決めかねる理由
花嫁修業は、静かに始まった。
思っていた以上に、内容は専門的だった。
とくに医療に関する講義は、基礎から応用まで一気に踏み込むため、聞いているだけでも頭が痛くなる。
「う~、むずかしすぎる~。」
エリシアは頭を抱えて、わめいている。
「そうね。」
私も思わず、声を漏らした。
隣のエリシアは、さらに小さく肩をすくめ始めた。
最初のうちは、エリシアも真面目だった。
背筋を伸ばし、ノートを取り、質問にも頷いてみせる。
けれど、それは長くは続かなかった。
数日が過ぎるころには、授業中、妹の頭がこくり、こくりと揺れるようになる。
先生が咳払いをし、視線を向けると、慌てて顔を上げる――そんな光景が、珍しくなくなっていった。
「……エリシア嬢。」
「は、はいっ!」
注意されるたび、エリシアは愛嬌のある笑顔で誤魔化す。
だが、集中は長く続かず、またすぐに意識が遠のいていく。
私はというと――
正直に言えば、心のどこかで、すでに諦めていた。
少なくとも、こんなことをしても意味がないことはわかっていた。
婚約の行方も、評価も、期待も。
ここで勉強をするのは、すっかりしみついた今までの習慣の延長。
でも、目標がないだけに、どこか浮ついていて、真剣に取り組んでいないことは自分でもわかっていた。
そんな私たちの姿勢をみて、ふと先生がこんな話題を口にした。
「あなた方が生まれる前、ご両親が体験した感染症についてご存じですか?」
私たちがお腹にいるとき、父と母が経験したという流行り病についてだ。
「実は、現在も完全には解決していません。」
先生の言葉に、私は顔を上げた。
「治療法が確立しておらず、多くの患者が、今も苦しんでいます。
あなた方のお母さまが無事でいられるには、ご自身の気力もありますが、奇跡でもあります。」
胸の奥が、静かにざわめいた。
――まだ、そんなにも。
「だからこそ、我々は医療に力を入れているのです。」
先生は、授業を通して侯爵家の思いを伝えた。
そして、自分が関わってきた体験談を惜しみもなく話した。
権威や名誉、ましては財産欲しさに行っているのではない。
救える命を、救いたい――ただ、それだけのために取り組んでいるのだと。
「……素敵な考え方ですね。」
思わず、そう口にしていた。
「そうですね。
でも、そのためにはきちんとした知識が必要です。
命に関わることですから、何一つ無駄なことはないんですよ。」
これまで不真面目に取り組んでいた自分が、恥ずかしくなった。
婚約とは別に、この授業を受けることには意味があるのだと考えを改めさせられたのだ。
ただこの恋心を忘れて、夢中になれるものがほしかったというのもあるかもしれない。
それからは、婚約者が正式に妹に決まるまでの間に、少しでも多くの知識をつけることに力を注いだ。
とくに、侯爵家の蔵書は圧巻だった。
分厚い医学書、過去の症例、研究記録。
わからないことがあれば、すぐに先生に質問する。
伯爵家でも、私はそうしてきたように、私は自然と勉強することが苦にならなくなっていた。
気づけば、自然と先生方のもとへ足が向かい、侯爵家の誰よりも、彼らと過ごす時間が増えていた。
一方で――エリシアは、まったく違った。
勉強よりも、侯爵家の人々との交流。
とくに、レオンハルトとの距離を縮めることに、心血を注いでいた。
廊下で、庭で、応接間で。
二人が楽しげに話す姿を、何度も見かけた。
親睦を深めるためのお茶会でも、私は早々に席を立つ。
「少し、復習をしてきますね。」
「アリア嬢は本当に熱心ですね。」
レオンハルトがふと声をかけてくる。
「いえ、私は妹とは違って出来が悪いだけですよ。」
そう言えば、誰も止めなかった。
その方が、ずっと気が楽だった。
彼とは、授業の内容を少し話したり、お茶会で当たり障りのない会話をする程度にとどめている。
