第56話 十万円(3)
その後、絢音がもらえないこともあって、給付金の話題は出なくなった。私も気持ちが落ち着くまで自分からは話さないようにしていたら、いつの間にか給付金の支給日になった。
休みの日に4人で集まると、涼夏がやれやれと首を振った。
「例のなんとか給付金、まだ中学生の妹は母親の管理で使うことになって、妹が面倒くさかった。別に絢音みたいにもらえないのと違って、申告制で使えるんだからいいのに」
「まあ、自分で選んで、自分の財布から出すのが楽しい感覚は理解できるよ」
絢音がそう微笑むと、涼夏が「大人だな」と笑った。結局みんな、他人のことだと冷静になれるのだ。
「私はパソコン買おうかな。どうせいずれ必要になるし、動画も見るし、SNSもしやすいし」
奈都がまだ決めかねていると指を立てて、私は首を傾げた。
「奈都、持ってるじゃん。アニメ見まくりじゃん」
「もっといいやつ。だいぶ古いし」
「じゃあ、古いのは私が2千円で買い取るよ」
「それは家族と相談で」
冗談だったが、奈都は一応検討すると頷いた。
涼夏が「パソコンもいいな」と言ってから、私の顔を覗き込んだ。
「それで、部長は何に使うの? 物欲なさそうだから、デニーズランドとか行っちゃう?」
「レストランみたいなテーマパークだ」
奈都が真剣な瞳で呟いて、絢音も笑いを堪えながら頷いた。ハンバーグとかが回ってそうな名前だ。私はあははと乾いた笑いを浮かべながら、あれはなくなったと話した。
「親が私の大学の費用とかスーツとかに使うって。まあ、西畑家と同じだね」
「意外だな。戦ったの?」
「戦ってないよ。私は非戦闘民族なの」
とりあえず笑いながら、あの日の絢音を思い出した。もしかしたら絢音も、こんなふうに無理して笑っていたのかもしれない。
涼夏が探るような目でじっと私を見つめる。こういう時の涼夏は本当に怖い。
話を逸らせようと思ったら、先に涼夏が口を開いた。
「まあ、親にはいいけど、私たちにはそういう我慢はしなくていいから」
「平和に生きたい」
「平和のために一方的に我慢するのは良くない。そういう小さな不満が積み重なって、絢音みたいな人間が出来上がるんだ」
「私!?」
いきなり振られて絢音が声を上げると、涼夏が冗談だと笑った。
「それにしても、その調子だと、卒業した後、千紗都が家を出るのは難しそうだな」
「そこは頑張りたい。すべての我慢はその日のためにある」
私がグッと拳を握ると、奈都が怪訝そうに首を傾げた。
「日頃からある程度主張しておいた方が、いざって時にも言いやすいと思うよ?」
「そういう説が存在することは知ってる」
「絢音と二人で仲良く暮らしてるから、時々遊びに来て」
涼夏がそう言いながら、隣に座る絢音と腕を組んで、私は悲鳴を上げた。
「そこに部長がいないのはおかしいから!」
「まあ頑張れ。それにしても、これで4、3、3か」
突然涼夏がそう言って、私はキョトンとなった。隣を見ると、絢音もわからないと肩をすくめる。
説明を求めると、涼夏は当たり前のように指を折った。
「私の給付金。千紗都も貰えないなら、私が4万で、絢音と千紗都が3万ずつだなって」
「いや、アイスでも奢ってくれたらそれでいいんだけど」
私が慌ててそう言うと、絢音が全力で頷いて乗っかった。涼夏が不思議そうな顔をした。
「元々帰宅部で使おうと思ってたし、別に現金で渡すわけじゃない。とりあえずひつまぶしを食べに行こう。実は食べたことがない」
「高額商品じゃん!」
私が身を乗り出すと、涼夏がそうだなと満足そうに頷いた。絢音が両手で顔を覆って、感動にむせび泣く演技をしながら、「結婚する」と声を震わせた。奈都が「天使だ……」と呟くと、涼夏が呆れたように手を振った。
「ナッちゃんは給付金もらったから奢らんぞ?」
「いや、それは全然いいんだけど、考え方が天使。私はチサのことが大好きだけど、チサに何か買ってあげようとか、考えもしなかった」
「私もだぞ? 千紗都がもらえないって知った今なら違うでしょ?」
涼夏が大丈夫だと励ましたが、奈都は誤魔化すように笑っただけだった。たぶん、私が初めからもらえなかったとしても、奈都の中に奢るという考えはなかった。アイスくらいなら別だが、私とてその点に関しては大して違わない。
奈都の肩を持ちながら讃えると、涼夏はやはり不思議そうな顔をした。
「ただでもらったお金のごく一部で、ひつまぶし食べに行くだけでこんなに喜んでもらえるなら、これ以上いい使い方なんてないでしょ」
その瞳があまりにも澄んでいたから、とうとう奈都が叫び声を上げて顔を覆った。
「涼夏は天使過ぎる! 涼夏はチサにはもったいないから、アヤと結婚して! チサは私がなんとかするから!」
「いや、奈都になんとかしてもらうことは何もないし」
「うちのチサがごめんなさい!」
ダメだ。壊れた。
涼夏が「ナッちゃんは面白いな」と笑うと、絢音が同調するように頷いた。むしろ、うちの奈都がごめんなさいという気持ちである。
その後、早速ひつまぶしを食べに行くことになった。せっかくなら有名店でと、一番人気の店に行って、少し並んでひつまぶしを食べた。
実は私も初めてだったが、鰻はカリカリホクホクしていたし、色々な味や食べ方を楽しめて実に充実した時間を過ごせた。
「食のアミューズメントだったな。初めてのひつまぶしを帰宅部で共有できて満足だった。ありがとう」
店を出て涼夏がそう言うと、さすがに天使過ぎてその神々しさに泣きそうになった。闇属性の奈都は溶けるように消えてしまった。
涼夏に貸しを作るつもりなど微塵もないだろうが、いつか何かしらの形で返したい。
もっとも、お金に関しては、この先いつまでも、私の方が涼夏より裕福になることはなさそうなので、何か些細な手助け、例えばエレベータのボタンを押すとか、タクシーを呼び止めるとか、そういうことをしてあげられたらと思う。




