あなたの愛した私
あの寒い夏、恵梨奈が死んだ。
私のろくでもない人生を変えた一人娘。
心の底から愛せた、愛おしいあの笑顔はもう戻ってこない。
目をつぶると、まだ恵梨奈のコロコロ笑うあの愛おしい笑顔がよみがえる。
いつか、私の中からあの恵梨奈の可愛い笑顔は消えてしまうのだろうか。
どれだけ目をつぶっても恵梨奈の笑顔が思い出せない日が来てしまうのだろうか。
そうなってしまう前に、私はこの人生を終わりにしてしまいたい。
だから、また新しい町へ行こうと思う。
私のことを誰も知らない静かな町へ。
私には父がいない。母もいない。
かすかに記憶の片隅にあるのは私が5歳になったあの日、父と母が私を置いて出ていったこと。
家族の思い出がたくさん残っている古いワゴン車に乗って父と母は私だけを残して消えた。
母の最後の言葉は
「幸子、元気でね。」
それだけだった。
私はその日からおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らすことになった。
その日食べるはずだったイチゴのケーキは用意されてなかった。
ケーキがあったところで食べられなかったかもしれない。
一晩中泣いていたから。
寂しくて寂しくてたくさん泣いた。
そんな私におばあちゃんは乾いた声で
「これからはじいちゃんとばあちゃんと一緒に生きていくんだよ。泣いてたってどうにもならないんだよ。」
と言ってきた。
優しく抱き締めてくれたら泣き止んでいたかもしれない。
でも、おばあちゃんはそんなことはしてくれなかった。
してくれるような人でもなかったんだと思う。
5歳の私はちゃんと理解もできないままただただ泣いた。
私がワンワン泣く姿を見て、おばあちゃんの拳は少し震えていたと思う。
おじいちゃんと私は血の繋がりがない。
私がその事をいつ知ったかは覚えてないけれど、いつの間にか知っていた。
おじいちゃんとおばあちゃんは古い借家に住んでいて、夏になるといつも窓が開いていた。
笑い声も、喧嘩をする声も全部外に聞こえる。
おじいちゃんは夜お酒を呑むといつも人が変わったように暴れる。酒乱というらしい。
昼間はニコニコしている優しいおじいちゃんが、夜になると化け物になっていくような感覚を覚えていた。
おばあちゃんは
「じいちゃんは人前ではいい人ぶって、家ではいつもそう。」
と、ことあるごとに私にこぼしていたが、おばあちゃんの私はそんなおじいちゃんが大好きでもあったし、大嫌いでもあった。
どんなに酔って暴れていても私を殴ることは一度もなかったけれど、幼心に傷はついていた。
私が男を覚えたのは中学校三年生の冬だった。
同級生とか先輩とかロマンチックなものではなく、相手は頭の禿げ上がった見知らぬおじさん。
完全に援助交際。
その理由はレッスン費用を稼ぐため。
芸能人になりたかった。アイドルになりたかった。
当時、アイドルがテレビで
『原宿でスカウトされたんですぅ。』
と言うのが流行っていた。
超が付くほどの田舎から友達と原宿に遊びに来て、スカウトされて芸能人になった、という子が数えきれないほどいた。
ある日、テレビを見ていたらデビュー当時は真っ黒に日焼けしていて顔が真ん丸だった少女が、大人の手を介してスターダムにのしあがり、19歳という若さで親に一軒家をプレゼントした、なんていう涙ぐましいエピソードが披露されていた。
私はそれを見て。これだ!とひらめいた。
私が芸能人になれば、私を捨てたお父さんやお母さんを見返すことができるんじゃないか?
ひょっとしたら、ひょっこり会いに来て、また一緒に暮らせるかもしれない。
そんな淡い期待もあった。
そもそも、おばあちゃん達の生活はごくわずかな年金生活で賄っていたので、贅沢をする余裕など全く無く、思春期の私にとっては非常に辛いものだった。
かわいい文房具が欲しい!
おしゃれな服が欲しい!
自分の部屋にテレビも欲しい!
そう思っても何も買ってもらえない。
だったらいっそのこと自分で稼いでしまおうと思ったのだ。
だが、現実的に考えると日常的にお金のないわが家のことだ。
新幹線で東京まで一時間。普通電車で二時間半かかる道のりを中学生がスカウトのために何度も原宿まで通うというのには無理がある。
そこで私が考えたのは新聞の広告。時々テレビ欄の所に芸能事務所の『あなたも芸能人になりませんか?』というものが載っている。新聞は読まないけど、テレビ欄は見るから覚えていた。
部屋の片隅に無造作に積み上げられた新聞の山をあさり、『芸能人になりませんか?』を探した。
その部分を切り抜き、全身が写っている写真と顔がアップになっている写真を封筒に入れ、必要事項を記入し、近くにあるポストに投函した。
後はあちらからの返信を待つのみ。
思い立ったらすぐに実行するのが幸子の癖だった。
人間は子供の頃からの癖がいくつか残りながら大人になる。
勿論、大人になるにつれて子供の頃の癖が無くなっていくこともあるが、幸子の子供の頃からの癖はいい事も悪い事も大人になるまで残ることになる。幸子の存在は癖というもので成り立っているかのようだった。
あちらからの返信は一ヶ月半を過ぎた頃だった。
『書類選考通過しました。二次は文化センターでのオーディションとなります。二次を受ける際、オーディション費用として二万円ご持参ください。』
早速、おばあちゃんに報告。
「おばあちゃん。私、芸能人になるからお金ちょうだい。」
「は?何をバカなこといってるんだろうね。そんなお金どこからも出てこないよ。」
それもそうだ。鉛筆削りを買ってもらえない程の貧乏な家庭環境で、二万円なんて大金どこからも出てくるわけがなかった。