30ドルの査証
韓国での旅を思い出しながら、飛行機に乗り込む。
今回の旅の目的地、カンボジアを目指して。
これまでの旅は何事もなく無事に乗り越えられた。
それは、人との出会いがあったから。
しかし、これからの旅では都合よく人と出会えるわけもなく、海外でもぼっちになっていく。
飛行機の窓から外を眺めてみた。ソウルに密集している高層ビルや街灯の明かりがみえた。二月とはいえ、日没はまだ早いように思う。空から見るソウルの夜景は、暗闇と明るさのコントラストが映えていて綺麗だ。特に、高層ビルがたくさん建設されているおかげで、光が地上だけでなく、はるか上空にもあるので、美しさが際立っている。つまり、立体的なのだ。
シェリムアップ行の飛行機も窓側の席に座れた。太陽は昇っていないので、窓側に座る利益は、離陸と着陸のときに夜景を楽しむ程度しかない。17時に仁川を出発して、22時にシェリムアップに到着する予定だ。5時間も座っていなければならない。90分の授業でさえ疲れるのに、5時間も座っていれば病気になるんじゃないかと思った。
ソウルの街並みがみえなくなるくらい、飛行機が高度を上げたところで機内食が運ばれてきた。仁川行の飛行機では豆菓子と水しか支給されなかったので、どんな料理が提供されるんだろうとワクワクしていた。ワクワクといえば、「つくってあそぼ」というテレビ番組が以前、NHKで放送されていたのをご存知だろうか。赤い帽子と眼鏡を身に着けたワクワクさんと、ゴロリというクマのキャラクターで番組を進行している。トイレットペーパーの芯や折り紙などを利用して、楽しいおもちゃをつくるという子供向けの番組だ。私も幼いころはこの番組をワクワクしながら見ていた。
私の友人に、ゴロリの声真似をしながらとんでもないことをいうやつがいるのだ。
「なにこれ?こんなの作りたくないよーだ」
本物のゴロリは決してこのようなことはいわない。と思っていてが、実はいっていたのだ。気になる人は調べてください。
ちなみにシェリムアップ行の航空会社も大韓航空。大韓航空が提供する機内食のクオリティは高いのだろうか。
器にはアルミホイルのようなもので蓋がされている。アルミホイルをはがして料理を確認した。写真を撮っていないので、はっきりとは憶えていないが、白飯と魚の料理だった。それから、別の器にフルーツが詰め込められていた。
白飯はべちゃべちゃしてまずい。魚もまずい。このことから、大韓航空の機内食はまずいということがわかった。しかし、ファーストクラスの機内食は豪華でおいしいんだろうな。エコノミークラスの機内食でおいしいのはフルーツだけだ。
食事がすむと、することがなくなって暇になった。夜のフライトは、機内の明かりを落としているので読書はできない。退屈だ。あ、そういえば映画があるじゃあないか。
国際線の飛行機では、日本国内ではまだ未公開の映画をみることができる。そのことを思い出したのだ。あと4時間はあるから、二本はみることができる。座席の背にモニターがあって、海外ではすでに公開中の映画のリストが並んでいる。無料だから、飛行機に乗ったら映画を見ないと損なのだ。映画館に行けば、一本1000円以上はする。しかし、飛行機では何本見ても追加料金は発生しない。
たくさん映画があって、どれをみるのか悩んだ。何にしよう。リストを眺めながら考えた。そして「ザ・ウォーク」という映画に決めた。
内容はあまり憶えていない。日本語の字幕がなかったので、ストーリーが頭に入ってこない。ドラえもんとは大違いだ。子供の頃から綱渡りが好きな主人公は、大人になってからも綱渡りをやめなかった。アメリカの大都市で、柱と柱の間にロープを巻きつけて、その上を歩いている。綱渡りが趣味の人なんてなかなかいないだろう。
この主人公は、普通の綱渡りに満足できなかったのか、二つの超高層ビルの間を一本の綱で接続して渡ろうとしたのだ。結局成し遂げたのだが、この男の綱渡りに対する執念はすごい。
