後宮の男
「困ったねぇ、本当に。君を逃がしてあげたいけれど、もう遅いと思うんだ」
まったく困っていないような顔で、声ばかりは心底憐れんだように、怒号の響く外のことなぞお構いなしの皇帝はゆっくりお茶を飲んだ。
毒見の方はよろしいんですか、と私が聞くと「うん、今更私に毒を盛ろうという者もいないだろうからねぇ」とのんびりと答える。
呆れた王さまだこと、と、私はこれまで見てきた女官たちのように頬に片手をあてて小首を傾げた。私がそんな仕草をすると皇帝は柔らかく目を細める。まだ十にもならない子供が大人の真似をするのが微笑ましいらしい。
大砲や銃声、人の断末魔。あちこちから聞こえるものがどんどん近づいてくるけれど、なかなか決定的なものにはならない。
一国が滅びようとしているのに、どこか他人事のように思えるのは私がこの国の人間になりきれなかったからだろうか。
お茶を飲みながら皇帝陛下はあれこれと考えるように目を閉じて、一人一人の名前を口に出していた。私がわかる範囲なら、それは後宮のお妃さまたちの名前だ。
皆無事に逃げられただろうか。そんなことを気にしている。
お妃さまたちの逃げ足は速かった。感心するほど。中には残ろうとした人もいたけれど、家族に連れていかれたり、昔の恋人が迎えに来たりしていた。
「私に子供がいなくてよかったよ」
「子供がいないからこんなことになったのでは?」
「ははは、それは、そうだねぇ」
笑うと憎めない顔になる。どこか幼さの残る皇帝陛下。それでも御歳は四十くらいとかそれくらいだったと思う。即位されたのが三十八だったので、たぶん、それくらい。
私が生まれたのはこの国ではなかった。
もっと遠くの。南の方の国だった。暑くて、砂が多かったけれど、照りつく太陽の光の強さは、このじめじめとした国には必要だったんじゃないかと思う。
私は奴隷として連れてこられた母親が、同じ奴隷の男に犯されて生まれた子供だった。後宮で料理人の見習いになったのは最近のこと。それまでは洗濯物係だった。
まぁ、私の話はどうでもいいとして。
この国。雨の国。大きくはないけれど、小さくもないらしい国で、皇族がこの十年間で殆ど死んでしまったらしい。神様の恨みを買ったとか、なんだとか。そんなことはよくわからないけれど、それで、残ったのが今、目の前でお茶を飲んでいる皇帝陛下。
子供が生まれず、無能で、無才で、役立たずの皇帝だと誰もが言っていた。
「君はどうして逃げなかったんだい。逃げ遅れた、というわけでもないだろう」
「それは陛下も、だと思うのですが」
「私はねぇ。私は、うん。これが私の役目だからねぇ」
陛下は何度も「うん」と頷く。
私はわからない、という顔をした。
皇帝陛下というのは国で一番偉い人だ。一番大切にされている人で、だから一番おいしい料理を好きなだけ食べることが出来るのだと私は考えていた。
「そもそもね、この国はどうしたってもう救えなかったんだ」
ぽつり、と陛下が呟いた。
「それが分かっていたのは祖父の代からだった。神に見放されたというべきか、人事を尽くしても、人が数十年の間に行えることには限界があった。問題なのは、いつ滅びるかだった。御爺様はなんとかその、滅びるまでの時間を伸ばそうとあがいてあがいてあがいて、私の番でそれが来てしまっただけなんだよ」
仕方ないね、運命だよ、と、そのように陛下は言う。
私は「それなら仕方ないですね」と言った方がいいのだとわかった。相手の気持ちを汲む必要が後宮ではあって、私はそれがある程度できたから、これまで生きてこられた。
けれどもうじき私も死ぬだろうな、という時になったので、これはもう相手の思った事を言ってやる必要はないぞ、とふと気づいてしまった。
「それは嘘ですよね」
なので、そう言った。
陛下は少し驚いた顔をして、そしてふわりと私の頭を撫でた。
「私たち皇帝家は、この国にとても大切にしてもらってきたからね。私は子供のころ、贅沢というものが普通だと思っていたし、思い通りにならないことなんか何一つなかったよ。祖父や父、兄たちもそうだった」
そうか、このひとは、陛下はわざと子供を作らなかったんだ。私にもわかった。お妃さまたちが陛下のことを愛していなかったのは、好きになれなかったのは、こういうところかもしれない。
この人は、黙って自分が最後に死んでおしまいにするつもりらしい。
「皇帝の死体は必要だろう。いや、このまま生きて捕らえられて、処刑する場は必要だろうか……」
