おでんとインスタントラーメン
トラウマは、今すぐどうにかなるもんじゃないので、とりあえずあったかいもの食べて、身体だけでも元気にして人生に臨まないと。
昼時に学食にいったら満席だったから、時間がたってから出直した。
カレーが食べたかった。
カレー、カレー、ひたすらカレー。
カレーのことばかり考え続けて、一人ぽつんと講座で過ごし、やがて学生の集団が楽しそうに入ってくるのと入れ替わりに再び食堂に向かった。
食堂はすいでいたのだが、わたしは引き返した。
学食のど真ん中で、きゃっきゃっと賑やかに笑いながらコーヒーを飲んでいるグループを見て、思わず回れ右した。
麻痺しかけているほど空腹のおなかを抱えて外に出ると、身を切るような風がひゅうと吹いた。
午後からの講義が休みだったから、どこに行くあてもないから幽霊下宿に戻る。
自転車小屋に愛車を置き、二階の幽霊部屋を見上げた。
除霊体質のハイジが帰っている時、自宅の雰囲気は外から見ても分かるくらい明るい。
今は当然、ハイジはいない。
陰気そうな自室の窓を見上げ、あーあ、と呟きながらコンクリの階段を上がった。
玄関を開くと、いきなり出迎えがあった。
「おかえりなさい」
とびきりの笑顔で、新妻みたいに言ってくれる。幽霊なんだけど。
クララは亡くなってから、よくうちに現れるようになった。現われる度にペーターの群れに襲われるので、いいかげん懲りて成仏すればいいのにと思うが、やっぱりまた現われるのだった。
ああ、うん、と言いながら幽霊の歓迎を交わすと台所に入る。
ぐうぐうと惨めに鳴るおなかに手を当てながら、棚の中を探るがレトルトカレーの在庫が切れていた。
この際、空腹を満たせれば良かったので、インスタントラーメンを一つ取り出す。
ああ、チャ●メラよ。
鍋にお湯を沸かして調理にかかっていると、破られてテーブルにうちやられたパッケージを見て、珍しそうにクララが言った。
「まあ、面白いラーメン」
あまり機嫌が良くないわたしは、終始無言でラーメンをゆでつづけた。
具なんかどうでもいいが、ネギくらいあるかなと思って冷蔵庫を見ると、あったのはラップのかかった皿だけだった。
なあんだ、昨日の残りのおでんじゃないか。
「食べてもいいよー」
と、ハイジが今朝言っていたから、遠慮なくいただいちまう。皿をレンジに入れてチンしていると、きゃあっと声がした。振り向くまでもなく、クララがペーター共に襲われているのだろう。
「あーこらこら」
案の定、クララを取り囲んだ生臭幽霊どもが、相手が怯えているのを幸いに、髪の毛をなめたり、スカートの中を覗いたり、好き勝手なことをしていやがるじゃないか。
「君たち止めなさいよー」
棒読みで言いながら、ぱっぱっと食卓塩をかけてやった。
すると、クララもろとも一瞬にして幽霊群は消滅した。
(やれやれだぜ)
慌てて火を止めてどんぶりに移す。
のびちまうところだったじゃないか。
具なしのチャ●メラと、おでんが目の前に並んだ。
ほっかほかの湯気が上がり、昼の嫌な思いが消えかける。
(ラーメンのにおいには、鎮静作用がある)
では、と一口いただこうとした瞬間、また細い声がした。
「それ、美味しいですか」
ああん、と視線を上げると、性懲りもなくクララが現われていた。向き合った席に座り、首をかしげている。
無視して、あーんと口に運ぼうとすると、また一言追ってきた。
「具がなにもないラーメンって新鮮で」
イライラが喉元まで込みあがってくる。
この空腹は自分の責任だし、惨めな思いを抱いたのも、誰のせいでもない、自分が勝手に招いたものだ。
クララは何も悪くない。
なのに箸を持つ手がこわばった。どうしようもないムカムカが全身を支配する。
ねえー、…さんが、きゃははは。
ええー、それってやっぱり?
やだー、うふふ。
華やかな女子学生のグループが、昼を過ぎた学食で、コーヒーを飲みながら楽しそうに話し合っていた。
自分のことを言っているわけじゃない。
でも、あの恐怖心は何なんだろう。
別に、学食に入って行って、隅っこのテーブルに一人で座って、カレーを食べる位、なんでもないことだ。
そりゃ、もしかしたらグループの誰かが一人で食事をする地味なわたしに気づき、あれ、あの子見たことないね、とか言うかもしれないが、それはその時だけのことだ。誰も悪意なんかない、はずだ。
何でもない、本当になんでもないことのはず、だ。
否。
ふいにわたしは息が詰まるような暗いものを感じた。
心の中で、ずうんと重たく沈み込んでいる、沼のようなもの。
とらわれて足が動けない、澱んだ何かがあるのだ。
(何でもないことじゃない)
どうしようもなく深いこと、もう解決しようもないほど、重たくなってしまった問題。
繰り返すのだろうか、同じことを。
学食に苦手なタイプのグループがいる度に?
