後編
そんな訳で財団に収容された私は、囚人みたいなジャンプスーツを着せられて、白衣姿の財団職員からこの施設についての説明を受けていた。
「……以上だ。お前は我らが財団に収容され、借金を完済するまでこのHPL財団の最下層の地位にあたる“Dクラス従業員”として雇用される」
「え!? ……ちょ、ちょちょちょっと待って下さい! 確かに私は借金を踏み倒して逃げようとはしましたけど、それでDクラス扱いとか死刑囚並みの犯罪を犯した訳じゃ……」
「何の話だよ。DクラスのDは“ダメ人間”のDだよ!」
そう言われてはグウの音も出ない。こうして私は簡単なレクチャーと訓練を経て、今日初めてDクラスとしてのお勤めを果たす事になったのだった。
……
……
……
……そいつは開いたシャッターの向こうから、名状しがたい巨体をゆっくりと揺らしつつ、屋内の照明の元に冒涜的な姿をさらけ出した。
ぶよぶよした肉塊のような膨れ上がった肉体と、それを被う灰色をした異形の皮膚。さらにその体表からは人間では有り得ないピンクの汗が滴っている。ああ、そして身体にも劣らない大きさの膨れ上がった頭部に、不釣り合いな程の小さな一対の漆黒の眼が私を見据えて……
……めんどくさい。
どう描写しようとも、私の目の前に現れたのは只のカバであり、やはりHPL財団のHPLは偉大なるハワード・フィリップスとは何の関係も無く、本当にヒポポタマス・パンチング・ラウンジ(カバ殴りラウンジ)の略称でしか無いと言う非常な現実を私に突き付けた。
ってか、本当にカバと殴り合わなければいけないんだろうか……私は目の前のカバと、自分の両手に装着されたボクシンググローブを交互に見ながら、軽い絶望感に捕らわれた。
相手は小柄とは言え本物のカバ。一方の私はと言えば、どこにでもいる只のサブカル好きでラヴクラフティアンのOLでしかない。あと、ついでに言えば動物に少々詳しいくらいか。
……読者の皆さんは、カバについてどれくらい御存じだろうか? あのユニークな顔や、鈍重そうな身体に惑わされてはいけない。奴は、実に俊敏で獰猛な一面を持つ巨獣で(大概は大人しいが)、実際カバの本場アフリカではカバによる死傷者が毎年の様に続出しているのだ。
奴の頭蓋骨を見れば(画像検索で簡単に見られます)、その恐ろしさが良くわかる。実に巨大な牙を何本も生やしていて、頭に角でも付けたら、ドラゴンの頭蓋骨と言われても信じる人がいるかもしれない。
特に恐ろしいのが、下顎から正面に水平に生えた一対の長い牙で、ただ真っ直ぐ突進しただけでもあの牙で突かれてしまうかもしれない。その巨体とスピード(時速五十キロは出る)と併せれば、それは恐ろしい威力になるだろう。
そんな相手に一体どうすれば……等とあれこれ考えてると、不意に室内にゴングの音が鳴り響いた。
始まった! 私は思考を中断して、カバの方を見た。……奴は最初の場所から動くこと無く、私にも関心の無い感じで、大口を開けてアクビなんかしている。そのおかげで例の大きな牙や歯が全てさらけ出され、思わず背後の壁際まで後ずさってしまった。
逃げたい! と思っても、私の背後には固く閉じられた鉄扉があるだけで、カバが入ってきたシャッターも、私が考え事をしてる間に閉じられていて、完全に逃げ場が無い。そのまま、まごまごしていると私の頭に装着されたヘッドギアの通信機から、財団職員の冷酷な声が入ってきた。
「Dー0523何してる。早くカバを殴れ。出来なければミッドナイトに送って終了させるぞ」
……前門のカバ、後門の財団と言うワケだ。でも、財団に逆らってミッドナイトの玄人衆の餌食になるよりは、まだカバを殴り倒して生存のチャンスを得る方が、生存確率も高そうだ。……少しは……ね。
私はカバに向き直り、見よう見まねでファイティングポーズを取る。カバは完全に油断して私に関心すら持っていない! 今なら行ける……かも! 大丈夫! 自分を信じて! 昔、某巨大掲示板の最強動物議論スレで、カバ厨に煽られた怒りと悔しさを思い出せ! カバよりはパンダのが強いに決まってるだろう! パンダが毎年何人の中国人を殺傷してると思ってるんだ! それに可愛いし! モフモフしてるし!
そうだ! いまの私は笹と血に飢えた一頭のパンダだ! パンダになったつもりで渾身の一撃を叩き込むんだ! いくぞ! うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!
ぺちん
私の渾身の一撃は、カバの大きな鼻の穴の間に正確にヒットした。しかし、当然ながらカバには何のダメージも与えられず、次の瞬間、私はカバの軽い体当たりを喰らって、鼻血を吹きながら無様に宙を舞った。
……
……
……
……数時間後、私は財団の医務室で手当てを受けていた。財団職員によればカバは目一杯手加減をしてくれていたらしく、軽い打撲と脳震盪で済んだらしい。ホッとしていると、不意に医務室の扉が開いてカバが会釈をしながら入ってきた。
「やあ、どうも。具合はどうです?」
カバは気さくに言いながら、私に持ってきた缶コーヒーを手渡した。
「あ、ども。もう大丈夫です。来週からまたカバ殴りに復帰できるみたいで」
「それは良かった。貴女の見事な吹っ飛び方に、財団のお客さん達は大喜びだったみたいですよ」
「はあ……」
褒められてるのやら、何なのやら。私は複雑な気分で缶コーヒーを一口啜った。カバはそんな私を見ながら、更に上機嫌で話を続けた。
「いや実際、貴女は凄い新人ですよ。久しぶりに凄い逸材が来たって、我々カバ仲間ではあなたの噂で持ちきりですよ。“我々が逆さになっても、貴女みたいには成れない”ってね」
「いやあ、そんな」
軽く照れる私に、カバは大笑いしながら言った。
「アッハッハッハ。だって“カバ”を逆さから読んでご覧なさい。まさに貴女の事では無いですか。我々が逆さになっても、そのあなたの本質には敵いませんよ。アッハッハッハッハッハ、アーッハッハッハッハッハッハッハッハッ」
……次の瞬間、私が繰り出した怒りのパンチはカバの身体を易々と吹き飛ばし、ヤツを医務室の壁に叩きつけるには十分な威力だった。
その後、数多のカバを殴り倒し、カバ殴りラウンジにその人あり……と恐れられる存在となったDー0523は、密かに数を増やしたカバを率いて大規模な収容違反を起こして、人類社会に反逆。
Kクラス世界崩壊シナリオを引き起こす事になるのだが、それはまた別の物語である。