映画を一本みたところで、あと二時間もある。しかたなくもう一本みることにした。「ラストウィッチハンター」という映画だ。睡魔に襲われていたうえに、すでに映画を一本みていたので疲れていた。だからまったくストーリーが理解できなかった。スキンヘッドのおじさんが剣を武器にして、魔女と戦っていることは読み取れた。
ネットでもこの映画の評判は高くなかった。つまり、体調が良好なときにみてストーリーを理解したとしても、この映画はつまらないということだ。
物語が終盤にさしかかったところで、飛行機が着陸態勢に入った。窓から外の様子を確認してみた。ソウルの夜景が立体的なら、シェリムアップの夜景は平面的だった。
カンボジアの首都はプノンペン。一方で、アンコールワットの所在地であるシェリムアップはただの田舎町にすぎない。だから、高層ビルのような近代的なものがシェリムアップにあるわけがない。そのため、自然と明かりは地上付近にしか存在していない。上空から町の様子を眺めてみると、たき火のような明かりが平面的に分布している。ソウルの夜景もいいものだが、シェリムアップの夜景も好きだ。穏やかな気持ちになるから。
飛行機から降りると、そこは滑走路だった。空港と飛行機が通路で接続されていなかったのだ。しかも、300メートルは距離がある。歩くのは好きだし、5時間も座っていたので丁度いい運動になるだろう。
空港は福岡空港や仁川空港に比べると、二分の一以下の大きさしかない。それもそのはずで、シェリムアップ空港は一階までしかないのだ。首都のプノンペンにある空港はここのよりは大きいだろう。
空港に入ってからまず行われるのが入国審査。その際には査証、いわゆるビザを取得しなくてはならない。大多数の国と協定を締結しているので、通常はビザを取得しなくても入国できる。しかし、日本とカンボジアは協定を結んでいないので、ビザを取得しなくては入国できない。
長い列ができている。一日にこれだけの観光客が来るのか。カンボジア政府の収入は観光産業によるものが多いらしい。本当にその通りだ。よくわからん遺跡をみるために、世界中から物好きな連中がやってくる。自分もその一人なのだが。
ビザを申請するために、書類に必要事項を記入していく。英語表記だったので、難なく記入できた。これがよくわからない言語で表記されていたらお手上げだったぜ。写真を添付する枠が書類の右上にあることに気づいた。写真もってないぞ。
確か、写真を忘れた場合は空港で写真撮影する必要があったはずだ。しかも有料。ただでさえビザ申請に30ドルくらいかかるので、そのうえ写真代までとられてしまえば、カンボジアで豪遊するだけのお金がなくなってしまう。
やっと入国審査が自分の番になった。これまでは、誰も写真撮影していなかったので、きっと事前に撮影して持参していたのだろう。準備を怠った自分が恥ずかしい。
30ドルと一緒に書類を職員に渡した。写真撮影にはどれくらいお金がかかるんだろう。
「オーケー。パスポート」
写真はなくてもいいのか。パスポートを手渡すと、スタンプを押してくれた。ビザの取得の審査は緩いんだな。お金さえ払えば写真なんてものは不要なのか。産業が発達していないカンボジアにとって、何より大切なのは、少しでも多くの外国人に国内でお金を使ってもらうことなんだろう。だから、写真がないくらいではビザの申請が拒否されることはない。
空港の中は狭い。航空会社のチェックインカウンターは五つくらいしかないうえに、二階がない。ほかには、ファーストフード店や免税店がいくつかあるだけだ。
空港の外に出ると、空港の職員らしき男に話しかけられた。
「ホテル?」
ホテルを手配してくれるというのか。しかしホテルは事前に予約している。ホテルよりも移動手段が欲しかった。
手帳にメモしてあったホテルの名称を、まだ10代にみえる男にみせた。すると男は
