ったら、急に胸の圧迫感がなくなった。ブラのホックを外していたらしい。奈都はその手で下着を押し退けて胸に触れた。
「バトン部を辞める気は全然ないけど、帰宅部に誘われないのは寂しい」
奈都がそう言ってため息をつく。なかなか我が儘な注文だ。それより、生で胸を揉まれているのは突っ込んだ方がいいのだろうか。とりあえず放置して会話を続けた。
「私ももう、奈都を誘うのはやめようと思う」
「いや、やっぱりそれは寂しいから、定期的に誘ってよ」
「でも、入る気はないんでしょ?」
「そうだけど、『入ってよ』『えー、どうしよっかなー』『そんなこと言わずに』『でもでもー』みたいな会話がいいんじゃん」
奈都が一人二役でそう言って、くすっと笑った。今の台詞に、何か面白いところがあっただろうか。
「めんどくさい女」
私がげんなりしたように言うと、奈都が心外そうに声を上げた。相変わらず反応が大きくて面白い。
いつの間にかまた私の半身に乗っかっている奈都を抱きしめる。髪に顔を押し付けて嗅いでみると、いい匂いがした。
「汗臭くない奈都はレアだな」
そう言いながらくんくんと鼻を鳴らすと、奈都が実に冷たい声音で言った。
「さっきからひどくない?」
「私、汗臭い奈都、好きだよ?」
「今までチサに言われた『好き』の中で、一番嬉しくない」
奈都が小声で吐き捨てた。
それはそうだろう。もしそんなことを言われたら、私だったらお風呂の時間を長くしそうだ。
ただ、夏休みに一度、バトン部の練習の後に奈都が私の家に寄ったことがあったが、ハグをしながら匂いを嗅いだらとても興奮した。私の趣味みたいなものだと思って諦めてほしい。
「チサは今日もいい匂いがする」
奈都が私の首筋に顔をうずめながら、うっとりとした声で言った。手はずっと私の胸を揉み続けている。これも飽きるまで放っておこうと思ったが、一向にやめる気配がない。男子ならともかく、奈都もそれなりの大きさのものを持っているのに、そんなにも触りたいものなのだろうか。
呆れながら髪の毛を撫でていると、奈都が声のトーンを落として言った。
「チサのエッセンシャルオイルを、毎晩枕元に一滴落として寝たい」
何を言い出すかと思ったら、これはドン引きだ。私は静かに心の距離を置いた。
「奈都、よく帰宅部はみんな頭がおかしいって言ってるけど、奈都も大概だよ?」
「私も毒されたかな」
「いや、奈都は別ルートだと思う」
恐らく二次元文化の影響だろう。オタクという人種は、変わった人が多い。奈都はそこまでマンガやアニメに心酔しているわけではないが、それでも時々私や涼夏とは根本的に違う何かを感じる。冷静にそう伝えると、奈都が呆れたように息を吐いた。
「誕生日会で、涼夏の舌を塩で焼いて食べたいとか言ってた人に言われたくない」
「あれは薬の話だったでしょ?」
確かに涼夏を食べる話はしたが、あれはなぜ人はミイラを求めるのかという話から派生したものだった。涼夏のように可愛くなりたいという願望がまずあって、その手段の一つとして涼夏をステーキにして食べたいと言っただけで、手段にこだわりはない。
滔々と説明したが、奈都は「さっぱりわからない」と澄ました顔で首を振った。
ようやく飽きたのか、奈都が服の中から手を引き抜いて体を起こした。そのまま私の肩を持ち上げて、ごろんと体を転がす。
されるがままうつ伏せに寝転がると、上から奈都が乗ってきた。背中やお尻に押し付けられる奈都の体の感触がとても心地良かったが、抱きしめるように両手で胸を揉まれてさすがに声を上げた。
「ちょっと、奈都!」
「璃奈先輩がね」
「えっ? 誰?」
私の抗議を無視して、奈都が突然語り始めた。聞いたことのない名前に首を傾げると、文化祭で占ってくれたバトン部の先輩だと教えてくれた。
奈都が私の首に唇をつけて、吐息を零すように続けた。
「璃奈先輩が、チサのグループ交際に私も入ってるのかって。だいぶからかわれた」
「まあ、普通かどうかはともかく、マジョリティーじゃないのは確かだね」
