第20章 やさしさとして、想い出として
~こっちの桜はもう少し先になるでしょか・・・ さくらの花が咲くたびに、あの時のあなたを思い出します。 あの時は本当に驚かされました。 何の前触れもなく突然大学にやって来たのですから。 しかも・・・
夏が過ぎる頃には史也と香奈は同棲をしていた。
しかし、そのことは誰にも話さなかった。
史也が突然下宿を出たので、孝信は根掘り葉掘り聞き出そうと躍起になったが、史也はそれをやんわりと交わした。
香奈は相変わらず、二人を引っ張り廻しながらも、サークルの本文である執筆活動もこなしていった。
おかげで、史也は年末の新人コンクールで佳作をとった。
孝信もまともなストーリーを書けるようになってきた。
春には三人ともそろって進級した。
広之は宝石店のガラスケースの前で真剣な表情で並べられた指輪を見比べている。
女性の店員が近付いてきて広之に声をかけた。
「指輪をお探しですか? どなたかへの贈り物でしょうか?」
広之は顔をほころばせて店員に向かい合った。
「ええ、今日、彼女にプロポーズするんです」
「それはおめでとうございます」
「いえ、いえ、まだ受けてもらったわけではありませんから」
「そうえすか、でもあなたみたいな素敵な方ならきっと大丈夫ですよ。 そういうことなら・・・」
そう言って店員はいくつかの指輪をケースから取り出してカウンターの上に並べて見せた。
「サイズはいくつですか?」
「えっ? サイズ?」
「はい、彼女の指輪のサイズです」
真弓は久しぶりに実家に戻っていた。
そして、玄関の脇に置かれている自転車の手入れを始めた。
手入れをしながら、史也と一緒だった中学生の頃の思い出が次から次へと浮かんできた。
「里中君、元気にしているかしら? この自転車はやっぱり里中君が持っているべきよね・・・ よし! 決めた。 里中君に届けてあげよう」
史也と孝信は新入生をサークルに引き込もうと入学式に乗り込んだ。
聞いたこともないようなサークルの看板を掲げた奴らがウヨウヨいる。
考えていることはみんな同じだった。
香奈は、このてのことは面倒くさがって部室でアルバイトの原稿を書いている。
やがて、二人が部室に戻っ来た。
新入生と思しき女の子を二人連れてきた。
香奈は手を止めて、二人の女の子を眺めてニコッと笑った。
「でかした!」
真弓はこの時のために買いそろえたライダースーツを颯爽と着て自転車にまたがり、ヘルメットの顎紐を止めた。
傍らでは広之が心配そうにそんな真弓を見守っていた。
「本当にそれで東京まで行くのか?」
「ええ! そのために今まだトレーニングをしたんだもの」
真弓はニッコリ笑って広之にキスをした。
胸元にはシルバーのネックレスに吊るされたダイヤの指輪がぶら下がっていた。
広之からもらった婚約指輪はサイズがきつくて指に入らなかった。
広之はすぐに直してくるからと言ったが真弓はそのまま受け取った。
広之は指輪を見て満足そうに頷くと、
「じゃあ、気をつけてな」
そう言って真弓に手を振った。
勢い良くペダルをこいで真弓はスタートした。
二人の新入生に入部届けにサインをしてもらうと、香奈はそれを机の引き出しにしまって鍵をかけた。
「よし! 今から歓迎会をやるぞ」
「合点承知!」
史也も孝信も香奈のこういうノリにはすっかり慣れて・・・ と言うより、どっぷり浸ってしまっていた。
「えっ? 今からですか?」
戸惑う女の子たちをよそに、香奈は二人の腕を掴むと無理やり引っ張って部室を出て行った。
史也と孝信は顔を見合せて吹き出した。
四人は構内の桜並木を校門の方に向かって並んで歩いていた。
心地よい春の風が桜の花びらを程よく飛ばしていく。
史也は、東京に出てくるときに真弓が見送ってくれた駅のホームを思い出していた。
すると、前方から一台の自転車が近付いてくるのが目に入った。
その見覚えのある自転車の乗っているのは・・・
「真弓!」
史也に気が付いた真弓は自転車を降りてヘルメットを脱いだ。
長く伸びた髪が桜吹雪の中で揺れている。
自転車を押しながらゆっくりと史也の方へやってくる。
