推理の館ー予告文
ちょっとした推理短編小説です。
昼過ぎ、館の玄関のベルが鳴った。扉を開けると、スーツ姿の男性が立っていた。青ざめた顔に、緊張の色が浮かんでいる。
「黒須田探偵……ですよね?」
深々と頭を下げ、彼は震える手で一通の封筒を差し出した。
「これが、家のテーブルに置かれていたんです。開封したら、こんなことが書かれていました」
黒須田真幌は封筒を受け取り、中の紙を広げる。
――この封筒を開封後、1週間の間に資金の準備ができなければ、お前の大事なものに最悪のことが起きるだろう。
「脅迫……ですか?」白田和樹が横から覗き込む。
黒須田は紙を指で弾き、テーブルに置いた。
「まずは状況を整理しましょう。封筒を見つけたのはいつですか?」
「三日前です。帰宅したら、テーブルの上に置かれていました」
「家には誰かいましたか?」
「いいえ、妻は二週間前から実家に帰っています。それに、彼女はパソコンが苦手で……こんな文章を打つとも思えません」
「家の鍵は?」
「私の分と、妻の分の二つだけです」
「管理人に聞きましたか?」
「話しましたが、何も知らないと……ただ、私がいない間に黒い人影を見たとは言っていました」
黒須田はふと、男性のスーツに視線を落とした。肘の部分が妙に光沢を放っている。長時間、机に擦れることでできる独特の摩耗――つまり、デスクワークが主な仕事ということだ。
彼は帽子を深く被り、しばらく考え込むと、鼻で笑った。
「なるほど、実に単純な話ですね」
「えっ?」
「この封筒を置いたのは、あなたの奥さんですよ」
男性は目を見開いた。白田も驚いた表情を浮かべる。
「そんな……でも、妻はパソコンが苦手なんですよ?」
「ええ、だからこそ、わざわざパソコンで打ったんです。筆跡でバレるのを防ぐためにね。それに、あなたがいない間に封筒を置くには、家の鍵が必要です。つまり、あなたか奥さん以外は不可能ということになります」
男性の顔が引き攣る。
「でも、なぜ妻がこんなことを?」
「考えてみてください。この予告文には具体的な金額も、振込先も記されていません。つまり、本物の脅迫ではない。では、『お前の大事なもの』とは何を指すか……」
黒須田は手紙を指で軽く叩いた。
「奥さんのことです。そして『最悪のこと』とは……離婚ですよ」
沈黙が落ちる。やがて、男性は額に手を当て、力なく笑った。
「……そういうことですか」
「おそらく、奥さんは別の男と関係を持っています。その男に文章を打たせ、あなたに別れを決意させようとしたのでしょう」
白田が口を挟んだ。
「でも、これって誘拐の可能性は……?」
「ありません。奥さんはあなたの知らないところで新しい人生を始めようとしているだけです」
男性は崩れるように椅子に座り込む。
「どうすれば……」
「やり直したいなら、誠心誠意、謝ることですね」
その後、男性から届いた手紙にはこう綴られていた。
――冷え切っていた関係の中で、妻は他の男と新しい生活を望んでいました。でも、何度も謝った末、もう一度だけやり直すことになりました――
白田は手紙を読み、腕を組んだ。
「事件記録にするか?」
「やめてくれ」黒須田は帽子を深く被った。「これは事件でも何でもない……ただの夫婦の話だよ」