婚約者の回想7・王宮の庭2
私は、なにも分かっていなかった。
本当の現実を。苦悩を。心の痛みを。
ずっと、自分は知らない、ということさえ、分かっていなかったのだ。
何も見えない暗闇に囚われ、気力を奪われていく――心が徐々に死んでいく、あの感覚を。
嘆きたくない。愚痴りたくない。悲観するなんて、最悪だ。
そんなふうに嘯いた。
――嘆く? 足を動かそうともしないで、ただ、自分の不幸に囚われて、下を向いてすすり泣くの? そんなの、ご免だわ。
――愚痴? 口をへの字にして、不平不満をこぼしたところで、周囲からの評価を下げるだけ。文句を言う暇があるなら、自分が動かなくちゃ。
――悲観? 無理だ、ダメだ、と意固地になって、絶対に一歩を踏み出そうとしない。僅かな経験と、頭の中で考えた現実に固執して、本当の現実の中で足掻くことすらしない。それどころか、他人の頑張りをも否定する。あんな人たちの仲間になんて、絶対なりたくないわ。
振り返ってみれば、なんて傲慢で、小賢しくて、鼻持ちならない物言いだろう。
だが、私はずっと、そうやって人の弱さを軽蔑混じりに否定してきた。ああはなるまい、と自分の弱さが顔を出す度に、自身を叱咤した。
けれど、本当に辛くなった時――思考の迷路に嵌り、どうしたら良いのか分からない状況に自身が陥って、ようやく彼らの心が、自身の弱さに膝を折る苦しみというものが、理解できた。
彼らが背負えない悩み。それが自分にとっては大したことではないから、心のどこかで彼らを下に見ていた。彼らの苦悩が理解できなかった。
けれど、問題の核心は抱えた悩み、その一つ一つの内容ではなかったのだ。本当に大事なのは、一人ひとりの限界が違う中で、自分では背負いきれないほどの悩みが現れた時にどうするか、ということだったのだ。
これまで私は、自分の能力を超えた悩みや痛み、苦しみを経験したことがなかっただけだった。
もし、一度でもこの痛みと苦しみを知ってしまえば、相手を見下すなんて、できるはずがなかった。一歩、離れた場所から相手を批評するなんて、そんな無慈悲な態度を取れるはずがない。
私は理屈ばっかりの頭でっかちで、現実を、本当の痛みというものを、なにも分かっていなかったのだ。
打開策を探し、行動し続けなければ、と思うのに……。目の前の壁があまりに大きくて、立ちすくんでしまう。
そして、足を止めれば泣き言ばかりが口をつく。動かなきゃいけないのに、どちらに足を踏み出せば良いのかも分からなかった。
でも……。
「『彼が悪い。あなたは悪くない』なんて。そんな、ありふれたセリフも、彼の悪口もあなたは求めないのね」
セラフィオーネの柔らかな声に、顔を上げた。
そう、そうなのだ。私が望むのは、そんなものじゃない。
目が合うと、彼女は優しく微笑んだ。
最初、彼女が続ける言葉は今、私が話した内容とは関係ないように思えた。
なんで、そんな話をするのだろう、とも思った。
けれど、話が進むうちに、心を覆う暗雲が晴れていく。彼女は私の表面的な言葉に返事をするのではなく、私の姿を見て、本質的な問題を見つめて、言葉を紡いでいたのだろう。
――そう、そうなんだわ。落ち込む必要なんて、なかったのね……。
彼女の言葉が、ストンと心に落ちてくる。セラフィオーネが話す内容は、私がずっと感じていたことだった。頑張れば頑張るほど、嫌な自分が浮き彫りになるようで、苦しかった。それは駄目なことなんだと、ずっと思っていた。でも……。
――見えていなかった自分の欠点が見えるようになるのは、成長している証……。
目から鱗が落ちるような思いだった。体の力が抜け、ずっと胸の中にわだかまっていたものが、すっかり無くなっていることに気づく。
私はずっと、正しい道を歩いていたのだ。
そう、認めてもらえただけで、こんなにも心が軽くなる。
どんなに辛くとも、この険しい道を歩いていけば、必ず、光が指すのだ、と。そう確信した途端、苦が苦ではなくなった。
今なら、苦しくても、そのまま突き進むために力強く、一歩一歩進んでいける気がした。
人の言葉はなんて不思議なのだろう。
暗闇の中へ光明が差すように、音もなく、何に遮られることも、跳ね除けられることもなく。
ただ、苦悩に沈んだ、深い深い闇の底へ。何も見えなくなっていた者へと、希望となって届く。
別に、彼女が現状を激変させたわけじゃない。解決のための道筋を示したわけでもない。だが、それでも……。
――もう、大丈夫。
「そう思えた」という、心の中という小さな世界での一つの変化。たったそれだけのことなのに、どうしてだろうか。もう無理だ、と思っていた私の中から力が溢れ出して、何度だって立ち上がれるのだ、と確信を抱かせる。
変わらない現実に、何度だって、変化が現れるまで挑んでみせる。
失敗への恐怖が消えて、そんな勇気が湧いてくる。
「……フィオネ、ありがとう」
心がぬくもりを感じると同時に、言葉がこぼれ落ちた。
そして、その後もしばらく、私はセラフィオーネと話をした。今まで、考えたこと。これから、何を目指し、そのために何をすべきなのか。
少し前までは、真っ暗闇の中にいるように思っていたのに、今は後から後から試してみたいアイディアが湧いてくるのだから、人って不可思議な生き物だと思う。
「カティ、そろそろ戻りましょうか」
そう言われて、体がすっかり冷え切っていることに気づく。指先もかじかんで、上手く動かせない。
そんな私を見て、これ以上、ここにいたら墓石より冷たくなってしまうわ、なんてセラフィオーネがおどけ、思わずクスリと笑ってしまった。
城内へ戻ろうとする彼女の後をついて行く途中、ふと顔を上げれば、冬の冷たい風に木々の枝が揺れていた。先程までは気づかなかったが、黒々とした枝には硬い新芽が顔をのぞかせている。
あの硬い芽は、冬の厳しい寒さにさらされていても、じっと耐え忍んでいる。
木々は春が必ず訪れることを知っていて、息を潜め、芽吹く瞬間を今か今かと待っているのだ。
――春はもう、そこまで来ている。
私はセラフィオーネを追って、一歩を踏み出した。
<蛇足、または裏設定>
この国には、「墓石のように冷たい」という慣用句がある。
※この設定を考えた後、普通に慣用句だった気もして検索したら、そんな名前のゲームがあるようです。




