第47話 山(3)
谷鳥之山の最寄り駅で降りると、熱と湿気を含んだ空気がまとわりついてきた。本来なら半袖とスカートで過ごすような季節だ。日差しはないが熱中症には十分気を付けなくてはいけない。
リュックにはペットボトルを2本入れてきたが足りるだろうか。すでに封を開けた方からふた口飲んで、リュックのポケットに戻す。
高い建物のない田舎の景色である。スマホで地図を見ると、前方に見える山が目指す谷鳥之山のようだ。濃い緑に覆われている。
「行って戻ってくるだけで満足しそう」
奈都が軽く体操しながら言った。同じように屈伸をしながら、絢音が微笑む。
「意外とすぐ着くものだよ。上ノ水から学校を往復するくらい?」
「そう聞くと近く感じる。知らない場所だと遠く感じる」
「行きより帰りの方が近い法則だね」
そう言いながら、体操のために一度降ろしたリュックを背負い直した。ずっしりと肩に食い込むが、帰りには食べ物も飲み物もなくなって軽くなっているだろう。
小川の橋を渡り、山の方に歩いて行く。私たち3人の他に、歩いている人は誰もいない。そもそも、駅で降りた人自体が数人で、みんな駅前に停まっていた車に拾われたり、駐車場の方へ歩いて行った。
「皆さん、運転免許は取りますか?」
何となく二人にそう聞くと、奈都は大きく首を縦に振った。
「車校のお金も出してもらえそうだし。私が免許を取ることで家族にもメリットがあるみたい」
「欲しいけど、お金がネックかなぁ。少なくとも兄はまだ車校に行ってない。お金の話は聞いたことがない」
絢音が残念そうにため息をついた。今の感じでは、諦めているようだ。
西畑家はお金に厳しいが、貧乏なわけではない。車校の費用くらい、必要なものとして出してあげればいいのにと思うが、子供3人行かせたら100万円を超える。その上大学の授業料もあるし、絢音も私学でお金がかかっている。
私はというと、当たり前のように出してもらうつもりでいたし、それが普通だと思っていた。さすがに車まで買ってもらえるとは思っていないが、何十万というお金は、今のところ自分で捻出できる気がしない。
「車があると何かと便利だよね。大学生になったら、車で海に行ったり、夜に星を見に行ったりしたいね」
「チサ、メルヘンチストだね」
「それは?」
「ロマンチストの亜種。頭がメルヘンな人に使うの」
「それ、褒めてるつもりなら、奈都はそろそろ日本語の使い方について本気で学んだ方がいいよ」
私が呆れたようにそう言うと、絢音が可笑しそうに顔を綻ばせた。
くだらない話をしていたら、やがて道の傾斜がきつくなり、車道も車がすれ違うのが難しいような幅になった。道沿いには小さな川が流れていて、清涼感のある音を立てている。ここ2日ほど雨が降っていたので水量も豊富だ。
汗を拭いながら車道を登り続けると、やがて左手に登山道入口の看板が現れた。看板といっても、手書きで書かれた木の板が括り付けられているだけだ。
登山道自体は荒れてはいないが、人の気配はない。蜘蛛の巣などがなければいいがどうだろう。
「思ったのとはだいぶ違う」
奈都が明るい声でそう言いながら写真を撮った。確かに、低山なので見晴らしの良い岩場の登山道は想像していなかったし、事前に登山ページの写真も見ていたが、イメージより鬱蒼としている。季節もありそうだ。
「低山は秋とか冬がいいのかもだね」
絢音がそう言いながら、念入りに虫除けスプレーを噴射した。私もそれに倣ってから、3人で記念写真を撮る。それをグループに投稿して、いよいよ土の地面に一歩足を踏み出した。