マリンスノーの降る場所
あれは小学校の入学式だったと思う。
両親と一緒に祖父も出席してくれて、お祝いに美しい図鑑を贈られた。
両手で抱えても余ってしまうほど大きく重い図鑑で、その姿の通り心を満たしてくれた。
「深海の秘密」というその図鑑は、少し難しかったけれど、たくさんの写真や色鮮やかな挿絵が散りばめられていて、まったく飽きることはなかった。
四つ年下の弟もお気に入りで、二人で時間も忘れて深海の不思議に夢中になっものだ。
しかし、いつしかボクは自分の足で立って肌で感じる地上の世界に惹かれ、空想の深海を心の奥に閉じ込めてしまった。
受験生を抱えた家の中は、空気がピリピリして居心地が悪い。
弟は県内屈指の進学校を目指して、塾と家庭教師のローテーションでラストスパートをかけている。
そう、ボクが受験を失敗した県立第一高校だ。
なぜ弟が一高を、兄貴が落ちた学校を受験するなんて、まるで当てつけとしか思えない。
居た堪れず逃げ出したのは良いが、外は風は凍えて冷たく、雲が重たく空をおおい手が届くほどに低い。
天気予報では雪になるらしい。せめて降り出す前にどこかへ避難しなければ…… と、たどり着いたのが市民図書館だった。
館内に入ると暖房の暖かさに凍えた体が緩む。独特の静かさの館内は、いつもより人が少ないようだ。
「こんな日に図書館に来る物好きはいないか」
取りあえず寒さから解放されて、ほっと一息ついた。後はこの持て余した時間をどうやって潰すかだ。
確か窓際にある本棚には、小説コーナーがあったことを思い出した。貸出しカウンターの前を横切ると、そこには「海洋生物の特集コーナー」が儲けられていて、カラフルなポップと書籍や図鑑が並べられていた。年齢別に分けられた本は、想像以上に種類が豊富で懐かしさが込み上げてきた。
近くに置いてある本を手に取って、ぱらぱらとページをめくった。
「マリンスノー」その文字が目に飛び込んだ時、ザワっと両腕に鳥肌が立ち、扉の奥に隠したはずの記憶が溢れ出てきた。
「ねぇ、にいちゃん。マリンスノーってキレイだね」
図鑑の写真を指差して、弟は言った。
「キレイだって? バカだな、あれはプランクトンの屍骸だぞ」
「シガイって? 」
「うーん、ゴミだよ! なんの役にも立たないゴミクズだ! 」
「ヤだっ、そんなことないよっ!! 」
わあん、と大声で泣き出した弟に、ゴメンゴメンとあわてて謝った。
「海洋生物に、ご興味がおありですか? 」
司書らしい女の人に声をかけられて、ハッと我にかえった。
「あ、はい……、いえ、あ、あの」
ハッキリしない返事だったが、その人はニコニコしながら続けた。
「こちらの図鑑が人気なんです。写真や挿絵がたくさんで、幅広い年齢層に愛読されていますよ。」
そう言って勧められたのが「深海の秘密」だった。
「どうぞ」
「あ、どうも」
条件反射的に受取ってしまった。
この重さ手触り、ボクは忘れてなんかいない。懐かしくて胸が痛くなるほど切ないよ。
「ねぇ、にいちゃん。この字なんて読むの?」
「けんだくぶつ」
「えっ、けんだくぶつってなに? 」
弟はボクの部屋に図鑑を持ってきては、あれこれと言ってまとわりつく。
「おまえ、それ持って行っていいから、自分の部屋でみろよ」
図鑑を抱えた弟の背を押して、部屋から閉め出した。
「教えてくれたっていいじゃんか。けちっ! 」
ドアの閉まる瞬間に、捨て台詞を投げつけて、パタパタと階段を下りて行った。
本当は、もう図鑑を開くことも無いから、弟にあげてもよかった。しかし図鑑の装丁はとても美しい、そして祖父からの最後の贈り物となったので、簡単に譲るわけにもいかない。
