運命だと思っていた相手は、妹の婚約者でした
社交界デビューの夜から、私は変わった。
正確には「変わらざるを得なかった」。
誰に褒められることも、期待されることもなく、ただただこなすだけだった作業に意味ができたのだ。
彼に相応しい女性になりたい――。
あんな素敵な方ならば、きっと女性からのアプローチが絶えないだろうと予想し、誰よりも努力を重ねた。不思議とこれまでのやらされていた気持ちから、意欲的に取り組めるようになると、一気に何もかもが楽しくなっていく。
私は、以前にも増して机に向かう時間を増やした。
妹が一瞬で投げ出す課題を、三時間、四時間とかけて丁寧に仕上げる。
「……ここは、前回の講義とつながっていますね。」
「ええ。その通りです、アリア嬢。」
家庭教師は、静かに微笑んだ。
エリシアはだんだん追いつけなくなってきたのか、簡単な問題も間違えるようになる。
授業を真面目に取り組まなくても、宿題を出さなくても、とがめられない代わりに教師たちからの関心も薄くなっていたような気がする。
けれど――。
「あなたは、もう社交界に出る必要はありません。」
ある日、母は淡々と言った。
「妹の評判をこれ以上落とすわけにはいかないでしょう?
あなたは……家で静かにしていなさい。」
両親からは期待されていない。
そう、言葉にせずとも伝わってくる。
「……はい。」
私は、うなずくしかなかった。
それ以降、社交界へ出るのはエリシアだけ。
華やかなドレスを身にまとい、褒めそやされ、笑顔を振りまく。
一方、私は屋敷で本を読み、勉学に励む日々を送った。
たまに恋愛小説を手に取り、私も彼とのロマンスを夢見て、また会える日が来るのを楽しみにしていた。
そんな中、教師たちはすでに気づいていた。
これまで妹の手柄と出されてきた課題が、誰のものなのか。
「……あのアリア嬢…課題の件ですが……。」
ある日、年配の教師が声を潜めた。
「申し訳ありません。
伯爵様にも奥様にも、何度も報告しようとしているのですが……聞く耳を持ってもらえず……」
「分かっています。」
私は、穏やかにほほ笑んだ。
「課題は私の功績にせずともいいのです。
皆様が分かってくださって、授業をたくさん教えてくださることに、私は感謝しています。」
「アリア嬢……。」
教師たちは表立って味方はできなかった。
けれど、陰で資料を渡し、助言を与え、私を支え続けてくれた。
「あなたの努力は、必ずどこかで実を結びます。」
教師たちは不甲斐ない自分をいさめるように、瞳をうるわせ、頭を下げた。
この伯爵家で初めて、自分の味方ができたのだ。
それからは家族と過ごすことよりも、教師陣との授業の時間が増えていった。
家族間に確執ができたが、私の目標は変わらず、誰よりも立派な淑女になること、その一点に絞られた。
一方で、エリシアは社交界で顔を広げていった。
だが同時に、そのわがままぶりも噂になっていく。
「また癇癪を起こしたらしいわ。」
「礼儀作法がなっていないとか……。」
高位の貴族であれば、あるほどエリシアの評判は悪くなっていった。
ただ、そこまでマナーに精通しない貴族の友達は増えているため、本人は自分の評判が良い方へと向かっていると信じているようだった。
マナーの先生がレディズ・コンパニオンとなり、エリシアの出席するお茶会を手助けしているが、いつも胃がキリキリするほど緊張しているという。
私とエリシアの差は、時間が経つほど広がっているのだと感じた。
――そして、あの夜から三ヶ月後。
ついに、ヴァルツァー侯爵家での初顔合わせの日がやってきた。
王城に引けを取らないほど豪華な屋敷。
磨き上げられた大理石の床に、エリシアは目を輝かせる。
「見て! すごいわ……!」
「私たちも久しぶりにきたが、本当にいつみても素晴らしい屋敷だ。」
エリシアは胸を張り、振り返った。
「婚約者になるのは、絶対に私よ。」
エリシアは私に強くがん飛ばしてくる。
私は、穏やかに微笑んだ。
(……そうなるように)
心の中で、そう祈る。
この婚約は、妹のもの。
自分は辞退し、静かに、自分の道を選ぶ。
両親も、その方が正しいと思っている。
――それでいい。
そう、思っていた。
やがて、応接間の扉が開く。
「ヴァルツァー侯爵様、ご無沙汰しております。」
父が挨拶をする。
そして、一歩、また一歩。
入ってきた侯爵夫妻の後ろに、青年の姿が見えた瞬間――
私の世界は、音を立てて崩れ落ちた。
(……そんな)
顔を上げた青年と、視線が合う。
あの夜。
花粉と水に濡れ、辱めを受けていた自分に、そっとハンカチを差し出してくれた人。
「あなたは、何も恥じることをしていません。」
優しく、真摯な声。
恋焦がれて。
忘れようとしても、忘れられなかった人。
――彼は、ここにいる。
妹の、婚約者として。
「……っ」
息が、詰まる。
私は、ゆっくりと視線を落とした。
(そうよ……初めから期待してはいけなかった。)
最初から、分かっていたはずなのに。
それでも胸の奥が、ひどく、痛んだ。
何も考えないように、心を殺していく。
これまでの努力や、名前すら呼ばれなかった日々が、走馬灯のようによみがえり、そして消えていく。
顔を上げると、涙が溢れて止まらなくなるだろうとわかっていた。
それからはいつもどおり従順に、無難に、作業をこなし、この時間が早く過ぎることを願っていた。




