はじめて、選ばれた日
翌朝、私たちは再び現地へ向かった。
昨日見つかった異臭のある水源は、すでに仮の封鎖が施されている。
「本封鎖は、おじ様に報告してからですね。」
「ええ。
今日は、念のため他の水源も確認しましょう。」
並んで歩きながら、自然と会話が噛み合う。
仕事としての確認作業なのに、不思議と心は穏やかだった。
村の中へ入ると、昨日よりも空気が柔らかい。
不安の原因が一つ見えただけで、領民の表情はこんなにも違うのだと、改めて実感する。
「レオンハルト様ーっ!」
突然、小さな声が飛んできた。
振り返ると、数人の子どもたちがこちらに駆け寄ってくる。
「また来てくれたのー?」
「昨日のお兄ちゃんだ!」
レオンハルトは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに膝を折って目線を合わせた。
「こんにちは。今日は元気そうですね。」
「うん! ねえねえ、一緒に来て!」
袖を引っ張られ、あっという間に囲まれてしまう。
「ちょ、ちょっと待って――」
子どもたちに引っ張られるまま歩き出し、泥だらけの道に足を取られた。
思わずつまずきそうになるのを辛うじて耐える。
「わっ――!」
でも、その結果ズボンの片側に派手に泥が跳ね上がった。
「だいじょうぶ!?」
「お兄ちゃん、どんくさいー!」
レオンハルトはやってしまったという顔で困り、おまけに泥団子まで投げられていた。
その瞬間、私は――
堪えきれずに、声を上げて笑ってしまった。
「ふふっ……あははは!」
こんなふうに、心から笑ったのは、いつ以来だろう。
「……アリア。」
呼ばれて顔を上げた瞬間、視界が暗くなる。
彼の腕が、迷いなく私を引き寄せた。
「……っ。」
胸に抱き寄せられ、鼓動がすぐ近くで響く。
「その顔は……反則です。」
低く、かすれた声。
私は、ようやく自分がどれほど無防備な顔をしていたのかを自覚した。
「す、すみません……。」
そう言おうとして、喉が詰まった。
彼のぬくもりが伝わり、思わず私も抱きしめてしまいそうになる。
――違う。
胸の奥から、抑えていたものが溢れ出す。
「……私は……選ばれないんです。」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「アリア……?」
「どんなに一緒にいても、どんなに優しくされても……
私は、最初から“違う”んです。」
震える声で、続ける。
「どうして、どうしてそう思うんですか?」
彼は今までになる真剣な顔で、またきれいなハンカチで私の涙を拭ってくれた。
「小さいころから、ずっとそうでした。
可愛いのは妹。
賢いのも妹。
周りは、いつも妹を見ていて……。」
幼い日の記憶が、次々と浮かぶ。
「私が何かをしても、“でもエリシアは”って。
私は……比べられる側で、選ばれない側で……。」
涙が止まらない。
「だから……この婚約も初めから妹のためのものなんです……。」
私の話を最後まで静かに聞いて、彼の視線が、一瞬だけ揺れた。
まるで何かを必死に堪えているように。
「それは、違います。」
はっきりとした声だった。
「あなたが語っているのは、“周りが見なかった事実”です。」
私の肩をしっかりとつかみ、真っ直ぐ私を見る。
「あの社交界デビューの日……。
あなたの背中を、妹君が押したのを、僕は見ていました。」
息を呑む。
「えっ……?」
「そして……あなたが失敗したあと、彼女がどんな顔をしていたかも。」
彼は目を伏せた。
「正直に言います。
これまであなたに会いたくて、何度かお茶会に参加したこともありました。
でも、声をかけようと近づいた瞬間、あなたに似ているだけの別人だと……すぐにわかりました。」
彼の言葉が続いていく。
「そして、あなたの妹を好ましいと思うことはありませんでした。
陰口ばかりで、他人を下げて笑う姿を、美しいとは思えなかった。」
胸が、苦しくなる。
「……最初から、僕の婚約者候補は、あなた一人でした。」
「うっ……ふっ……。」
思いが解放され、躊躇していた手が、彼の背中にまわり抱きしめていた。
世界が瞬く間に色づいていき、時が止まった。
「再開したときは本当に嬉しかったですよ。」
彼が切なそうな顔をした。
「でも、あなたがこの婚約を望んでいるようには見えませんでした。
私は……その理由が知りたかったんです……。
どうしても、放っておくことができませんでした。」
私は彼の腕の中で泣きじゃくった。
「なぜ、あなたは僕から距離を取るのか……。
なぜ、自分をそんなふうに扱うのか……。」
私は、声を震わせて答えた。
「……怖かったんです。
期待して、また失うのが……。」
「なら――。」
彼は、私の手を取り、額にそっと触れた。
「今度は、失わせません。」
静かで、強い声。
「アリア。
僕と共に歩んでください。
侯爵家の未来も、これからの人生も――
すべて、あなたと築きたい。」
涙で視界が滲む中、私は何度も頷いた。
「……はい……。
はい……!」
抱きしめ返した腕の中で、嗚咽がこぼれる。
ずっと欲しかった言葉。
ずっと信じられなかった未来。
それが今、確かにここにあった。
「さっきレオンハルト様が、どうしてこの婚約にのる気じゃないのかとおっしゃいましたよね?」
「あぁ。」
「実は私侯爵家の縁談は妹に譲ろうと思っていたんです。」
「それは…、なぜですか……?」
不安そうな彼の顔を見て、私は嬉しくなって笑顔で答えた。
「ヴァルツァー小侯爵とじゃなく、あなたと結婚したかったんです。」
「えっ?」
照れくさそうに、顔を赤らめながらも、申し訳なさそうに言う。
「実はあなたが誰なのかがわからなくて……」
「あっ……」
レオンハルトは何かを思い出したように、言葉を放った。
その理由がわかるのは、また別のお話。
「あの社交界の日から、私はあなたの虜でした。」
その瞬間、彼も弾けるような笑顔を浮かべ、私たちは互いの顔を見つめあって、初めて口づけを交わした。嬉しくて、信じられなくて、これまでため込んでいた思いも、一緒に爆発していくようだった。
――私は、選ばれた。
初めて、自分を見ていてくれる相手と出会い、恋をしたのだ。