ボクは年明けに迫った高校受験の準備に気が急いてイライラしていた。それなのに、姿を見れば後をついて来る弟は、鬱陶しい以外のなにものでもない。
その時、ほんの些細ないたずら心がわいた。
(この図鑑がなくなればいいんだ…… )
いつもぼくの本棚の定位置にしまってあるが、弟が気づかないうちに隠してしまおう。
(そうだ、あそこがいい)
思いついたのは、ウォークインクローゼットの奥からハシゴを上ると行ける屋根裏の物置だった。
そこはボクの部屋と、隣り合った両親の部屋のクローゼットからだけ行ける秘密の場所なのだ。
ボクは図鑑を持って、そっと屋根裏に上り懐中電灯で照らした。すると薄っすらと錆が浮いたノコギリの刃が見えた。
あれは、父さんが一時期ハマったDIYの工具箱と、その材料の木材みたいだ。すべてが雑然と物が詰め込まれている、という感じだった。
使わなくなった物やあまり出番のない物が、ごちゃりと積み上げられている。明かりがないから危ないと、母さんが口やかましくいうのが理解できた。
もちろん弟は、母さんのその言いつけを必ず守るはずだ。
そして、ボクはその工具箱の隙間に「深海の秘密」を隠した。
「にいちゃんっ、図鑑どこにあるんだ?」
「しらんよ」
「いつものトコに無いぞ! 」
「お前しか見ないんだから、お前がどうにかしたんだろ? 」
そう言うと、弟は押し黙ってうなだれた。
それから弟は、まとわりつかなくなったけれど、時々、家の中のあちこちで図鑑を探している姿を見ると少し罪悪感を覚えた。
だからボクは、受験勉強だと言って、学校の帰りに市民図書館に寄るようになった。
志望校の合格ラインは余裕で越えていたのに、今さら図書館通いなんて…… と、親は変に思ったかもしれない。
そう、あの日も雪が降っていた。
電車が徐行運転で、かなり帰宅が遅くなってしまった。改札口もバス乗り場も、家路を急ぐ人で混雑していた。
ケイタイで時間を確認すると、八時を回っていた。
雪はいくらが小降りになって来た。少しばかり積もった雪も雑踏で消え始め、歩いても帰れそうだ。
フードを目深にかぶり、歩道に積もった雪を踏み締めながら急ぎ足で帰った。普段の倍以上の時間がかかって、やっと家に着くと頭も肩も雪で真っ白だった。
ただいまと声をかけて玄関を開けると、青ざめた顔の母が転がり出てきた。
ボクの顔を見ると明らかに落胆した表情で「おかえり」と言った。
母の顔色に不安を覚えて、コートを脱ぐ手が止まった。
「なにかあったの? 」
ボクの声で緊張の糸が切れたのか、母さんはぼろぼろと涙を流して、弟がまだ帰らないと言った。
小学校から寄り道をせずに帰ってきて、ランドセルは玄関に置いてあった。
家の中を探しても、友達の家にも、どこにもいない。母さんは、もう一度心当たりに連絡してみると言う。
「ボクも着替えたら、近所を探すから」
そう言って、ボクは自分の部屋へ向かった。扉を開け、解けかけの雪がついたカバンをベッドに投げる。脱ぎっぱなしで放ってあるジーンズとパーカーに着替え、制服はイスの背に引っ掛けた。
その時、クローゼットが少しだけ開いているのに気づいた。
今朝、家を出た時は閉まっていた。
両親はボクのいない間、部屋に入ったりしない。そう、勝手に部屋に入るのは…… 嫌な予感に背筋が凍った。
注意深くクローゼットの扉に近づくと、折り戸の影に小さな足が見えた。
全身の血の気が下がり、あわてて扉を全開にすると、そこにはぐったりと横たわる弟がいた。その体の上には、屋根裏へのハシゴとフタの開いた工具箱、そして中にあった工具が散乱していた。
「け、謙介? …… オイ、どうした? 」
