第10章 それぞれの道
真弓の部屋があるのは、病院の看護婦寮の隣にある学生寮だ。
春からは、新入生が入ってくるので部屋を明け渡さなくてはならない。
大学病院で働くことが決まった真弓は看護婦寮に移ることになる。
朝から、春の日差しが心地よくベッドから出た真弓は窓を開けて深呼吸し、思いっきり春の空気を吸い込んだ。
「さて、荷物をまとめるか」
まとめると言っても、本当に身の廻りの物だけなのだが、引っ越しするというのはなぜだか心がウキウキしてくる。
真弓はスーツケースに衣類をしまい込みながら、初めてここへ来た頃のことを思い出していた。
「もう3年か・・・ 早いものだわ」
スーツケースの蓋を閉じると、窓のそばへ歩み寄り外の景色を眺めた。
「里中君はもう東京についたかしら・・・」
駅のホームに立っているのは真弓だった。
停車中の電車の窓の向こうに向かって話しかけた。
「今度は私が見来る番ね。なんだか、3年前の里中くんの気持ちが分かるようだわ」
電車の中で真弓を見ているのは史也だった。
座席を確保して荷物を安棚に置き、窓を開けたところだった。
「僕がいなくなっても泣くんじゃないぞ」
「なに言ってるのよ、子供じゃあるまいし・・・ あっ!もしかして里中君、私を見送った後泣いた?」
史也は動揺して顔を赤らめた。
真弓はそんな史也の表情を見流さなかった。
「けっこう、純情なのね」
「バカにするな。あの時はまだガキだったからな」
「へ〜、認めるんだ」
「今さら言い訳したってカッコ悪いだけだろう?」
真弓は史也のこういうところがとても好きだった。
自分を正当化するための言い訳を一切しない。
そう言う正直なところがあるので、普通の人が言うと歯の浮きそうなセリフでも史也が言うとなぜか事前に受け入れることができた。
心地よい春の風に乗って桜の花びらが電車の窓から史也のもとへ舞い降りてくる。
発車のベルが鳴り、電車が動き出す。
史也が窓から手を差し出す。
「元気でな。着いたら手紙を書くから」
差しだされた手を真弓は両手で握り締めた。
「里中君こそ元気でね。東京の女の子に騙されないでね」
そう言うと、真弓は窓に顔を近づけ史也の唇にキスをしようとした。
徐々にスピードを上げる電車が、あと一息のところで史也の唇を引き離して行った。
真弓は転びそうになり立ち止った。
「大丈夫か?」
窓から顔を出した史也がそう叫んでいるように見えた。
真弓は頷いて笑顔で史也に手を振った。
やがて電車は桜のトンネルの中に消えて行った。
真弓は電車が見えなくなった後もしばらくホームに立ちすくんでいた。
頬には幾粒もの涙が溢れていた。
「なんでだろう・・・ 悲しいわけじゃないのに。ちくしょう!悔しいな・・・」
史也が乗った寝台特急が東京に着いたのは翌朝の午前中だった。
ホームには下宿先の主人が迎えに来ているはずだった。
電車がホームに入ると、史也の名前を書いた紙を持ってホームに立っている男の姿が電車の窓から見えた。
電車を降りると、史也はその男の所へ歩いて行き、おじぎをした。
「里中です。宜しくお願いします」
男は頷いて史也の方に両手をおいた。
「よく来たね。遠いところ大変だったろう? じゃあ、早速行くとしよう。今からなら、昼飯に間にあるからな。うちのヤツがメシの支度をして待ってるはずだ」
史也は男と一緒にオレンジ色の電車に乗り換えて30分ほど行った駅で降り、更にバスで15分ほど行ったバス停のそばにある下宿先に到着した。
木造の2階建てで、外装が直されたばかりのようで、割ときれいな建物だった。
その建物を前にして、史也は胸が高鳴るのを感じた。
「ここから僕の新しい生活が始まる・・・」