涼夏と絢音と奈都。可愛い女の子を連れて3回も訪れて、毎回恋愛運を占ってもらった。涼夏を筆頭に、割とガチで占ってもらったから、その先輩に嫌悪されたのではないかと心配したが、それは大丈夫だと奈都が笑った。
「璃奈先輩、楽しんでた。チサのこと、結構気に入ってたし」
「それで、奈都はどう答えたの?」
一応、グループ交際についての見解を問うと、奈都は可笑しそうに声を弾ませた。
「正妻だからね」
「そんなこと言ったの?」
「文化祭でそう言ったのはチサだよ?」
言われてみると、そんなことも言ったかもしれない。あの日は気分が昂揚していて、よくわからないことをたくさん口走った気がする。
何にしろ、奈都が嫌われなくてよかった。私のせいで人間関係がおかしくなるのは、もう懲り懲りだ。
胸が圧迫されて、少し息が苦しい。どうせなら私も奈都の体を抱きしめたいが、奈都はこの体勢が気に入ったのか、指以外に体を動かそうとしなかった。
「あの先輩は、占いが好きなの?」
話を膨らませるように聞くと、奈都は私のうなじに唇を這わせながら、小さく頷いた。
「元々タロットとかオラクルとか好きみたいだね。クラス展示も璃奈先輩の発案で、他の先輩に占い方をレクチャーしたみたい」
それなら、偶然その先輩に当たったのは運が良かった。見ていた限り、タロット占いは出たカードをどう解釈するかが大事だ。他の先輩だったら、物足りなかったかもしれない。
「占いか……」
私が静かに呟くと、奈都が片方の手をお腹の方に滑らせながら、耳元で囁いた。
「まだ興味があるの?」
一昨日、気楽に占いを始めてみようかと言ったら、奈都に反対された。占いに依存すると判断力がにぶると言っていたが、それはもっともだと思う。
ただ、私は何か趣味が持ちたい。それは占いでなくてもいいが、とりあえず興味を持ったものを始めてみるのは悪くないと思う。
そう話すと、奈都は「趣味か……」と難しそうに呟いて、押し黙った。何やら深刻そうだったが、左手は相変わらず胸を触っているし、右手はズボンの内側に滑り込んで、おへその下の肉を揉んでいる。胸よりお腹を揉まれる方が恥ずかしいのだが、指摘してもいいのだろうか。
「チサの言ってることもわかるけど、私は順番が逆のような気がする」
奈都がそう言ってから、自分でもよくわからないと自虐的に呟いた。奈都はアニメが好きだが、別に意識して趣味にしたわけではない。気が付いたらそうなっていただけだ。
それはわかる。ただ、色々なことに挑戦してみなければ、自分が何が好きかもわからない。同じ毎日を繰り返していたら、新しい何かと出会うことがない。
私がそう言うと、奈都は「まあそうだけどね」と言いながら、私の後頭部に顔をうずめてスンスンと鼻を鳴らした。呼吸が荒い。背中が熱くて、汗ばんできた。息が苦しい。私も大きく息を吐くと、奈都が私の体を撫でながら言った。
「私は、チサに変わって欲しくないだけかもしれない。そんな理由でチサの足を引っ張るのは、良くないよね」
奈都がグッと右手を奥に潜り込ませた。そろそろ肺が酸素を渇望し始めたので、私は奈都を押し退けて半身を起こした。
「はぁ……はぁ……」
大きく肩で息をして呼吸を整える。ついでにエアコンを入れてベッドを見下ろすと、奈都が右手の指先を口にくわえて私を見上げていた。なんだか、小さな子供みたいで可愛らしい。
麦茶を一口飲んでもう一度ベッドに横になると、仰向けに寝ていた奈都に覆いかぶさった。たまには私が上に乗ろう。
「変わって欲しくないって気持ちはわかるよ? 安定してるなら特にね。私も、絢音がバンド活動を本格的に始めたらどうしようって思ってるし、奈都がバトンを始めた時だって、思うことはたくさんあったよ」
そう言ってから、奈都に口づけをして、味わうように舌を絡め合った。とても気持ちがいい。
しばらくそうしてから、肩を枕にして目を閉じた。足も奈都の上に乗せて、全体重を預ける。
「苦しかったら言ってね」
冗談っぽくそう言うと、奈都は全然大丈夫じゃなさそうに「大丈夫」と息を切らせた。
「重いけど幸せ」
「重いとか言わないで」
