あの夏の菖蒲─あやめ─
昔、十年も前の高校時代に好きになった女にばったりと出会した。
一瞬目があったけど、少し先に彼女が目を反らした。
俺は“トクン”と鳴る自分の心臓の音がやけに大きく聞こえ、慌てて後から視線を落とした。
距離は十数メートル……。
普段着の彼女を見るのは初めてだった。が、十年の歳月に蝕まれないその姿に記憶が夏の匂いに連れ込まれ、鼻孔から脳へ行き届いて行くのがわかった。
記憶は思うより簡単に……取り出せた。
昔知らぬ間に好きになっていた人に、街で偶然出逢った。
一瞬目があった様に感じたが、あまりの唐突な出逢いに驚いて自分の今の服装が気になり、少し慌てて目を反らしてしまった。
慌てて彼を見直した時には、もう彼の視線は私から外れていて、懐かしい空気だけを私に送っていた。
十数メートル離れた場所にいる彼……。
六月の雨は私と彼の間にシトシトと降り注いだが、彼を見据える事は訳がなかった。
視界に蘇るあの頃の光景。
間に降る雨が簡単に記憶を回復させた。
あの頃の俺。
真夏のグラウンド。
普段は気にも留めない校舎の階段は、グラウンド側に設置されていて、ガラス張りの踊場からは立ち止まればグラウンドが見渡せた。
あまりの疲労に天を仰ぎ、息を切っている時に視界に入った三階の踊場。
一人の女がガラスに寄りかかり、グラウンドを見下ろしているのが見えた。
気にも留めず、汗だけTシャツで拭って走り始めたあの時から始まった記憶。
あの頃の私。
放課後の階段。
学生時代の放課後は、何だか寂しい様な感じがしてあまり好きじゃなかった。
出来るだけ他の生徒達に紛れて早々に帰宅する毎日だったけど、その日はたまたま居残らなければならなくなり、静かになった教室を後にした。
西日が差し込むガラス張りの階段。
やはり静かなその階段から見渡す景色もまた、いつもとは違って見えた。
耳に心地良い部活動のかけ声。
活気に満ちたグラウンドに新鮮さを覚え、足を止めたあの日の光景。
俺の居るグラウンドからはガラス越に立つ人の姿がいつも良く見えた。
時折試合等をしていると、階段の踊場に立って観戦している者も居たが、放課後の抜け殻の校舎の雰囲気の中、一人見下ろす彼女の姿が印象的だった。
視線を逸らし練習に臨むものの、何故か気になり何度も見上げた階段。
彼女の事は知っていた。
同じ学年で……名前は知らない彼女。
私はあの時もふと、誰かと目があったような気がした。
あまりに距離があるせいで目があったかどうかはわからない。ただそんな気がしただけ。
沢山の生徒達の中で、目で追うターゲットを見付けるのは容易かった。
一番大きな声を出し、所狭しと走り回る彼。
時々天を仰ぎ、その度に目があう様な気がした。
彼の事は知っていた。
同じ学年の……名前は知らない彼。
彼女が誰を見ているのか何て俺にはどうだって良かった。
初恋なんかじゃなかったけれど、何だか憂いの雰囲気を持つ“凛”とした姿が綺麗で……、練習の合間に見とれていただけだったのかも知れない。
ただ毎日、放課後に三階の階段を見上げる事が何だかエネルギーになり、同時に少しのときめきを感じていた。
グラウンドと階段の遠い距離で感じる片思いに似たときめき……。
たまに廊下なんかですれ違うと、俺は一人照れながら連れとの会話で気持ちを反らしたよな。
彼は私が目で追ってる何て事、まったくしらないんだろうな……なんて思いながら、毎日“彼”観察するのが楽しかった。
初恋なんかじゃなかったけれど、何だか真剣に何かに打ち込む姿が逞しくて……、辛そうに息を切っている泥臭さが格好良く見えて。
ただ毎日、放課後に三階の階段に立ち止まりながら何だかエネルギーを貰って、同時に少しのドキドキを感じていた。
グラウンドと階段の遠い距離で感じる片思いに似たドキドキ……。
たまに廊下なんかですれ違うと、私の胸はキュンとしながら、私に目もくれない彼をやっぱり目で追っていた。
最後の部活の日。
いつものように彼女は階段の踊場、俺はグラウンドから見上げた。
