◆緋い束縛◆
コポッ…コポ…
――脆弱な精神を振るわせる
――未来の約束もままならない世界で
◆―NO,D-52291…◆
「ハァ…足りない…」
静流は口の端に着いた緋を手の甲で拭うと、荒い呼吸を繰り返し自分の胸倉を掴む。
「足りない…足りない…足りないんだよぉぉぉぉぉ!!」
ドッと芝生に崩れるように膝をついた静流は、そのまま真正面から引力に素直に従った。
若い芝生が鼻先で揺れる。
湿った土と若い芝生の匂いを肺一杯に吸い込んで、ゴロンと体を回転させた。
硝子張りの夜空を見上げた静流の瞳には涙が溜まっていた。
「足りないんだ…どうしたら…どうしたらいいんだろう…」
空に伸ばされた手は弧を描き芝生に落ちる。
何をどれだけ食べても。何をどれだけ飲んでも満たされない。
無限の欲求に答えは見出せず、静流は夜な夜な徘徊を繰り返し。
見ず知らずの少女の新鮮な血を飲む事で、ある程度は自我を保つ事ができていた。
しかしそんな愚行を犯す自分に嫌悪を感じていたが、その凶行を抑える術を知らなかったのだ。
*
―静流…
僕は嘘をついてしまった。大切で大好きなあの子に。
その嘘が自分を追い詰めて、身動き取れなくなってしまうまでその嘘が悪だと気付かなかった。
“僕は君と友達になりたい”
“僕は君を裏切らない”
“いつまでも、変わらず友達でいようね”
その嘘達が胸を締め付ける。
「帰らなくちゃ…」
寮の点呼時間に間に合わなくなってしまう。
いつまでもこんな事を続けていられるわけない。この行為がばれてしまったらきっと僕は…
寮の前に誰かが立っているのが見えた。僕はその人影を目を細めて慎重にその正体を探る。
「…東雲?」
柱の影に隠れてそれが東雲だと分かった僕は、静かに息を潜めた。
「悪かったな。こんな遅くなると思っていなかったから」
東雲の陰に隠れてもう一人誰かがいる事に気付く。
「…まり…あ」
街灯の下で美しく微笑む少女。一世を風靡した美しき歌姫。
声を奪われてから彼女の賑やかだった世界から人が波紋のように消えていった。
そんな孤独から彼女を救ったのは僕だったのに…
今、隣に居る男の正体を知っているのだろうか…
その男は悪魔だと言うのに。
僕の護ってきた聖域に土足で踏み込んで来た、真っ黒な悪魔。
チリッ…チリッ…
まただ…焼け付くような喉の渇き。いつまでも満たされない飢え。
どれくらい経ったのだろうか…二人の姿が消えたのを確認して、僕は肩を落として男子寮の門をくぐった。
**
(今日もマリアは綺麗だな)
寮を出た所で逢った彼女と、当たり前のように並んで歩き登校をする。
マリアは変わった。以前は首に取り付けられた抑制装置を嫌い、大好きな真っ赤なリボンで隠していたのに…
今では昔のようにそのリボンは、柔らかい栗色の髪を結い上げている。
歪な抑制装置を見せて生活する事に抵抗もなく。
それは東雲の影響なんだと、直ぐに分かった。
彼の両手首に掛けられた咎人の証がそれを物語っている。
彼は僕の知らない深い深い所でマリアと繋がっているんだ。
そう想うだけで、僕の喉がチリチリと焼けていく。
マリアの真っ白な手首を握ると、マリアは一瞬驚いた表情を見せたが直ぐにそれは微笑みに変わり小首を傾げた。
「指…どうしたの?」
指の所々に巻き付けられた肌色のテープを見つめて、僕はマリアに尋ねる。
《ああ…昨日ね、東雲さんにお裁縫を教わってたの。家庭科の実習が来週だから…》
「ふぅん。あの人って器用なんだ?裁縫って…感じ全くないのに(笑」
《なかなか多才な方よ。そんなに真面目に授業に出ていないらしいけど、何でも器用にこなしてしまうらしいわ》
東雲の話をするマリアはとても楽しそうで、僕はそのままマリアの手を繋いで束の間の独占を味わう。
「今日は午後から雨なんだよね」
《ええ。センターからメールが来てたわね》
一週間に一度のペースで中央センターが雨を降らせる日がある。雷や嵐の日は少しワクワクしてしまうのは子供みたいだと笑われるかもしれないから秘密にしておこう。
《あ…東雲さん。挨拶してくるわね》
僕の手を擦り抜けた白い指。フワフワと柔らかい髪と真っ赤なリボンを靡かせ駆けて行く小さな背中。
「あっ…」
僕の中からスルッと何かが抜け落ちた、空虚な感覚が気持ち悪かった。
――君が欲しい。
次話をお待ちください・・・