「チサで圧死するなら本望」
失礼な友達だ。しばらくそのまま、寝れるか寝れないか、目を閉じてウトウトしていたら、だんだん奈都が苦しそうに呻き始めた。時計を見たら30分ほど経っていて、体を起こすと、奈都は汗に濡れた顔を赤くして、苦しそうに大きく胸を上下させた。全力疾走でもした後の様相だ。
「いや、そこまで我慢しなくても……」
私が呆れながら頬を掻くと、奈都は汗で額に張り付いた前髪を指でどけながら、疲れた顔で言った。
「私、生まれ変わったら、チサの敷布団になる」
苦しそうに喘いでいるが、口元はどこか嬉しそうだ。「変態」と冷静に突っ込むと、奈都は心外そうに「えーっ!」と声を上げた。
お腹が空いたので一度起きて、インスタントラーメンに玉子を落として食べた。涼夏ならもう少しましな料理を作るだろうが、生憎私も奈都も料理は得意ではない。
「チサ、涼夏のお料理教室の成果は?」
奈都がラーメンをすすりながら、呆れた顔で言った。自分もろくに包丁を使えないくせに、見事な棚上げだ。
涼夏というと、今頃バイトだろうか。私と同じくらい毎日文化祭の準備を頑張り、当日も全力ではしゃいでいたのに、元気な子だ。窓の外は青空が広がっているが、私はどこにも出かける気がしない。
奈都に「アヤは?」と聞かれたので、今日はバンドメンバーと打ち上げだと答えた。二人とも空いてなかったから奈都に声をかけたと言うと、奈都が実に残念そうにため息をついた。
「涼夏もアヤも空いてなかったから私なんだね?」
「言いながら、そう解釈されるだろうなって、ちょっと思った」
「解釈っていうか、実際にそうじゃん」
奈都が不満げに唇を尖らせた。確かに、もし涼夏が空いていたら、今頃涼夏と遊んでいただろう。疲れてはいたが、頑張って外に出ていたかもしれない。
「たまには、涼夏とアヤが空いてても、最初に私に声をかけてくれるみたいな奇跡はないの? ないか。ないよね。もういいよ」
「自己完結しないで」
無念そうに首を振る奈都を、私は呆れた眼差しで見つめた。あの二人より奈都の方が忙しいのは確かだ。だから優先的に二人に声をかけているが、それは友達としての優先度ではない。そう言ったところで、奈都は信じてくれないだろう。
「正妻は奈都だから」
甘い声でそう言ったが、奈都はますます不機嫌な顔で私を睨んだ。
「正妻って言っておけば、私が満足すると思ってるでしょ」
「それは案外、図星かもしれない」
冷静にそう告げると、奈都は驚いたように眉を上げた。
「うわー、他人事みたいだ」
「でも奈都は、私のおっぱいをたくさん揉んだ」
「それは、揉むか揉まないかだけの話だよ。別に涼夏が同じことをしても、正妻以外ダメとか、そういうわけじゃないんでしょ?」
「うん」
あっさり頷くと、奈都が大袈裟に首を振ってテーブルの上に突っ伏した。涼夏がそういうことをしたいかはわからないが、もしされても別に嫌ではない。涼夏がそれで楽しいのなら、好きにしてくれていい。
私は食べ終わった器を片付けてから、奈都の髪をわしわしと撫でた。腕を引っ張って部屋に戻ると、奈都がごろんとベッドに横になりながら、疲れたように天井を見上げた。
「何か、私だけが許される真の正妻ムーブはないの?」
「真の正妻ムーブ……」
なかなかカッコイイ響きだ。少し考えたが、何も思い浮かばなかった。奈都にしてほしいことは涼夏にもしてほしいし、涼夏にもされたくないことは、奈都にもされたくない。
「例えば、奈都がどうしても私を裸にして、椅子に縛り付けたいって言うなら……」
「言わないから!」
奈都が顔を赤くして声を荒げた。可愛い反応だ。
「まあ、考えておくよ」
適当にそう言いながら、もう一度ベッドの上に横になった。食後でももう眠気はないが、今日は一日中ごろごろしていよう。
文化祭は柄にもなく頑張り過ぎた。明日からまたのんびりした帰宅部ライフを送るために、今日はしっかりと英気を養おう。
奈都があくびをしながら、私の胸を枕にして横たわる。そんな奈都の髪を撫でながら、私も目を閉じて怠惰な一日を貪ることにした。