そして史也の前で自転車のスタンドを降ろすと、思いっきり史也を抱きしめた。
「里名君のよ。 私にはこれがあるから、そばに置いてあげてね」
そう言って、首からぶら下がっていた指輪をみせた。
「おめでとう! でも、相変わらずだね。」
そんな二人を不思議そうに見ていた孝信と二人の新入部員を香奈は引っ張ってその場を離れた。
史也と真弓はしばらく桜の花びらを浴びながらその場に向かい合ったままでいた。
~しかも、自転車でやって来るとは思いもよらなかった。 確かに、あの自転車は僕にとってはあなたのやさしさであり、大切な想い出だから。 今も、大事にしています。 あなただけのやさしさとして、帰らぬ想い出として。
Scene・・・
今日は朝からい天気だ。
窓を開けると、部屋中が春のにおいで溢れだす。
もうすぐ桜の季節だ…。
史也は机の引き出しから便箋を取り出した。
こんな日は、あの人に手紙を書いてみよう。
お元気ですか…。
ペンを握って文字を綴りはじめると、懐かしい想い出が昨日のことのように甦ってくる。
キッチンからは、軽快にまな板を叩く包丁の音が聞こえてくる。
「この音はキャベツの千切りだな…」
懐かしい想い出をたどり、ペンを走らせる。
史也は新聞社に勤務しながら小説家としても活躍している。
手紙の相手は、史也にそんな夢を持たせてくれた初恋の相手だった。 手紙を書き終えようかという頃に史也の腹の虫が泣き出した。 ほんのりとした油の香りとともに、“ジュー”と言う音が空腹のお腹を刺激する。
封筒に住所と宛名を書いて切手を貼る。
「ちょっと手紙を出してくるよ」
キッチンにいる妻にそう告げると、玄関の扉を開けた。 揚げたてのカツをトングで掴み上げたまま顔を出した妻が史也に声をかけた。
「里中~っ! もうメシの支度が出来るんだぞ! 寄り道しないで早く戻ってこいよ」
「わかったよ」
そう答えて、玄関のドアを閉めた。
まったく、香奈ときたら、結婚してまで人のことを里中と呼ぶ。里中香奈…。旧姓は佐々岡香奈。
香奈は大学時代に史也と同じサークルで部長をしていて史也より1級上だった。 結婚してから既に15年になろうとしているのに、香奈は当時と全く変わらない。おかげで史也は娘からもサトナカと呼ばれている。
手紙をポストに投げ込むと、史也は春の空気を思いっきり吸い込んで、来た道を引き返した。
部屋に戻ると、香奈が出来あがった料理をテーブルに並べているところだった。
「おう! お帰り。 早かったな。 相手はまた白衣の天使か?」
「まあね…」
「相変わらず、仲がいいな」
香奈は僕の妻であり、僕と彼女の良き理解者でもある。
「相変わらず、仲がいいな」
香奈のうしろから娘の真弓が可愛らしいエプロン姿で顔を出す。
「おう、真弓も手伝ったのか?」
「そうだよ。サトナカ」
真弓…。 僕の初恋の人の名前…。
香奈が妊娠した時に言った。
「子供が生まれて女の子だったら私が名前を決めるからな」
生まれた子は女の子だった。
「どんな名前にするんだい?」
「決まってるじゃないか! マユミ…。 真弓だよ」
「冗談だろ?」
「大真面目だよ!」
そんな話を真弓に話したたことがある。
「香奈さんらしいわね。里中君、しっかり真弓ちゃんを育てるのよ」
まるで、他人事のように真弓は笑っていた。
心地よい風が窓から吹き込んでくる。 どこから運んできたのか、桜の花びらが一枚舞いこんで来た。
「もう桜の季節だな。 この子も小学生になるし、しっかり稼いでくれよ。里中先生!」
「そうだぞ。 しっかり稼いでくれよ。 サトナカ!」
そんな二人を見比べて、史也は顔をほころばせた。
名前は真弓だけど、真弓は何から何まで香奈にそっくりだ。白衣は着ていないけれど、この小さな天使のために僕はもっと頑張ろう。
史也は心の中でそう思った。
真弓の入学式。
満開の桜の下。 小学校の校門の前でお決まりの記念写真を撮った。 史也は三脚にカメラを固定し、セルフタイマーをセットして香奈と真弓の隣へ走った。
「はい、チーズ」
暖かな春の日差しがとても心地よかった。