第9話
宿屋〈海精の誘惑亭〉の一階は、泊まり客のための食堂を兼ねた酒場になってる。目覚めてからろうそく一本が燃え尽きるくらいの時間が過ぎた今、俺はその片隅でデュラムやサーラ、アステルと一緒に朝飯を済ませたところだ。
昨夜の話し合いで決まった通り、今日はこの町で呪詛や冥界について調べて回ろうと思うんだが、腹が減っちゃ戦はできねえ。正直あまり食欲はなかったんだが、卓の上に並べられた麺麭と乾酪、薄い塩味の羹は無理やり腹に詰め込んだ。
日中、何があるかわからねえからな。いざってときに、動けるようにしておかねえと。
「メリック。食べた後すぐ動き回っちゃ、身体に悪いわ。しばらく座って、食休みしなさいよ」
他の三人も大方食べ終えたのを見て、さっさと席を立とうと腰を浮かせた俺を、サーラがたしなめた。手にした陶杯の中身を、ふう、ふうって冷ましながら。
「そんな呑気なこと、言ってられるかよ。いいから早く出ようぜ、時間がもったいねえ」
「……不安なんでしょ? 空が曇ってて、お日様が見えないから」
「……っ!」
ずばり胸の内を言い当てられて、うろたえちまう。そんな俺を見て、サーラは「やっぱり」ってつぶやきながら、陶杯に口をつけた。
「マーソルさん――いえ、リュファト様が冥界に捕らわれたって聞いて、気になるのはわかるけど、焦っても仕方ないわ。ほら、お茶でも飲んで落ち着きなさいって。あなたの分もあるんだから」
「お、俺はそいつが苦手なんだよ。野菜と同じくらいさ」
魔女っ子が飲んでるのは、東方の国チャナタイから伝わった茶だ。疲れや眠気を取り去り、心身を癒す魔法の飲み物として西方の国々で流行ってるが、苦味が強くて、どうも俺は好きになれねえ。まあ、飲めば不思議と頭が冴えたり、沈んでた気分が晴れたりするから、時々苦いのをこらえて口にしてるんだけどさ。
「……メリック。貴様、朝からやる気があるのは感心だが、どこへ行けば呪詛や冥界に関する話が聞けるか、当てはあるのか?」
サーラに代わって、デュラムの奴がたずねてくる。
「いや……ねえけどさ。『下手な弩、数撃ちゃ当たる』っていうし、町中の人たちに手当たり次第聞いて回れば、そのうちきっと……」
「それじゃ効率悪いわ。町で剣や魔法と縁が薄い暮らしをしてる人たちは、呪いだの死者の国だのには詳しくないでしょうし、そもそもそんな不吉な話なんてしたがらないわよ」
「むしろ、そんなことを聞いて回れば、こちらが不審な目で見られるだけだろうな。たずねる相手は、よく考えて選んだ方がいい」
「う……そっか」
言われてみりゃ、確かに。村で畑を耕し、麦を育てる農民や、工房で亜麻の布を織り、石に彫刻を施す工匠。それに、町の市場で絹や陶磁器、香辛料を売る商人。そういった手堅い仕事に日々勤しんでる人たちに、呪詛や冥界なんて浮世離れしたことについてたずねても、俺たち冒険者が求めるような答えはなかなか返ってこねえだろう。
それくらい、落ち着いて考えりゃわかるだろうに、俺って奴は……とほほ。
「悪い。その……考えが、足りなかった」
ぽりぽり。人差し指の先でほっぺたを引っかきながら、二人の仲間にわびる。もう一人の仲間――俺はそう思いてえんだが――アステルが心配そうな顔してこっちを見てるんで、片目をつぶって「大丈夫だぜ」って合図を送った。
そうだ、落ち込んでる場合じゃねえ。サーラに勧められた茶でも飲んで、気分を晴らそう。あの苦味は何度飲んでも慣れねえが、我慢だ、我慢。
というわけで、卓上に置かれた陶杯を取り、馥郁とした香り漂う東方渡りの飲み物を一口すする。
味は……うぅ、やっぱり苦いぜ。
蜂蜜でも加えりゃ、少しは飲みやすくなるだろうか。
苦味にちょいと顔をしかめながらも二、三口飲み、陶杯を卓の上に戻す。立ち昇る湯気を見つめながら、
「そりゃもちろん……」
と、改めて話し出した。
「おっさんのことも、気がかりだけどな。お前の呪いも、早く手がかりつかんでなんとかできねえかって……そう思うと、いても立ってもいられなくてさ。それでつい……」
気が急いちまった。そんな胸の内を、訥々と語る。
言い訳がましく聞こえるかもしれねえが、天空の都に住まうすべての神々にかけて、本心だ。それだけは仲間に――とりわけサーラにゃ伝えたくて、途中舌をもつれさせながらも、自分の思いを率直に打ち明けた。
お世辞にも弁舌巧みとは言えねえ俺の話し方で、果たしてサーラに伝わるか――そんな懸念は、どうやら無用だったみてえだ。俺の話を聞いた魔女っ子は、ちょいと目を丸くした後、
――もう、仕方ないわね……。
とでも言うように肩をすくめ、くすりと笑みをこぼした。それから、すいっとこっちに顔を寄せ、驚いた俺が身をすくめるのも構わずに、
「……ありがと。あたしなんかのことまで、気にしてくれて」
