第57話 英語(2)
絢音イングリッシュにはいくつかメリットがあるのだが、勉強的なこと以外にも、くだらない話が意味を持つという効果がある。
日本語だと小学生みたいな会話が、なんだか崇高なものに思える。「今は晴れてるけど、昼からだんだん曇ってくるみたい」とか、そんなシンプルな文章すら、英語で言おうと思うと難しい。
逆に言えば、英語がわかる人には、小学生みたいな会話をしていると笑われそうだが、そこはあまり重要ではない。実際、教室で英語で喋っていてからかわれたこともあるが、これは来る国際社会を生き抜くために必要なことなのだ。
そんなわけで、今日も奈都にいつもの「おはよー」の後、昨日と同じ振りをしてみた。
「Have you eaten a mayor?」
昨日絢音にtryの方がいいと教えられたが、明らかに食べ物ではない時は、eatを使って意味を明確にした方がいいだろう。
真顔で見つめると、奈都は腕を組んでわざとらしく唸った。
「絶対にまた変なものの気がする。昨日はサボテンだった」
「You looked it up after that. I respect you」
「絶対にバカにされてる気がする。とりあえずイエス」
奈都が懲りもせずに乗ってきた。素っ気ない態度だが、十分楽しんでいるのだろう。
それにしても、出来れば「絶対にバカにされてる気がする」も英語でチャレンジして欲しいが、私も言える気がしない。「I feel like」とかでいいのだろうか。
「What did it taste like?」
この表現はだいぶ身についてきた。継続・イズ・パワーだ。
奈都は少し考える素振りをしてから、「It was a little spicy」と答えた。本当はもう少し色々なことを言いたかったようだが、味に関する単語がsweetとspicyくらいしか出てこなかったのだろう。
それよりも、昨日は単語だったのに、今日は文になっていた。涼夏も「Hot is bad」から始めたし、奈都にも頑張ってもらって、来る国際社会を一緒に生き抜きたい。
学校に着くと、今日はまだ涼夏は来ていなかった。前の席で予習していた絢音に同じ質問を投げかけると、絢音は嬉しそうに目を輝かせた。
「Of course! That is my favorite food!」
そんなはずはない。もしかして、私の発音が悪くて、何か別のものと勘違いしているのだろうか。
「Are you sure?」
「I like mayor cooked medium rare. How about you?」
「Sorry, I've never tried it」
「You should definitely do it!」
マジか……。どう考えても会話が噛み合っていない気がするが、ミディアムレアがいいと言っていたので、やはりわかった上でからかっているのだろう。言語は違えど、極めていつもの絢音だ。
「I've eaten five mayors in the past. Keel and rib were quite tasty」
「Is it KFC?」
「Are you kidding? By the way, you look delicious. May I eat you?」
そう言って、絢音は目を細めて舌舐めずりした。食われる。教室から逃げ出そうとしたら、丁度涼夏がやってきた。
「おはよ」
「Morning! You are pretty today too」
「おっ、Is it also Ayane's English Time?」
「Yes. I was just about to eat Chisato」
「I don't get it」
涼夏が呆れたように首を振った。それはそうだろう。私にもわからない。
リュックを置いてから、涼夏が私に寄りかかりながら言った。
「I read a 地域のmagazine last night, and discovered a nice cafe that sells 美味しそうなcrepes」
「Sounds good. Let's go there after school」
クレープというのは新しい。今日も一日頑張れる楽しみが出来たと喜ぶと、今日は塾がある絢音が無念そうに息を吐いた。
「I wish I could go with you two」
「I wish I couldだ! 授業で習った!」
涼夏が突然声を弾ませて、絢音が「全部そうだよ」と笑った。まったくその通りだし、しかもほとんど全部、中学時代に習ったものだ。
絢音イングリッシュは、中学英語で会話することを基本にしている。意図的にそうしているわけではないが、日常会話は中学英語だけで十分だ。むしろ、私たちは今何を習っているのだろうとさえ思う。
この日の絢音イングリッシュは一日の始まりのチャイムとともに終了し、1時間目の放課にはもう話題に出なかった。それもまたいつものことだ。絢音イングリッシュは不定期開催の常設イベントなのだ。
ところがこの日は、思わぬ延長戦があった。放課後、予定通り涼夏と一緒に恵坂のカフェを目指して歩いていると、リュックを背負った外国人に話しかけられた。いわゆるインバウンドというやつだろうか。二人組の男女で、夫婦の距離感だ。
いつもの私たちのジャパニーズイングリッシュと違って、発音が流暢な上、声が低くて明瞭ではない。しかし、どうやらどこかの場所を聞いているのはわかった。
私が冷静にそう判断できたのは、話しかけられたのが涼夏だった上、自分で対応する気がなかったからかもしれない。涼夏のカッコイイところを拝見しようと思ったが、何故か涼夏はテンパったように早口に言った。
「No, sorry! We are not from around here and we can't speak English well! I'm afraid I can't help you! You should ask someone else!」
いや、ベラベラ喋っとるがな。私が目を丸くして涼夏を見ると、二人も同じことを思ったのか、微笑みながら何か言って手を振った。私も「Have a nice day」と声をかけて手を振ると、隣で涼夏が、切なそうに手を伸ばしてからガックリと項垂れた。
「無念だ。あんなにも絢音イングリッシュで鍛えたのに、まったく英語が喋れなかった」
「いや、すごい流暢に喋ってたよ?」
慰めでもなんでもなく、明らかに私より喋れていたし、もしかしたら絢音以上かもしれない。I'm afraidとかsomeone elseとか、よく咄嗟に出てきたと感心する。
「だけど、何の力にもなれなかった」
「それはそうだね。涼夏がWeって言わなかったら私が答えようかと思ったけど、一応涼夏の顔を立てた」
「まったく要らん配慮だ。千紗都が頑張ってくれたら、私もその間に立て直せたかも知れない」
力を合わせて立ち向かうべきだったと、涼夏は悔しそうに唸った。結局何も言えなかった私よりずっと立派だったが、目標が高いのはいいことだ。
「絢音イングリッシュの実践はまた次の機会を窺うとして、クレープを食べに行こう。私たちはこの辺の出身じゃないから、地理が全然わからない」
「I can walk around here with my eyes closed」
少なくとも100回は来ているし、帰宅部の活動で割と隅々まで歩いている。恵坂はまさに庭であり、私たちが一番道を案内できる場所だ。
クレープが美味しいというカフェも、前を何度か通ったことのある店だった。雑誌に掲載された割には混んでいなかったが、平日だからだろう。
クレープは生地がふんわりしていて美味しかった。雑誌のクーポンで安く食べれたし、大満足である。ちなみに、満足は英語でどういうか調べたら「I'm satisfied」だった。大満足は「I'm more than satisfied」と表現するらしい。
今日は私たちの英語はまだまだだと痛感した。来る国際社会に備えて、これからも積極的に使っていくことにしよう。若干違和感があるのは把握しているが、恥ずかしがらずにどんどん使うのもまた、絢音イングリッシュの重要なルールの一つである。