例えば就職した先でも同じようなことが?
じゃあ、わたしがいてもいい場所って?
「ねえ、どうして成仏できないの」
ひょいと出てきた言葉に、自分でもぎくっとした。
けれどクララは相変わらずにこにことして、うん?と首をかしげている。
「何かやり残したことがあるの」
立て続けに聞いてしまった。
クララは穏やかに微笑んでいる。仏みたいな顔だ。…ある意味、既にホトケなんだが。しかも。
「わたしが死んでも代わりはいるもの」
などと、どこかで聞いたようなことを言うじゃないか。
狙って言っているわけじゃないことは、分かっていた。クララはアニメなんか見ないだろうから。
「わたしはね、生きていた時は色々辛いことがあったけど、楽しいこともあったなって、思えるからいいの」
じゃあなんで潔く成仏しないの、ペーターたちに嫌がらせされるだけで、いいことなんかないじゃない。
そう思ったら、思っただけなのに、まるで心を読んだみたいにクララは笑った。
うふふ、と。
「わたしのタルト、美味しかったですか」
聞かれたので、わたしは頷いた。
クララは蓮の花のような笑顔を浮かべると、ゆっくりと立ち上がり、後ろを向いた。
あ、あ、あ、と言っている間に、クララの姿は薄くなってゆき、どんどん空気に溶けてゆく。
時間が来たみたいですから、さよなら。楽しかった。
そんな優しい声が聴こえた気がした。
毎日しつこいくらいに現れていたクララの霊は、唐突に消えてしまった。
すっかり伸びたインスタントラーメンと、まだ温かいおでんだけが残っている。
なぜか箸を持った手を、何もない宙に伸ばしていることに気づき、わたしはとりあえず食べることにした。
幽霊に八つ当たりしたことや、成仏の瞬間にいじわるをしてしまったことや、救いようもないほど伸びてしまったラーメンについて情けない気分になっていると、能天気にハイジが帰ってきた。
「ただいまー、あれー昼ごはん、遅いねー」
あ、ラーメン、いいな、と言いながら部屋に飛び込み、コートを脱いでから台所に戻ってくる。
例によって、ぱっとオレンジの光が舞い込んだように部屋が明るくなった。つやつやのホッペに満面の笑みを浮かべ、どさっとエコバッグをテーブルに置いた。
「ネギー!もやしー!ひき肉ー!そしてー」
ドン、とワ●ピースの漫画によく出てくる効果音をしょって出てきた(ように思えた)のは、レトルトの鍋のスープだった。ものすごく嬉しそうにハイジは言った。
「もやしタンタン鍋だよー、今夜はこれ食べて、ロードショー見よう」
そういえば、今日は金曜日だったな、とわたしはハイジに釣られて何となく楽しくなった。
今晩のロードショーを、先週からずっと楽しみにしていたことを思い出す。
「焼酎、新しいの開けようねえ、あ」
と、わたしの手元を見てハイジはぽつんと言った。
「わたしもラーメン食べようかなー」
おなか空いちゃった、人の食べてるの見たら、とか言うので、思わず笑ってしまった。
「作ってあげる。ついでにわたしのも作り直すわ。のびちゃって」
えー、悪いねー、ありがとう、とか言いながら、ハイジは買ってきた食べ物をどんどん冷蔵庫に詰めていった。
空に近かった冷蔵庫に食べ物が入ってゆくのを見ると、自分の気持ちまで満ちてゆくような気がする。
「チャ●メラだよ」
と、言いながらわたしは立ち上がっていた。二人分のラーメンを作るために。
心の奥深い傷は、深海のような光の刺さないところにあるから、自分でさえも手が届かない。
澱んだ沼の中で重苦しく沈んだそれは、いつでもふとした時に出てきて、わたしを苦しめるだろう。
何度でも、繰り返し、繰り返し。
きざみネギを乗せたラーメンとおでんを前に、わたしは再び箸を取る。
でも今は、これを食べるだけだ。ひたすら食べるだけだ。
できたてのラーメンをすすると、空腹に火が付いた。
「美味しいねえ~」
嬉しそうにハイジが言い、わたしは頷きながら必死にすすった。
食べれば食べるほど生きる力が蘇ってくる。生きてゆかねばならない。
色々なことが繰り返される、どうしても解決できないものに囚われながら、ただひたすら。
なのになぜ、ものを食うとこんなに癒されるのだろう。
今食べているラーメンとおでん、そして夜に食べるはずのタンタン鍋を一生懸命に思いながら、わたしは箸と口を動かし続けた。
チャルメラもいいがサッポロみそラーメンも捨てがたい。