「タクシー?」といった。察しが良くて助かる。
「イエス」
私はこの男にタクシーの手配を頼んだ。5分もたたないうちに、少し太った中年男性がやってきた。この人がホテルまで送り届けてくれるのだろうか。
「私たち友達ね。少し待っててね」とタクシーのおっちゃんが言ってからしばらくして、大きな車に乗ってやってきた。8人は乗れそうだ。
誘拐されそうで怖かった。しかし、ほかにホテルまで行く手段がなさそうだったので、このおっちゃんを信じて車に乗り込んだ。
車内は、砂や土が床に転がっていて汚い。そして何よりもつらいのは高い気温だ。5時間前まで韓国にいたので、まだコートを着ていたのだ。カンボジアに到着してからも入国審査などで忙しく、コートを脱ぐ機会を失っていた。
車が動き出した。エアコンをつけてくれたので、少しは暑さをしのげそうだ。それにしても、道路を走っている車はこの車のほかにはない。22時を過ぎているとはいえ、静かすぎる町だ。
日本では馴染みがない様式の建物がいたるところにあって、海外にやってきたという時間が湧いてきた。
「彼女いる?」
「いません」
唐突におっちゃんが話しかけてきた。恋愛に関する話題は、コミュニケーションを円滑にする役割があるのだろうが、私にとっては嬉しくない話題だ。
「なぜいないの?」
いないからいないのだ。どうしてカンボジアに来て、私の恋愛事情を根掘り葉掘り聞かれなくっちゃあならないんだ。「なぜいないの?」という問い方は、恋人がいることが当たり前だという前提がある問い方だ。恋人がいて当たり前、結婚して当たり前という一方的で、個人の考えを尊重しない言説はカンボジアにもあった。
カンボジア人大嫌い。
「アンコールワット行くの?」
愚問だな。
「もちろん」
「タクシー使う?」
「歩いていきますよ」
「すごく遠いよ」
これ以上会話は続かなかった。嫌いな人とは関わりたくないからね。
ホテルには、22時50分に着いたと思う。車から降りると、おっちゃんは無表情でホテルの方向を指さす。このときのおっちゃんの顔はこわかった。スーツケースを引きずって、逃げるようにホテルを目指した。
「チェックイン」と受付で待機していた従業員に伝えた。名前を尋ねられたので教えたところ、私はこのホテルを予約していないことがわかった。
そんなはずはない。手帳にメモしたホテルの名称をみせた。「バイヨンシャドウヴィラ」というホテルだ。従業員は
「バイヨンシャドウヴィラは隣の建物です。あなたが今いるのは、ゴールデンパピヨンです」
ホテルを間違えていたようだ。タクシーのおっちゃんが案内してくれていたらな。カンボジアの人は不親切だ。
バイヨンシャドウヴィラは一泊3000円の格安ホテルだ。値段の割にサービスがいいという口コミをみたのでここを選んだ。
10代後半とみられる女性従業員に鍵をもらって、二階の部屋を目指す。このホテルは入り口で靴を脱がなければならない。日本的だ。床は石でつくられているので、ひんやりして心地良い。
指定された部屋はなかなかの広さだった。小型テレビに、トイレとシャワー。それから大きなベッドと500mlの水が二本。エアコンはなかったが、天井にある大きなプロペラが扇風機のような役割をはたしていて、風を送ってくる。
明日に備え、すぐに眠ることにした。その前にシャワーを浴びたのだが、冷水しか出ない。カンボジアの人はこんな環境で過ごしているのか。温かいお風呂に入りたい。
シャワーのほかにも不満はあった。鍵をかけても、ドアノブを回せば簡単に鍵が外れてしまうのだ。防犯に問題あり。しかし、そんなことを気にするだけの体力はなく、すぐに眠ってしまった。
タクシーのおっちゃんは怖かったですね。
「We are freand」とか言っておきながら、別れは素っ気ないものでしたから。
結局、人というのはそういうものなんですかね。
自分の興味や関心がない事柄には、とことんどうでもよく思っているのでしょうか。