軽く肩をつかんで抱き起こすと、絨毯に大きな黒いシミがあった。そしてそっと弟の顔をこちらに向けると、右のこめかみから頬骨の辺りまで、まっすぐな傷口がパックリと開いていた。
「…… ッ、かあさんっ!! 」
かすれる声で叫んだ。ボクは弟を抱え上げると、ふらつきながら階下の母のところへ連れて行こうとした。
ゴトリと何かが、弟の体から滑り落ちた。
そこには「深海の秘密」が、血を吸って赤黒く染まっていた。
自分の小さな悪意と、その結果の大きさに愕然とした。
その精神的ダメージはボクには深刻で、余裕だったはずの受験にも失敗し、第二志望の冴えない高校へ進学した。
弟は出血の割に傷は浅かったが、どうしても額の辺りの傷跡は消えなかった。そして、それはまるでボクへの戒めのようだ。
ただ弟は意識が戻ってからも、自分が勝手に入ってケガをしたと言い、その理由については一言も語らなかった。
ボクは謝ることさえ出来なくなり、さらに罪悪感をつのらせ、ついには弟を避けるようになった。
そんなボクの態度で何を感じたのか、弟も一切まとわりつかなくなった。
それでも弟は時々、何か言いたそうに視線を送ってくる。だけど臆病なボクは気づかない振りでやり過ごすのだ。
四年前のあの日から、ボクと弟は話さなくなった。
暖かいはずの室内に、一筋の冷気が横切った。
ふと気づくと、窓の向こう側は、いつの間にか雪が降り始めていた。
外を歩く人は誰もいない…いや、透明な傘を差した少年が図書館に向かって来るのがみえた。顔の半分以上をマフラーで包んで、それでも白い息がもれていた。
透明な傘越しに見えたのは、弟だった。
ぼくは驚いて図鑑を持ったまま、入口に向かって走り出した。
「…… 謙介」
弟は雪に濡れた前髪をかきあげると、困ったように眉毛を下げて笑った。
「にいちゃん、きっとここだと思った。傘、持って来たよ」
寒さで赤くなった頬や鼻と対照的に、傷跡だけ白く浮き上がっていた。
「あ、それ! 深海の秘密だ。ちょっとみせてよ!」
そう言われて、はじめて図鑑を持ったままだと気づいた。ボクの手から図鑑を奪い取ると嬉しそうにめくった。そして、マリンスノーのページで止まった。
ボクはビクッと体を固くした。
「にいちゃんは、気にしすぎなんだよ」
弟は静かに、寂しそうにつぶやいた。「この傷が、にいちゃんのココに癒えない傷を負わせて、苦しませた」と、ボクの胸の真ん中に手を押し当てた。
「にいちゃん? 」
ボクは泣いていた。
「ごめんな、謙介」
胸の奥につかえて、ずっと伝えられなかった言葉が涙と一緒にあふれ落ちた。
「にいちゃんは、いつだって自慢の兄貴なんだ。知ってる? 」
「…… お前だって、自慢の弟だよ」
ボクはそう応えて、弟の濡れた髪をクシャッとした。
弟は嬉しそうに、「えへへ」とにかんだ笑いを浮かべた。額にあるその傷は星のように見えた。
迎えに来たと言った割に、弟は傘を一本しか持っていなかった。
小さな傘に体を寄せ合っても男二人だと、まったく役に立たない。そんなことはお構い無しに弟は、
「わ、見てみて! こうして見ると面白いよ」そう言って、弟は傘を高くあげて、傘の下から空を仰いだ。透明な傘に落ちる雪片に視界を塞がれ、妙な気分になる。
まるで太陽の届かない深海に降るマリンスノーを見ているようだ。
「ねえ、にいちゃん。こうしていると深海にいるみたいだね」
弟の言葉に、ボクは思わず声を出して笑った。
「なんだよ、笑うなってば」
「ごめん。さあ、早く帰ろう」
深々と舞い落ちる地上のマリンスノー、それは必ず訪れる春への約束だ。
そして、深海に積もるマリンスノーは、海を豊かに育むのだ。