表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ぼっち旅 カンボジア編  作者: 紀々野緑
4/5

目の前がまっくらになった

ホームシックになって引きこもったら、おねえやんにホテルを追い出された!


このおにいやん、昨日のあんちゃんよりスピードを出してチュクチュクを走らせている。危ないなあ。しかし、スピードが上がれば上がるほど、体にあたる風の勢いが強くなる。心地よい。

 バイクでツーリングに行く人は、この風を求めているのだろうか。ライダーたちが体感している風にも興味があったが、私は一生バイクに乗るつもりはない。免許を取得するためにかけるお金と時間がもったいないし、身体が露出しているバイクで事故を起こせば、命を失ってしまうかもしれない。

 風って不思議だよなあ。風にあたると、友人と野球をした日の帰り道、恋人とバドミントンで決闘した日、部活の練習で自然に囲まれた合馬を走った日など、楽しかった日々の感情や気持ちを思い出す。なぜだろう。特に、寒さと暖かさがブレンドされた春の風に体が包まれると、楽しい気持ちになる。しかし冬の風はそうならない。冷たいだけ。

 ホテルからアンコールワットへの道と同様に、空港へと続いている道の周囲には人工物はなかった。あるのは舗装されていない砂利道と、広々とした草原だ。ここをチュクチュクが走っている。しばらくこの草原のどこかでピクニックでもしたい気持ちになったが、おにいやんは許してくれるだろうか。ピクニックが終わるまで、昨日のあんちゃんのように待ってくれるだろうか。おいてけぼりにされる不安が拭いきれなかったので、ピクニックは断念した。 

 あ、牛がいる。近くに牧場があって、放牧されているのか。生きている牛をこんなに近くでみたのは初めてかもしれない。動物園に牛はいないからな。小学校入学から中学校卒業までの九年間、牛にはお世話になった。ごちそうさま。しかし、ご飯と牛乳の組み合わせはひどいですよ。

 焼かれた牛肉はおいしそうにみえるが、生きている牛をみてもおいしそうだなんて思えない。そもそも、草を食べて幸せそうな牛を解体するなんて、こわくて私にはできない。そんなこわいことをしてくれる人がいるからこそ、われわれは牛肉を購入することができる。

 生命を奪うって重いよね。重すぎる。精肉や戦争にかかわっている人は、その重さを背負って生きているんだな。

 私にも背負っているものはある。別に、誰かの生命を奪ったとか、そんなことはしていない。ただ、それがどんなに重くても、人に任せたり押しつけてはだめなのだ。どんなに重い思いであろうと、自分で背負っていかなくてはならない。と、西尾維新の『化物語』に登場する忍野メメに教えてもらいました。ちなみに担当声優は櫻井孝宏さん。おそ松の声や岸辺露伴の声も担当しています。「だが断る」で有名な露伴先生です。

 この広大な草原はどこまで広がっているんだろう。福岡県の面積よりも広いかな。いや、そんなことはない。福岡は広い。県内を一通り観光するには、一週間はかかるんじゃないか。

もっと時間がかかるかもしれない。

 周囲には同じ高さの草がたくさん生えていて、それがずっと続いている。だから、果てしなく広大な草原のように思ったんだろう。実際はそれほど広大でもなかった。その証拠に、空港や舗装された滑走路が目の前に現れた。空港の先がどうなっているのかわからないが、きっとこの空港が草原の終着点だろう。

 おにいやんはバイクのスピードを落とした。それに伴って風も弱くなった。

 「サンキュー」といって10ドル紙幣を渡した。

 「ごめんなさい。今お釣りありません」と申し訳なさそうな声を出した。

 「大丈夫。お釣りはいらない」といって、財布の中からリエル紙幣を取り出してプレゼントした。

 「あ、ありがとう」

 さらに申し訳なさそうに、おにいやんはつぶやいた。

 カンボジアの通貨はリエルだ。しかし、信用がなさすぎて、米ドルが流通している。運が悪いとリエルをつかまされるのだ。お金はフィクション。皆が信用しているから、お金に価値が生まれる。法律の同様だ。

 12時にシェリムアップ空港に到着。23時に出発予定なので、まだチェックインは始まっていない。だから、9時間くらいこの空港のどこかで時間をつぶさなくてはならない。とはいっても、カフェとか仮眠室のような施設はないんだよな。チェックインして、出国ゲートをくぐった先には、ファーストフードや免税店があって、とっても楽しそう。

 航空会社のカウンターが所狭しに並んでいるフロアでは、帰国予定であろう観光客が大勢いる。なので、すべてのベンチはすでに占有されていた。もともと設置されているベンチが少ないうえに、人が多いのだからしかたがない。ベンチに座れなかった人は、壁を背にして床に座っている。私もそうしよう。

 ひんやりして心地よい。『神々の山嶺』の上巻を読み直そうと、リュックから取り出す。本を読みながら、スーツケースが盗まれないよう、ときどき周囲を見渡す。マルチタスク。

 突然、ゴトッ、クルッ、ゴトッという音が左方向から聞こえた。びっくりした。車で左折するときのように、左方向を確認。

 スーツケースに、ラップのような、伸縮する透明なビニールを巻きつけていた。観光客が係員に料金を支払っている。有料のようだ。このときはなぜこんなことをしているのか、まったくわからなかった。一応、盗難防止のためではないかという仮説を立てたが、どうやら違う目的がありそうだ。気になって、帰国後に調べてみた。

 スーツケースの中に、麻薬など、法に触れるものが入っていたため、有罪になった人が過去にいる。しかし、その人は麻薬の売人ではなく善良な観光客だ。それではなぜ、スーツケースの中に麻薬があったのか。それは、空港の職員に麻薬の売人と協力関係にある者がいて、そいつが密輸のために客のスーツケースをこじ開け、麻薬を忍ばせたのだ。たぶん、概要はこんな感じだったと思う。