こんな可愛げのない私より、きっとレオンハルトも、エリシアに惹かれている。
そう思い込んだ。
だから、引き留められることはないのだと理解した。
そんな勉強付の日々を送り、侯爵家での生活が楽しくなってきたころ。
私に、興味を示し始めたのが――ヴァルツァー侯爵だった。
「アリア嬢、ちょっといいかな?」
いつものように、蔵書庫で勉強していると、ヴァルツァー侯爵が声をかけてきた。
「はいっ、もちろんです。」
私は手招きされるまま、侯爵の後へついていき、侯爵の執務室に足を踏み入れた。
「これを手伝ってもらえないか。」
そして手渡されたのは、侯爵領に関するの書類だった。
領民からの願書や、これまでの実験記録の照合、どれもとりまとめ程度の簡単な業務だと理解したが、私は頭をかしげていた。
「……私で、よろしいのですか。」
「あぁ、君に任せたい。」
その一言が、不思議と胸に残った。
侯爵の向かいには補佐官が、私はそのまた隣の席に促された。
分からないことや躓いたときは、補佐官の人が業務を教えてくれた。
少し余裕ができたときは、侯爵が声をかけ、3人で紅茶を片手に、侯爵家のパティシエが用意した絶品スイーツを楽しんだ。
そうこうしているうちに、やがて私たちは、仕事ない日もお茶を飲む、お茶友達になっていた。
話題は、もっぱら仕事のことであったが、それでも誰ともお茶会を楽しんだことのない私にとって、また一つ楽しみができたことは言うまでもなかった。
そんなある日――。
「アリア。ひとつ、聞いてもいいかな。」
穏やかな声で、侯爵が切り出す。
すっかり呼び捨てで呼ばれることが嬉しい。
実の父親よりも父親のようだと感じていた。
「はい。もちろんです。」
私はスイーツを手に取り、ウキウキした気持ちを隠し切れないでいた。
「どうして、息子にアピールしない?」
その瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
手に取ったスイーツを落とし、慌てふためく。
甘い香りが室内に広がり、キレイな絨毯を汚してしまう。
「あっ、ごめんなさい。」
拾おうとした手を制され、侯爵と目が合った。
「そのままでいいんだよ。
後で使用人に片付けさせよう…。」
私は恥ずかしくなり、顔を赤らめた。
「それよりも、急にこんな話題を出して、すまない。
どうしても気になったものだから……。」
申し訳なさそうな表情を浮かべる。
私も同じように、申し訳ない気持ちになった。
「……このように、私はまだまだマナーが染みついておりません。」
落としたスイーツに目をやり、冷静に話をする。
色んな事を頭で考え、自分でも表情が曇るのを感じた。
「ですので、妹の方が……相応しいと思います。」
それだけを、伝えた。
侯爵は、それ以上、踏み込まなかった。
問い詰めることも、説得することもせず、ただ静かに頷いた。
「そうか……。」
だが、内心では、悩んでいた。
教師たちの評価は、もちろん。
妻からの印象も、実際はアリアの方が良かった。
そして、もちろん侯爵自身も婚約者として嫁入りしてくれるなら、アリアがいいと思っていた。
まだ、レオンハルト本人の気持ちは確かめていない。
だが、周囲の評判や噂に頼らず「二人と直接交流したい」と提案した点を踏まえれば、
息子の関心は、社交的なエリシアよりも、むしろアリアに向いている可能性が高い。
そうでなければ、あれほど熱心に好意を示す令嬢がいるにもかかわらず、婚約を先延ばしにしている理由が説明できない。
侯爵は、そう考えるに至った。
それでも、アリア本人にその気がない以上、ここで無理強いはできない。
「……さて。」
侯爵は、ふと考え込む。
この頑なな娘を――
どうすれば、自然な形で息子に引き合わせられるのか。
「試すしかないな。」
その答えを探すように、彼は静かに、思案を巡らせていた。