と、耳元にささやく。
「『なんか』って、なんだよ。自分のことをそんなふうに言うするもんじゃ……うぷ」
最後まで言い切る前に、口にすっと人差し指を押し当てられちまった。それ以上言わなくていいから、とばかりに。
「あたしはまだ、大丈夫だから。ところでメリック……この服どう思う?」
自分だってその身を呪いに蝕まれてて、内心じゃ焦りを感じてるだろうに。暗い表情は一切見せず、普段通りの自信に満ちた姉貴面して、魔女っ子は別の話を始める。
話の中身は、サーラが今着てる服のことみてえだ。
「デュラム君ったらね、早起きして、町の市場を見てきてくれたそうよ。そしたら開店準備中の服屋を一軒見つけて、店先に出てたご主人に……」
「急ぎで服が必要だと、無理を言って店内を見せてもらった。そこで見つけたのが、今サーラさんが着ているものだ」
途中から、デュラムが話の輪に加わってきて、サーラの代わりに語り出した。自慢するわけでもなく、淡々と。
「あの……ぼくが差し上げた服、やっぱり気に入りませんでしたか……?」
「いや、ロフェミス神。御身の厚意には感謝するが、あの衣装では町中で人目を惹きすぎる。だから今は、目立たない服を用意したまでのこと。ゆえにどうか、気を悪くしないでいただきたい――夜空に綺羅星をちりばめる神よ」
脇から遠慮がちにたずねるアステルに、妖精の美青年が口調は丁寧ながら、至極もっともな突っ込みを入れる。
「いや、あの……そんなに畏まらないでください、ウィンデュラムさん。気を悪くなんてしませんから。それより仮装用の衣装、まだ他にもたくさんあるんですよ。よろしければ、フランメリックさんやウィンデュラムさんも、お好きなものを一着ずつもらっていただけませんか?」
「御身は仮装が趣味なのか」
「違いますって。母さんが時々、ぼくに押しつけてくるんです。神々の宴に、仮装をして出なさいって。つい二百年ほど前なんて、闘技場で戦う剣闘士の衣装を渡されたんですが、青銅の胸当てと籠手、脛当ての他は黒革でできた逆三角形の下穿き一枚なんて、恥ずかしいじゃないですか。だからぼく、どうしても着る勇気が持てなくて……」
リアルナさん。あんた自分の息子に、なんて格好させようとしてるんだよ。
アステルのお袋さん――半年前、俺たちが怖い思いをさせられた月の女神様。その凍てつくような眼差しを思い起こして、俺は一人げんなりとした。
「ロフェミス神……御身も見かけによらず苦労人なのだな」
「あはは、よく言われます。でもあの剣闘士の衣装、母さんの力が込められてるので生半可な刃はもちろん、飛び道具も寄せつけませんし、寒さもある程度防いでくれるんです。ですから、よければ試しに着てみませんか?」
「森の神ガレッセオ、並びに風神ヒューリオスにかけて、断る」
「う……即答ですか。ウィンデュラムさんなら、きっと似合うと思ったんですが……」
そんな神と妖精のやり取りをそばで聞きながら、俺は改めてサーラの身なりを拝見した。
肩に切れ込みが入り、胸元がゆったりとした清楚な白の薄上衣。丈の長い腰衣は見つめりゃ吸い込まれそうな深い青一色に染められ、上に重ねた前掛けは薄い水色。杖の代わりに買い物籠でも持ってりゃ、魔法とは無縁な町娘、商人か工匠の家に生まれた女の子に見えるだろう。
「まあ、その……なんというか、意外だな。サーラ、お前……そういう服も似合うじゃねえか。普通の可愛い女の子って感じでさ」
「普通の」ってあたりを聞いたところで、なぜだかサーラがぼん! っとほっぺたを赤くした。
「あ、あたしは魔女よ。普通の女の子じゃないんだから。ましてや、か、可愛いだなんて……そんなこと、あるわけないじゃない」
「いや、普通に可愛いだろお前……って、あいてッ!」
褒めたつもりなんだが、どうしてだか杖でカポンと叩かれちまう俺。
「もう! お世辞はよして。それ以上言ったら、こうなんだから!」
サーラの奴、自覚ねえのかな。「天才魔法使い」を自称するくらいだし、魔法の腕前に関しちゃ矜持を持ってるみてえだが、それ以外の面――たとえば容姿や人柄にだって、もっと自信があってもよさそうなのに。
さっきは「あたしなんか」って、自分を卑下するようなことを言ってたし……気になるぜ。
サーラにたずねてみようかと思ったが、口を開く前にデュラムが席を立って、こんなことを言い出した。
「話を戻すが、呪詛や冥界について詳しい話を聞きたいなら、まず向かうべきは神殿だろう」
「神殿って……俺が昨夜アステルと一緒に行ってきた、丘の上の神殿か?」
「そうだ」
「あの三人の神様に、もう一度頼んでみようってんなら、望み薄だと思うんだがな」
デュラムはかぶりを振って、こう答えた。
「訪ね先は、神々ではない――神殿の神官や巫女たちだ」




