第16章 震える背中
~あのときのあなたの顔は今でも覚えていますよ。 失礼なことかも知れませんが、その時、初めて“女の子なんだなあ”って、そう思いました。 それまで、決してあなたのことを“女の子”として見ていなかったわけではありませんが、あの時の顔は特別なものに感じられました。 もっとも、だからこそ、今でも、あなたの幸せそうな笑顔を見ることができるのかも知れませんね・・・
くしゃくしゃに丸められた原稿用紙がまた宙を舞う。
ゴミ箱の周りには、それが無数に散らばっている。
「くそっ! 全然進まない」
史也は、コンクールの締め切りが迫っているのにストーリーすらろくに組み立てられない状態だった。
そんな史也を機兼ねて、香奈が独り言でも言うかのように呟いた。
「バイトは完璧なのにね! 小説って、ストーリーや結果を先に決めて書くものじゃないんだよね・・・ 人生と一緒! その瞬間々々でどうするかによって将来は変わるもの。 “人生は筋書きのない小説”って言うだろう? 同じように小説にだって出来上がるまでは筋か気なんかありゃしないと思うけど! 少なくとも、私はそう思うな! だから、小説だってバイトのときみたいなひらめきが大事なんじゃないか?」
しかし、そうは言われても・・・ 史也がイマイチ乗り切れないのには別の理由があった。
とにかく、田舎から戻ってきてからというもの何をするにしても上の空で集中できなくなっていた。
史也は予定より早く東京に戻ることにした。
ホームで見送る真弓の顔を見ると、数ヶ月前に見送ってくれ時の顔と違って見えた。
なんとなくそんな気がした。
列車が動き出して、やがて真弓の姿が見えなくなると、急に心細くなって心臓の鼓動が速くなっていくのを感じ、胸騒ぎを覚えて居ても立っても居られない、得体のしれない何かが史也の心を覆った。
「ここで会ったのも何かの縁だ。 合流してもいいかな?」
弘樹は史也の隣に腰を下ろすと、広之に向かってウインクした。
広之はカウンターのバドワイザーを手に取ると、残りを飲みほしてから弘樹達の方へ向かった。
4人用のテーブル席の空いているスペースに腰を下ろすと、最初に史也の顔を見て真弓の方を向いた。
「いいのかい? 彼氏とデート中だったんじゃないのかい?」
広之にそう聞かれると真弓は史也に微笑んで広之の質問に答えた。
「そうなんですよ! 彼は里中君と言って、中学校からずっと一緒なんです。 でも、高校を卒業してから彼は東京の大学に進学しちゃったから、今日は久しぶりのデートなんですよ」
真弓がそう答えたので史也はちょっと安心した。
ただの友達みたいな言われ方をされたら、涙が出そうになったに違いない。
「遠距離恋愛ってやつだな」
弘樹が茶化したような口ぶりで割って入った。
「よせよ! 茶化すんじゃない!」
そんな弘樹を広之がたしなめると、史也はそれを制して自分の存在をアピールした。
「いいんですよ。 二人ともいい人みたいだし、真弓もせっかくの貴重な休みなんだからみんなで楽しくした方がいいだろう?」
史也はこの時初めて真弓のことを島田さんではなく敢えて真弓と呼んだ。
真弓はちょっと驚いたが、すぐに史也の気持ちが分かった。
「ううん、やっぱり、久しぶりに里中君と会ったんだもの。 二人の時間を大事にしたいわ」
真弓がこう答えたのが史也は予想外だった。
すると、弘樹と広之は顔を見合せ、弘樹が大袈裟なポーズを取りながら立ち上がった。
「こいつはごちそうさまだな。 おい、ヒロ、俺も来たばかりだけど、邪魔しちゃ悪い。俺達がいたら目障りだろうから河岸を変えるとするか」
「そうだな」
そう言うと、広之も立ち上がり、二人にお辞儀をしてレジの方へ歩き出した。
弘樹はその背中を少し眺めてから、二人に手を振って後を追った。
「おい! 待てよ」
二人が店を出た後も、史也と真弓はしばらく一緒にいた。
「よかったのか? 二人を帰して」
「当然でしょ? だって、今日は里中君との久しぶりにデートなんだもの」
「ならいいけど・・・」
「なによ! 里中君は二人っきりじゃない方が良かった?」
「いや、そんなことはないけど」
史也にしてみれば、こんなに嬉しいことはない。
しかし、何かひっかかるものを感じて素直に喜べなかった。
「ねえ! それより、さっき、私のことを真弓って呼んだでしょう? もう一度呼んで!」
「えっ? そうだったっけ?」
「そうよ! 初めてそう呼ばれたわ。 なんか、彼女って感じがして嬉しかった」
そう言ってせがむ真弓の顔には何の目論見もない、素直な笑顔があふれていた。
冷房がきいた店内とは違って、一歩外に出るとこの地方特有のむっとした空気が体中にまとわりついて来た。
史也は、それをうっとおしく感じた。
真弓の休みは明日までの予定だ。
今晩は二人とも実家に戻り、翌日は真弓の家で中学の頃の同窓会をやる予定になっていた。
帰りのタクシーの中で、史也は思わずウトウトとしそうになったが、その瞬間、真弓が史也の肩に顔を寄せてきたので、すぐに我に返った。
真弓はよほど疲れたのか静かな寝息を立てていた。
史也はタクシーが真弓御家の前に着くまで、そのまま寝かせておくことにした。
真弓の髪からほんのりと漂ってくるシャンプーの香りが心地よかった。
真弓は、久保佳子と原田直美と一緒に台所でパーティーの料理を作っていた。
「ねえ真弓、昨日は里中君と会ったの?」
佳子が真弓に聞いた。
「そんなの当然よね」
直美がニヤニヤしながら真弓の顔を覗き込んだ。
「そんなの当然よ」
平然と答える真弓に二人は呆れて、顔を見合わせた。
「そんなことばかり言ってないで早くしてよ! もうすぐみんな集まって来ちゃうわよ」
そう言って真弓はサラダをボウルに盛り付け始めた。
病院の喫煙所で広之と弘樹はタバコをふかしながら窓から見える景色を眺めていた。
「ご愁傷さま。 俺は、二人はお似合いのカップルだと思っていたんだがな」
遠くの景色ばかり見ている色幸に弘樹が声をかけた。
「そんなんじゃないさ」
「そうか? あの後店を出たら帰るなんて言い出すから、てっきり・・・」
「いいからやめてくれ!」
「はいはい、分りましたよ」
そ言うと弘樹はタバコを吸い殻入れにねじ込んで喫煙所を出て行った。
広之はため息をついて、タバコの煙を思いっきり吸い込んで一気に吐き出した。
「お似合いか・・・ 俺もそう思ったんだけどな・・・」
香奈は、ゴミ箱からあふれた史也の原稿用紙を眺めながら呟いた。
「あ~あ、こりゃあ、医者も治せない病気がこじれたな・・・」
そうこうしているうちに、史也の背中が震えだしたに気がついた。
「おい、里中・・・」
香奈は、声をかけようとしたが、今は一人にしておいた方がいいと思い、部室を後にした。