千咲の世界(本編『夏と風鈴の夢語り』番外)
夜風は窓辺に涼やかな外の空気を運び、窓辺の風鈴を揺らす。
真新しい墨の文字で「千鈴寺」と書かれた札がくるくると回り、リン、と幽かな音が千咲の鼓膜を震わせた。
そしてその音は、水面に落とした波紋のように千汐の聴覚へと伝わり、余韻はエコーをかけたようになって意識の淵へと滲みこんでいった。
眠りの世界への入り口。
ぼんやりと微睡に身を任せ、静かに自重が寝具へと沈むのに身を任せると、千咲はそのまま静かに夢の中へ滑り込んでいった。
なまぬるい微睡み。
異空間へと吸い込まれていく知覚。
そこは既に意識の世界ではなく、温かい水の底のような空間は千咲の無我の部屋であった。
覚醒すれば、自分はこの世界を覚えていない。
夜に見た夢など、半分以上はみんな忘れてしまう。
だからこそ、ここは何も縛るものがない。
無我の底を泳ぎながら、千咲は己の心が自由であるのを楽しんだ。
ここは、私の世界。
弱さも、外の世界への恐れも、劣等感も、「私」を縛るものは何もない、私だけの世界。
キラキラ光る水面の上では、「外」の私が眠りについている。
朝まで、そうして目を覚まさずに。
千咲は微笑むと、千咲は世界の奥底へと泳いでいった。
今日は、何をしよう。
千咲の無意識は望むものを次々と具現化してゆく。
きれいな景色、良い匂い、甘いお菓子、かわいい動物。
そして、ここでは自分自身すらも自由になった。
強くて、キレイで、堂々として、カッコよくて。
それが、現実世界で実現できるものなのかは何も関係ない。
千咲は夢想するままに、理想の自分を手に入れられるのだ。
そうだ、今日は。
思い描いたのは、千咲が日頃自分に科している「禁忌」を破る事だった。
大人しく、行儀よく、目立たないように。
そうやって、自分を小さく、小さくしている自分を解き放ってやろう。
大胆に、怠惰に、大っぴらに。
千咲は夢想した。
今の私は、何も恐れない。
誰にも遠慮しないし、欲しい物は絶対に手に入れる。
誰の言うことも聞かないし、校則も法律も守らない。
自由気ままに、飛び切り我が儘に。
この空間だって、自分の好きなように……。
千咲がそう望むと、水色に沈んでいた世界は明るい桃色に輝いた。
「恋だって、できるんだから」
千咲は1人、そう微笑んだ。
「今の私は無敵。みんな私を好きになる。私が望めば、誰だって……」
ふと、桃色に輝いていた世界の色がくすみを帯びた。
だけど、どうしたらいいんだろう。
私は、誰を望むのだろう。
私は、誰に愛して欲しいのだろう。
怖い事なんて、何もないのに。
好きだと言えば、抱きしめてもらえるのに。
誰を好きになればいいの?
誰の胸を望めばいいの?
千咲は青と桃色の混ざりあう水底で、膝を抱えた。
私はまだ、恋を知らない――――
「知らないなら、教わればいい」
誰かの声が、千咲を包み込んだ。
誰、誰なの?
辺りには、誰の姿もなかった。
「お前にそれを教えてくれる者が必ず現れる」
姿の見えないまま、声は千咲を包み込んだ。
懐かしいような、覚えのないような。
だがその声は、千咲の中に心地よく染み渡るものだった。
そして心の奥底まで溶け込んだ声は、千咲をたまらなく切なくさせた。
ただただ、胸が苦しい。
心の奥底まで響くその声は、温かく、優しく……。
千咲は立ち上がり、叫んだ。
「あなたは誰なの……! 」
声は応えない。
だが何故か、声の主が自分を見守り、微笑んでいるような気がした。
千咲は知らない街で母親とはぐれ、迷子になった子供のような気持ちになった。
そして姿の見えない人に向けて、もう一度叫んだ。
「あなたは、あなたは、私を愛してくれる人なの……!?」
「君が、強く望むなら」
声は応えた。
姿は見えない。
だが、そこにいる。
自分の、すぐそばに。
ああ、間違いなく。
千咲の目から、涙があふれた。
「君は、君が思うほど弱くはないよ」
声の主は、そう言っていなくなったようだった。
千咲は声のした方を見ながら、ぎゅっと拳を握りしめた。
私は、ここじゃなくても大丈夫。
強く脚を蹴りだし、水面に向かって泳ぎだす。
キラキラとまばゆい光。
不意に聞こえてきた風鈴の音。
それが次第に大きくなり、千咲を包み込んだ――――
目を覚ますと、千咲は泣いていた。
夢で、何か見たのだろうか。
だが、全く覚えていなかった。
それでも千咲は、全く怖いとも悲しいとも思わなかった。
何故か、心が温かくて、優しい。
「もしかしたら、夢のあの人に会えたのかもしれない」
そんな気がして、1人微笑んだ。
網戸越しに吹き込んだ風がカーテンを揺らし、窓際の風鈴が小さく音を立てた。
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「夏と風鈴の夢語り」/「リーエン」の小説 [pixiv]
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