 ビニールで包んでおけば、簡単に開けられない。開けたとしても痕跡が残ってしまう。自分を守るためには必要なことだな。やはり、今のところは性悪説が優勢かな。

 「すいません。写真を撮ってもらえませんか」

 眼鏡をかけた中年のおじさんに声をかけられた。丸眼鏡じゃないから中国人だと思う。きっとそうだ。

 「いいですよ」と、承諾した。好青年は人から何か頼まれたら断れないのだ。

 おじさんは手をグーの形にして腰に当てている。ちょうど、大腿四頭筋と腹斜筋の境だ。そこに手を当てるときは、パーの形になることが多いのだが、このおじさんはグーになっている。写真を撮るときのこだわりだろうか。

 写真を撮り終えると、おじさんは「ありがとう」といって、どこかに消えた。

 二周目を読み終えたところで、私が搭乗する予定の飛行機のチェックインが始まった。21時くらい。やっと日本に帰れる。和食が食べたい。白米と漬物と味噌汁。この三つの組み合わせは最高だからね。あ、麦茶を忘れていた。

 立ち上がる。そのとき、頭が痛くなったし、少し意識が遠のいた。疲労が蓄積している。ふらつきながら、大韓航空のカウンターを目指して、ゆっくりと歩く。

 長い行列ができている。10人は並んでいた。少ないと思うかもしれないが、チェックインには時間がかかるので、10人というのは多い方だ。

 とうとう立っていられなくなった。だんだん視界が黒くなってきた。このまま立ち続ければ倒れる。そう思って、スーツケースの上に座った。

 列が動くと、そのときだけ重い腰を上げて前に移動する。そして再びスーツケースの上に腰を下ろす。そうやって少しずつ前に進んだ。

 自分の番が来た。リュックからパスポートを取り出す。そして、これまでと同じ方法で前に進んだ。

 将棋で王手をかけるような勢いで、パスポートをカウンターにたたきつけた。それと同時に、自立できなくなって、右方向に体が倒れ始めた。その瞬間、どこからか車椅子が現れて、そこに着地することができた。

 チェックインできたんだろうか。車椅子でどこかに連れて行かれている。どこに向かっているのだろうか。よくみえない。私の目が色を認識しないのだ。すべてのものが黒くみえる。目の前がまっくらになった。ここでサブタイトル回収。

 私はベッドの上で横たわっていた。白衣を着たおじさんが私の脈を測っている。冷たくて心地いい。どうやらここは、空港の医務室のようだ。目の機能が回復したらしく、色を認識できる。

 このドクターの髪はほとんど白に染まっている。黒に染めずに、老いを受け入れようとする姿勢は尊敬できる。

 「日本に帰るの?」と、ドクターが静かな声で尋ねた。

 私は首を縦に振る。この国でもきっと、首を縦に振る動作は「YES」を意味しているはず。

 「出発まで休んでください」

 そういってからドクターはずっと黙ったまま、私のそばにいてくれた。

 医務室に、女性の職員が車椅子を押してやってきた。出国時間が近づいているのだろう。車椅子に移動する際、ドクターが体を支えてくれたので、転倒するかもしれないという恐怖はなかった。

 少し休んだだけで、こんなに元気になるとは。元気とはいえないけど、スーツケースに座っていたときに比べれば、体調は良好だ。

 医務室から出る際、ドクターは私の膝の上に500mlの水を一本、そっと置いてくれた。

 「体調はよくなりましたか?」

 車椅子を押しながら、おねえちゃんが尋ねた。

 「大丈夫です。おなかがすいているだけです」

 「最後に食べたのはいつ?」

 「朝です」スクランブルエッグとトースト。それからオレンジジュース。もうかれこれ10時間は何も食べていない。

 「モーニング?嘘でしょ?ハンバーガーとかあるから、買って食べてください」

 心配そうに、そういってくれた。人から親切にされると嬉しいけど、心配されても嬉しいんだな。

 出国ゲートを通り過ぎると、これから帰国することを待ち望んでいる観光客がたくさんいた。たいてい、複数人で免税店の商品を物色したり、ハンバーガーを食べたりしている。ぼっちは私だけだ。たぶん。

 ホットドッグを食べた。おねえちゃんは仕事に戻ったので今は一人。「またあとで」といっていたので、すぐに会えるだろう。話し相手がほしい。

 空腹で倒れたあとに食べるホットドッグは最高だった。これ以上においしいものなんて、この世にないのではないか。そう思った。一生忘れられない味だと思った。しかし、結局のところ思っただけで、今ではその味を忘れてしまった。

 おねえちゃんが車椅子を押してやってきた。待ってました。

 「これから飛行機まで送っていきますね」

 「お願いします」

 本当は一人で歩けるだけの体力は回復していたけど、おねえちゃんに甘えることにした。甘えるという経験が少ないので、親切な人には甘えたくなるのです。

 滑走路を車椅子に乗って前に進む。おねえちゃんが一生懸命車椅子を前に押してくれている。車椅子だけでなく、私の背中を押してくれているようにも思った。そして、飛行機の搭乗口前で停止した。

 私は立ち上がる。そして、おねえちゃんに「ありがとう」とお礼の言葉を述べて、機内に入った。今ではおねえちゃんの顔、そしてドクターの顔を忘れてしまった。しかし、親切にしてくれたことは憶えている。


この経験から、身長170体重60の男性は10時間何も食べないでいると、倒れるということがわかります。みなさんも気をつけてください。

体は資本です。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