あの時も雨が降っていたけれど、何だか初めて……数十秒、彼女と見つめ合った気がした。
目を反らす事も忘れて、彼女が誰を見ているのかも知らず、こっちを見ているような気がして……、ただ彼女と見つめ合った気になれたあの瞬間。
雨が光を折り曲げて、俺の視線を彼女が感じたのか、それとも、光が彼女の視線を俺に届けたのか……
想い出はグラウンドを去る事と共に胸に閉じ込めた、瞬きを惜しむあの一瞬。
最後に彼をグラウンドで見たあの日。
いつものように彼はグラウンド、私は階段から見下ろした。
あの時も雨が降っていたけれど、何だか初めて……数十秒、彼と見つめ合った気がした。
目を反らす事も忘れて、彼が何を見ているのかもわからず、でもこっちを見ているような気がして……、ただ彼と見つめ合った気になれたあの瞬間。
雨で汗を流して、疲れを癒やしながら見上げた視界に私が邪魔をしたのか、それとも、傘を持たず放課後に立ち往生した女生徒に見えたのか……
想い出は次の日からグラウンドを去った彼と共に胸に閉じ込めた、まばたきしても瞼に映るあの一瞬。
初恋でもなく、真正面からぶつかった恋愛じゃなかった。
ただふいに視界に現れた、何でもないただ心を惹かれた淡すぎる片思いだった。
放課後の階段。
そこに彼女が存在する事でときめき、俺はいつも汗臭いウェアを着ていて……
いつも距離のある会話の無い対峙。
でもそこにあったのは、あきらかに“恋”だったのかも知れない。
ああやって、憂う彼女を時折見上げる事のなくなった後も、彼女は誰かをあの階段で見続けていたのだろうかと……
自分の居ないグラウンドを見下ろす彼女を見たくない一心でいつも避けた放課後の三階の階段の踊場。
淡い片思いは記憶の中だけで育ち、卒業を迎えた形にならなかった恋愛。
ドラマや映画、小説のような素敵な物語なんかじゃない。
ただふいに視界に現れた、何でもないただ心を惹かれた淡すぎる片思いだった。
放課後のグラウンド。
そこに彼が存在する事でときめき、私はドキドキしながら、目で追いながら、手すりを握りしめた……
いつも距離のある会話の無い対峙。
でもそこにあったのは、あきらかに“恋”だったのかも知れない。
ああやって、駆ける彼の懸命な姿を時折見下ろす事のなくなった後も、彼は何かにまた夢中になっているんだろうかと……
彼の居なくなった放課後のグラウンドはまたいつもの日常に私を戻し、忘れる事のない映像は二度と見れなくなった。
淡い片思いは記憶の中だけで育ち、卒業を迎えた形にならなかった恋愛。
今の俺。
十年振りに彼女と対峙している今の俺。
反らした視線を戻す事の出来ないままに、俺の事等気にも留めない女の横を静かに通り過ぎた。
大人の女の匂いが雨の匂いに混じって、あの頃の記憶と重なった。
傘を持たない俺の濡れた黒いスーツ。
胸のポケットには白い粉。
十年の歳月は、俺を数年間“塀”の中に閉じ込める程に変えた。
金と女と薬に夢中になった今の俺に、もう一度彼女を見返す事は出来ず、今までで一番近くまで近寄り、そのまま一番遠くまで離れた。
今の私。
十年振りに彼と対峙している今の私。
服装を気にしている自分が可笑しかったけど、再び見返す事は出来ないままに彼の横を静かに通り過ぎた。
彼のコロンの匂いは大人の男を連想させ、あの頃からの成長を感じさせる。
傘を持たない私の濡れたコート。
濡れているのはコートだけじゃない。
十年の歳月でどれ程体を金に変えてきただろう。
たった数十分前まで男に跨り、受け取った札をしまった財布を気にしながら、俯いた私に彼は見れない。
俯きながら通り過ぎた時、零れた涙は雨が味方をしてくれた。
何でもない。
どこにでもある
淡い恋心。
何でもない。
どこにでもある
人生の経過。
二つの“片思い”は
そうやって通り過ぎ、
またこれからの
一歩に変わった。
六日の菖蒲【むいかのあやめ】
時期を過ぎてしまい、使い道の思うように行かなくなったものを例えてこう言う。
【完】




