第8章 旅立ち
〜あの日のことは今でもはっきり覚えていますよ。
まるで、“なごり雪”そのままの場面でしたね。
ホームに降り注いでいたのは雪ではなくて桜の花びらでしたが・・・
その日、史也は真弓の家から駅まで一緒に歩いた。
いつものように真弓の自転車を史也が押して・・・ 自転車の荷台には、真弓のボストンバッグが積んである。
これから一人暮らしを始めるにしては少ない荷物だと思ったが、最低限、必要な家具や電気製品は寮に完備されているそうで、衣類は別便で送ってあるということだった。
真弓が出発したら、史也はその自転車で真弓の家まで戻ることになっていた。
これで一生会えなくなるわけではない。
しかし、二人はいつもより口数が少なくなっていた。
真弓は史也の少し後ろを歩きながら、自分の自転車を眺めていた。
それから少し早脚で史也の横に並んだ。
「その自転車、うちに届けてから里中君の家まで歩いて帰るのは大変でしょう?」
「そんなことはないさ。いつものことだし・・・」
史也はまっすぐ前を向いたまま答えた。
「よかったら、その自転車、貰ってくれない?」
史也は立ち止って真弓の顔を見た。
いつもと変わりなく、屈託のない笑顔がそこにはあった。
そんな真弓の笑顔を見て、史也はふと思った。
俺は何を暗くなっているんだろう・・・ 今生の別れでもあるまいし・・・
「いいのか?」
「うん!私だと思って可愛がってね」
「わかった」
駅に着いたのは、電車が発車する30分前だった。
ホームにはまだ電車は来ていなかった。
電車が来るまでの間、しばらく待合室で過ごした。
史也は自動販売機で温かい紅茶を二つ買ってきた。
ひとつを真弓に渡して向かい側の椅子に腰かけた。
「どうしたの?そんなところに座って」
真弓は紅茶のカップのぬくもりを確かめるように両手で持っている。
「前に座った方が、君の顔がよく見える」
そう言って、史也は真弓の顔をじっと見つめた。
真弓は顔を赤くして、うつむいた。
「いやだよ。恥ずかしい・・・」
壁に掛けられたスピーカーからアナウンスが流れた。
「上り電車入ります。ご利用のお客様は3番線ホームまでお越し下さい」
史也は飲み終わった紅茶のカップを真弓から受け取ると、ギュっと握りつぶしてゴミ箱に放り投げた。
入場券を買って史也も一緒に3番ホームまで行った。
電車の乗り込んだ真弓は座席について窓を開けた。
窓越しに少し話をした。
史也は電車の発車時刻が気になって、ホームにある時計を何度も見た。
やがて発車のベルが鳴った。
少しずつ電車が動きだす。
史也も電車と一緒に歩きだす。
「週末には帰るから遊びに来てね」
電車が早くなるにつれて、真弓の姿も遠ざかっていく。
電車の走る音が次第に大きくなっていく。
真弓はまだ何か言っているようだが、その声はもう史也には聞こえない。
史也は真弓の口元を見つめて何を言っているのか読み取ろうとした。
「・・・な・ら・・・ さ・よ・う・な・ら・・・」
手を振りながら真弓はそう言っているように見えた。
史也は立ち止り、遠ざかる真弓に手を振った。
何とも言い難い想いが込み上げ、目頭が自然と熱く感じた。
何かが頬を伝うのが分かった。
電車が桜吹雪の中へ消えて行こうとしている。
ホームに残された史也の頬には涙と一緒に桜の花びらが一枚貼り付いていた。
やがて電車は見えなくなった。
それから3日後、史也は高校の入学式を迎えた。
史也は自転車置き場に颯爽と自転車を乗り付けた。
後輪のカバーに貼られた名前シールには“島田真弓”と書いてある。
その脇に、小さな文字で“&里中史也”の文字が書き加えられている。
玄関前の掲示板に貼りだされたクラス分けの紙を、史也は少し離れた場所から、ポケットに両手を突っ込み、壁にもたれかかって人の群れが減るのを待っている。
人が少なくなると、史也は掲示板に近づき自分の名前を捜し始めた。
「1年3組だ」
ポンと肩を叩いて声をかけたのは前田真一だった。
「前田!」
「よっ!とりあえず、1年間よろしくな。同じ中学のヤツがクラスに4人いるぞ」
そう言って階段を上って行く前田の後姿をしばらく見つめて、史也も後に続いた。
“1年3組” 教室に入り口で立ち止まると、史也はそのプレートをじっと見つめた・・・