私は子供なので、陛下がどんな方法で死ぬことが一番良いのかわからなかったが、それはすぐに誰かが決めてくれることだろう。
随分とのんびりとしている。もう一杯お茶をと言われたので、お湯を沸かしてお茶を入れた。
「こうしてゆっくり、熱いお茶を飲むのは気分が良いね」
「自分が死ぬのにそんなに落ち着いていられるものですか」
「うん。むしろ、これまで決めていたことがやっと今日果たせるんだって思うと、とても嬉しいよ」
私は町やあちこちの村で、陛下がどれだけ悪い人間か、皆が悪口を言っていることを知っていた。そういううわさ話は後宮の下働きの耳にも入ってくる。
国中で「死んでくれ」と思われるようになって、そうして死ねることがこの方は心底嬉しいそうだ。
「陛下は」
「うん?」
「陛下は私も、陛下に死んでほしいと思っていると思うんですか」
「君がこれから死ぬのは私の所為だからね」
確かにそうだ。
この人が自分の代でこの国を終わらせようと決めたから、私は今日、国の滅亡に巻き込まれて死ぬわけだ。
私は溜息をついて、厨房から庭に出た。
陛下もついてくる。
私が地面に落ちている梅の実を拾っていると、手伝ってくれた。
「何をするんだい?」
「梅酢にするんですよ」
「どうして」
どうしても何も。
今日はそういう予定だった。
庭の梅の木の実が落ちてきてしまっているから、集めて洗って乾かして、角砂糖と酢につけて、よく出来たら美容と健康に気を使っているお妃さまたちが水やお酒で割って飲むはずだった。
「もう彼女たちが飲むことはないだろう?」
「このまま放置していると、梅の実が腐るだけじゃないですか」
「それはそうだね」
「漬けておけば誰かが飲むかもしれないでしょう」
王宮は略奪されるのだから、戦利品として梅酢が誰かの手に渡ることもあるだろう。
「どれくらいで出来るんだい?」
「二週間くらいで飲めますよ」
そんなことも知らないんですか、というと、陛下は笑った。
「そうだよ。私は無知なんだ」
知っている事と言えば戦いの仕方や、政のやり方、と、あれこれ指折り数えて思い出してくれる。
「……色々皇帝陛下として知らないといけないことは、ちゃんと知っているっていうことですか?」
「無能な皇帝をするためにはね、どうすれば無能なのか知らないといけないだろう?何もわからずにうっかり良い皇帝になってしまうかもしれないじゃないか」
なるほど、国を亡ぼすにも作法が必要なのか。
私が感心すると、陛下は笑った。笑うとやはり、愛嬌のようなものを感じる。
「好きだったお妃さまはいないんですか?」
私は聞いた。
陛下に愛されたくていろんなお妃さまがいろいろしていたことを知っている。
この梅だって、梅酢は美容と健康に良いと知ったお妃さまがいるから植えられたのだ。
「皆、とても素敵なひとだったけれど。だから何もしないことが彼女たちにとっては幸せなんだ」
誰か一度でいいからこの皇帝陛下をぶった方がよかったんじゃないだろうか。
人の感情とか、何もかもをご自分が決められると思っている。
「酷いひとでは?」
「そうだよ。私は悪い皇帝だから、皆を苦しめるだけだから、殺されるんだ」
にこにこと微笑む。
なるほど、確かにと私は納得してしまった。
よほどの人でなしでなければ、これほどのことはできなかっただろう。
自分が「よし、終わらせよう」と決めて、それに都合を合わせて何もかもを巻き込んだのだ。
これはよほどの極悪人なのかもしれない。
「陛下が捕らえられてもすぐには殺されないかもしれないので、ではそうしたら、この梅酢を飲んで死ぬ、というのはどうでしょう」
処刑の間際には、何か望みを一つ叶えてもらえるかもしれませんよ。
私が言うと、陛下は「私の望みが叶う間際に、これ以上のわがままは願えないさ」などと、平然と言い放つ。
我がままになるらしい。
たかが奴隷の子の漬けた梅酢を最期に飲みたいと願うことが、国を亡ぼすことを決めて生きてきたお人には、とんでもないわがままになるそうだ。
仕方ないから私はこの困った人と一緒に死んであげるかと、そういう気持ちになった。
皇帝陛下は私のことなぞ「巻き込んだ大勢の命の一つ」という認識で、そして、その巻き込んだ結果国が亡ぶという望みが叶ったので、私が死ぬことを当然だと、そう思ってすらいそうだった。
雨の国で、珍しく雨の降らない夏の日に、国が滅んだ。
けれども、それまで大地に雨水よりも多くの虐げられ顧みられなかった国民の涙が染み込んでいたから、国が滅んだことは別段、誰が悲しむこともなかった。