第1話 天井を駆けるもの
困った。
ベッドが変わると眠れないんだよね。それに、あんな話聞いちゃうと……。
「113号室って幽霊が出るんじゃ――」
「しっ。新入生くん、大丈夫だよ。こいつの言うことは気にしないでくれたまえ。さあ、これが部屋の鍵だ。ようこそ我らがエリュシオン魔法学院へ」
あからさまに怪しいじゃん! 兄さんったらどんな立ち位置だったの? もう、こうなったら受けて立とうじゃない。
暗闇の中、彫刻の施された天井が、みしり、と鳴った気がした。
燭台の火は消していた。遅くまで起きていることがバレて、疑いの目でも向けられたら大変だから。いまはまだ偵察の時期。シーツをかぶる。北の地の夜は寒い。ひとりは心細いよ。兄さん。
みしり、みしり。
風でも出てるのかな。それにしては窓の外は静かだけど……? 古い建物だもんね、きしむのはしょうがないか。
うつ伏せになって、目をきつくつぶる。脳裏に小高い丘と満天の星空が広がる。
――カイ兄さん、またここにいたの?
――ルイ、聞いてくれ。あの彗星の周期がわかりそうなんだ。
――晩ご飯食べ忘れてるよ! せっかく作ったのに。
――あっ、悪い。つい夢中になって。
――もう。そんなに好きなら、ほんとに魔法学院に行って勉強したら?
兄さんは困ったように笑った。私のためにお金、残しとこうとしてくれてたんだもんね。だけど――。
みしみしみしみしみしみしみしみし
はっ!? なに、今の音?
みしみしみ……だだだだだだだだだだだだだだ!
音、音が鳴ってる! 動いてる!
だだだだだだ! だだだだだだ! だだだだだだ!
あっちから、こっちに! 動き回ってる!
「きゃー!」
腹の底から声があふれ出て、ベッドから転がり出て、廊下に飛び出した。そこにいた人に思わず抱きついた。
「ででで出た!」
温かな人肌。腕が背中に回ってくると、自然に震えが収まる。薄暗い廊下のほのかな常夜ランプが目に入ってほっとする。
はあ、びっくりした。
私は顔を上げた。ん? ていうか、この人誰?
暗闇に白い顔がぼうっと浮かぶ。肩にかかる銀髪がかすかな光を集めて流れている。そのきらめきが、いつか丘の上で兄さんと眺めた彗星の尾のようだ。頬に影を落とすほど長い睫毛に、大きな目、薔薇色の唇。すらりと伸びた手足を薄手のナイトガウンに包んだ、絶世の美少女、だった。
私はパッと離れた。顔が熱い。昼に寮内を案内された中には、女子棟もあることを思い出した。あっちは男子禁制だと言ってたけど、いきなりこんな美人に会うなんて。
「ごめんなさい、いきなり!」
「いいえ」
その人はにっこり笑ってナイトガウンを整えた。まるで薔薇の精のよう。全身がシチュー鍋みたいに沸騰してる気がする。私ってば、同性相手になに考えてるの?
「なにかあったの? 見ない顔だけどあなたは誰?」
「私はル――いや、私はカイ。今日から入寮した新入生です。突然失礼しました」
「ああ、それで」
彼女は訳知り顔に、私の部屋のドアに目をやってうなずいた。やっぱりなにかあるんだ、この部屋。戻るの……やだなあ。またあの天井からの音がしたら……幽霊なんてほんとにいるの? いるとしたら、なんでこの部屋に?
兄さん――兄さんもこんな嫌がらせ受けたの?
「よかったら、一緒に戻る?」
物思いは彼女の一声で打ち破られた。大きな目がこちらを射貫いている。めちゃめちゃ嬉しい申し出だけど、いいの? 女生徒を連れ込んだなんてバレたら、カイ兄さんの名前に傷がつくんじゃ?
彼女はふっと微笑んだ。
「警戒しなくて大丈夫。私はセレステ・ルブラン。寮長派じゃないから。前から113号室の怪って興味あったんだ。鍵があくチャンスなんてなかったもの」
私は目を瞬かせた。
「いいの?」
「もちろん」
彼女は有無を言わせず、私の横を通って部屋に入り込んだ。ドアが閉まる。また暗くなる。
少し目が慣れてきて、こんな暗闇にこんな絶世の美少女と同じ空間なんてって……別のことにドキドキしてる。
「震えてる。怖い?」
「違う、あなたがあんまりきれいだから」
セレステはポカンとしてる。やばい、プレイボーイだと思われたかしら。慌てて天井を指差した。
「あそこから、だだだだだって音がしたんだ。まるで――走るような」
自分で言って、うなじが粟立った。ゴシック調の歴史ある彫刻なんだろうけど、陰に不吉な小鬼や妖精が潜んでいるのかもしれない。あの天井を逆さに走り回るなにかを想像したら、気が遠くなりそうだった。潜入一日目にこんな目に遭うなんて。視界がぼやける。
そのとき。
だだだだだだだだだだだだだだ!
私は思わず声を上げ、セレステの腕にとりすがってしまった。気のせいじゃない。レースのカーテンが揺れている。セレステは上をにらみつける。
「幽霊か、そうでないか――見てみるしかないね」
「ええ!?」
「シルフよ、我に風の力を与えよ……」
空中浮遊の詠唱を始めるセレステの背中を、私は信じられない思いで見つめた。こんな華奢な体で、なんて勇敢なの、この人は。
彼女の足元に風の層が生まれ、体がふわふわと浮かび上がる。手を差し出される。
「さあ、カイ。一緒に」
そうよ、今私はカイ。兄さんの名前を汚しちゃだめ。私は唾をのみ込むと、その手を取り、風に身を任せた。
ふわり。
床から浮き上がり、一気に暗い天井の近くへ。闇の中でも見事な彫刻がつぶさに見てとれる。美しい。でも同時におどろおどろしい。それらは夜の魔物をかたどっていた。暗い台所の隅や、人里離れた洞窟にいまだ巣くうガーゴイルやバンシーたちの姿を――。なぜこんな彫刻を?
「見て!」
セレステの叫んだ方向。ガーゴイルの禍々しい翼に白いものが引っかかり、垂れ下がっている。
私は彼女の手を強く握った。
「頭蓋骨!?」
ふたりで近くへ登っていく。
怖かったけど、思いきって触れてみる。カサカサで黄ばんでヒビの入った、やっぱり頭蓋骨、だった。たぶん人の。眼窩の黒い空洞は死そのものを体現してるかのようだ。
ふたりで無言で床に降り立った。セレステも青ざめた顔をしてた。私が手に持った骨を見ながら、彼女が血の気を失った唇をひらく。
「走り回ってたのは、たぶんこれだね」
「いつからあったんだろう」
「わからない。でも私の入学した一年前にはもう、113号室には幽霊が出るって噂があった。ほかにも……」
「ほかにも?」
「ううん、いずれわかることだから。とにかくもう足音はなくなるんじゃない?」
「そうかもね……ありがとう」
セレステは薔薇色の微笑みだけ残して、ドアへ向かう。私はふと気づいて声をかける。
「あ、ねえ、あなたはなぜこんな夜更けに廊下にいたんだい?」
聞こえなかったのか、彼女が答える前にドアは閉じた。
後に残されたのは頭蓋骨だけ。
「これ……どうしよう?」




