第8話
夜明けを告げる鳥、鶏の鳴き声が聞こえる。その甲高い響きに眠気を覚まされ、俺は寝台の上で身を起こした。
「んーっ!」
右手の五本指を、左手の五指の間に差し入れる。左右の掌をぐっと頭上へ突き上げ、伸びをした。深呼吸して、寝台に敷かれた亜麻布の下から立ち昇る、藁の香りを胸一杯に吸い込む。
どうやら昨夜は、頭の中でぐるぐる渦巻く不安を追い払おうとしてるうちに、いつしか眠り込んでたようだ。明日のことが心配で一睡もできなかった、なんてことにならなくてよかったぜ。
隣の寝台を見やると、まだお休み中のサーラが見えた。昼間は背筋をまっすぐ伸ばし、胸を張ってる魔女っ子だが、今は寝台の上で背中を丸めてて、なんだか猫みてえだ。日中俺の前で見せてる自信に満ちた表情も今は完全に抜け落ちてて、無防備にさらした寝顔の安心しきった様子は普通の女の子とまるで変わりがねえ。
「サーラ……」
朝だぜ、起きろよ。そう声をかけようとして、やめた。
サーラの奴、このところ自分にかけられた呪詛のことやらなんやらで、気苦労が絶えないだろうからな。もうしばらく、寝かせといてやろう。
向かいの寝台を見ると、デュラムの姿はなかった。何やら、書き置きらしき羊皮紙の切れ端が置いてあるんで、歩み寄って手に取ってみりゃ、
――サーラさんの服を買えそうな店がないか、今のうちに探してくる。あの格好のまま、町中を歩いてもらうわけにもいかないだろう?
高慢ちきな……もとい高貴な妖精らしい流麗な筆跡で、そう書いてある。
「あの格好のままって……」
改めて魔女っ子を見やり、すぐに合点がいった。
サーラは先日、メラルカと――あの危険な火の神と戦った際、身につけてたもんを全部燃やされちまって、しばらくはデュラムの外套一枚にくるまっただけの、限りなく全裸に近い姿で過ごしてたんだよな。
その後、アステルがたまたま持ち合わせてた服を着せてくれたんだが、これがまた目のやり場に困る露出度高めの衣装でさ。鍔広のとんがり帽子と絹の外套、踵の高い長革靴の他には、胸がぎりぎり隠れる小さな胸当てと、紐みてえな逆三角形の下穿きのみと、水着も同然の代物だったんだ。なんでもアステルが神々の宴で、余興として魔女の仮装をさせられそうになったときに着るはずだったもんらしい。結局わけあって仮装の話はなしになったんだが、その服は手つかずのまま持ってたんで、よければサーラに着てほしいって、星の神様は言ってたっけ。
そんなわけで、今のサーラは大変きわどい格好をしてる。元々水着みてえな服を好んで着る魔女っ子とはいえ、あの身なりで人通りが多い町中を白昼堂々歩くのは、さすがにまずいぜ。
もっと露出度が低めの、落ち着いた服に着替えてもらった方がいいだろう。
「俺って奴は、こういうときに気が利かねえ……」
向かいの寝台で、外套だけじゃ寒いのか、毛布をかぶって寝てるサーラを見やり、自分の額をぴしゃりと叩く。
デュラムが代わりの服を買いにいく前に、俺が動くべきじゃなかったか。やっぱり冒険者としてはもちろん、男としてもまだまだだよな――俺。
そういえば……アステルはどこだ?
サーラがあんなけしからん格好をする羽目になった、ある意味では元凶の神――おそらく本人に悪気はなかったんだろうが――あの星の神様のことが、ふと気になった。
昨夜話し合いが終わった後、アステルは「夜明けまでにやらなくちゃいけない仕事がありますから」とか言って、この部屋を出ていったはずだ。それも、扉を開けて出るんじゃなくて、俺たちに「おやすみなさい☆」って笑顔で挨拶した後、窓からひょいっと外へ飛び出していくもんだから、驚いたぜ。
ここは宿屋の二階で、表の通りからはそれなりの高さがある。もちろん、呼び止めようと窓に駆け寄りはしたんだが、俺が外を見たときにゃもう、神の姿は表通りのどこにも見当たらなかった。
あの後、アステルはどこへ行ったんだろうか? いくら神様でも、あんな真夜中に「仕事」とやらをしてちゃ、身体に障るだろうに。
そんなことを考えながら、周囲を見回すと……不意に、疑問が解けた。
「おいおい……いつの間に戻ってきたんだよ?」
アステルの奴、部屋の片隅にちょこんと座り込んで寝てるじゃねえか。しかも甲冑を着たまま、抱えた膝に顔を半分埋めて、すやすやと。
神々の魔法じみた姿の消し方、現わし方にゃ慣れてきたと思ってたんだがな。気がつけばこんなところで眠ってる神なんてのは、初めて見るぜ。
「ほら。風邪引くぜ、神様」
俺が夜の間くるまってた外套を、そっと羽織らせてやった。
……サーラにゃ気を利かせてやれなかったくせに、アステルへの気遣いはできるんだな、俺って。
そう思うと、なんだか男として悲しくなってくるが、放っておくのも気が引けるからさ。
「ん……母上、ぼくもうご飯、食べきれないです……」
むにゃむにゃと、神の口から漏れ出た寝言を聞いて、吹き出しそうになるのをどうにかこらえた。
ったく。これだから神々ってのは、どうにも憎めねえんだよな……。
寝てる神様を起こさねえよう、足音忍ばせ離れながら、ほっぺたを緩めて苦笑する。
さてと。今日の空模様は、どうなってるかな?
部屋に一つきりの窓に目を向けりゃ、絵画を入れる額縁めいた窓枠の中はほぼ一色、灰色で塗り潰されてた。
太陽を隠し、雨をはらむ暗雲の色だ。
サーラやアステルを起こさねえよう、そっと窓に近づき、右手を額にかざして、外を見た。
「やっぱり見えねえな――太陽は」
果たして、空は一面分厚い雲に覆い尽くされ、一分の隙もなしだ。これじゃ、太陽が昇ってるのかどうか、確かめようがねえぞ。
「……っ! あの死神野郎……」
昨夜ジュスカーメイって名乗った、首領格の死神。あいつが口にした、思わせぶりなせりふが脳裏に響く。死者を弔う鐘の音みてえに、殷々と。
――リュファト大神はあまねく世界を照らす太陽神にございます。あの方が冥界に捕らわれたとなれば地上はどのようなことになるか、察しがつくのではございませんか?
聞き手の不安をかき立てる奴の言葉に反して、窓から見える景色にゃ今のところ、天変地異と呼べるようなもんは見当たらねえ。俺の目に映ってるのはただの曇天、物憂げな曇り空……のはずなんだが。
……もし、あの雲の向こうに、太陽がなかったら? あったとしても、何かしら異変が起こってたら……?
「……考えるなよ、そんなこと」
頭の中に湧き出てきた嫌な想像を、かぶりを振ってかき消す。窓辺に両手をついて、外に広がる灰色の世界をぐっと睨み据えた。
曇り空を見たくらいで、不安に駆られてどうする? しっかりしろよ、俺。
「今はとにかく、やるしかねえんだ。俺にできることを、精一杯……!」
どうにも落ち着かねえ自分の心にそう言い聞かせ、胸の内を奮い立たせる。
サーラとアステルが起き出し、デュラムが大きな包みを抱えて戻ってきたのは、それからほどなくのことだった。




