指導始動
——天井が高い、あとなんで神織さんがここにおるんや。
「良いご身分だなソウメイ」
神織はソウメイが横になっているベッドのそばに立ち、淡々と布団の上に分厚い本を乗っけている。表情は仏頂面で、どこか機嫌が悪い。
「お、重いです」
広辞苑くらいの大きさの本4,5冊がキングサイズのベッドの上を覆いつくす。
「朝食をとったらさっそく、この本を読んでおいて」
「昨日言ってた修行って勉強のことだったんですか」
「うん、まあそれだけじゃないんだが、とりあえず、お昼くらいまではそいつらをひたすら読んどいてね」
そう言うと、神織は部屋を出ていってしまった。
神織の長い黒髪がおおげさに空中を流れる。
その素後ろ姿を見送りながらソウメイは昨日の神織と出会った時のことを思い出していた。
——森の中に大きな家が見えたときは驚いた。ハリウッドスターの自宅を動画で見たこともあるが、そのときと同じような印象を抱いた。家を囲う壮大な森と相俟って自分の驚きの感情キャパはすっかり超えてしまった。そんな心の内であったが、その家の中にいた人物を見た瞬間は、どこか懐かしさを覚えた。くっきりした目、170cm以上はあるすらっとした体格、しわ一つない白いワイシャツと足腰にフィットしたストレッチパンツはシンプルだが、そのシンプルさが、さらにその人物を際立たせていた。
——
困ったような嬉しいような表情で寝癖の頭を気にしながら、部屋一面を改めて見渡した。
小窓からこぼれる日の光が床の一部に差している。床は薄肌色の木材のフローリングで、塵一つ落ちていなさそうな清潔さが見て取れた。部屋の一隅には高い天井まで届きそうな観葉植物が置いてあったが、森に囲まれた家において、部屋の中にまでわざわざ緑を飾っておく意味はあるのだろうかとソウメイは思った。
——勢いに流されたとはいえ、昨日知り合った他人の、しかもよく知らないあったばかりの女性の家で一晩寝るとは、なんともまああれだな。
自分の置かれた状況に困惑しながらも視線を白い布団に移し、神織が置いていった数冊の内一冊の本を手に取りペラペラとページをめくっていく。
「なんの本なんだこれ。数学かな」
一冊一冊本をめくって確かめていき、あとでこれを読まなくちゃいけないことに少し不安を抱いた。
ソウメイは人並み以上に勉強はできると自負しているが、学ぶことに対してあまり意欲がわいたことはなく、むしろ自身にとって嫌いな類の事柄であることを自覚している。
寝癖の部分を気にしながら、ベッドから立ち上がりリビングに向かう。
「おはようございます、神織さん」
寝室で少し会話はしたが、ソウメイは改めてあいさつをした。
「うん、おはよう」
神織は挨拶を返すだけでソウメイのほうを振り返らず、窓の方をむいて本を読んでいる。
テーブルの上にはトーストや野菜、卵など一般的な朝食に出てきそうなものが、準備されていた。久しぶりにまともな朝食を食べるなと、ソウメイは一人感動していた。母があの世に行ってしまって以来、朝食の時、栄養に気をつかったようなものを食べた記憶がほとんどなかった。
——でも確か最初の頃はおやじが頑張って作ってたっけか
ソウメイの母親はソウメイがまだ中学生だった時に交通事故で亡くなった。あまりに突然のことでソウメイは、母が死んだという事実を受け入れることができなかったのか、一か月近く魂が抜かれたようにぼっーとしていた。そんなソウメイの姿を気遣ってか、父親はわざとらしく元気にふるまっていた。母親の代わりをしようと、毎日母がやっていた家事も一生懸命こなした。特に朝食は抜かりなく作り続けた。母親が生前、毎日のように言っていた「しっかり朝ご飯を食べなさい」をソウメイのために実行させ続けたのである。しかし、ある時を境に父親は元気をなくした。仕事でうまくいかないことでもあったのか、はたまた毎日の家事につかれてしまったのか。母の死にようやく向き合ったのか。
ソウメイは改めて父親には感謝の言葉を伝えようと思った。言葉では照れ臭いので何かプレゼントするほうがよさそうだな、などと考えをめぐらしながら、神織が用意してくれた朝食にありつく。
「おいしいです、神織さん」
「そうか、明日からはソウメイ、君が朝食担当だからよろしくね」
本から目も話さず、淡々と明日からのソウメイの仕事を伝える。
ソウメイはもちろん否定することもできず、
「わ、わかりましたー」
と応え、肩を落とす。何が作れるかなと明日の献立をきにしながら、それからは熱心に料理を口に運んでいった。
——そういえば俺ってどうやってここにきたんだ。