【愚者編】6
「クソッたれ! なんなんだよ!」
落下した後、痛みが頭を支配するより怒りの方が先だった。俺の中で絶対に許せない二人として魔女レイレナードと村長のデュランが上書き記憶された。俺を不幸にするためだけに手の掛かる事をしてくれたレイレナードは絶対に泣かす。俺を騙してこんな穴に突き落としてくれたデュランは絶対に土下座させる。そう心に誓った。
だが、どう見てもそれができそうにない。
魔壺の谷……深い。深すぎる。何百メートルも先に光が見える。地下鉄でもここまで掘らない。逆にどうやってこれほどの深い穴を作ったんだ。
よじ登っていく気力もわかない。いや、疲れを知らない今の俺ならもしかしたら行けるか?
「ねえねえ。先客にあいさつはないのかい?」
そこに誰かいるとも思わなかったので驚いた。
今は丁度、月明りが偶然にもこの谷の底まで届いていた。彼女の姿はおぼろげだがしっかりとわかった。
身長は一五〇も無い低身。その上、不健康だと思わせる程の細身。
煽情的というか、体のラインのハッキリするノースリーブのジャージみたいな服を着ている。そして腕や足は包帯の様な布を巻いている。
白い髪の女だ。目は真ん丸として煌々と輝く赤色だ。
そしてその顔は恍惚と輝いていて不気味だった。
まるで落ちてきた獲物を狙う獰猛な妖怪だ。
「……お前、なんだ?」
「『何者だ?』ではなく、『なんだ?』か。もしかして人を化物だとでも思っているのか。それは心外だな」
彼女は一瞬むくれたが、しかしすぐにそんな事を忘れて笑ってコチラに近寄ってくる。外見の不気味さとは裏腹に、好奇心の塊の様な態度にどうにも毒気を抜かれる。
「キミも【魔壺の谷】に落とされたのならわかるだろ? 私たちは同類だと思うよ」
「同類……じゃないと思うけどな」
「ふぅん? なんか色々と訳ありって顔してるね」
「わかってくれるか?」
「うんうん。わかるよ」
なんか心の中で彼女の株が勝手に上昇してきた。そこでやっとブレーキが掛かった。ついさっき、デュランの奴に抱いた感情と同じだ。なんで名前も知らない奴のことを信じてしまうんだ。ちょっとくらい成長しろよ。
「ええい、俺にすり寄るな! もう同じ手は食わんぞ!」
「うん? なんのこと?」
「俺は学んだんだ。お前の様に頼りになりそうな雰囲気して近寄ってくる奴は詐欺師だってな!」
「あーなるほど。確かに弱った心の人間は御しやすいだろうねぇ。で、キミはコロッと騙されちゃった感じか」
「わかってくれるか?」
「うんうん。わかっちゃったよ」
そうか、わかっちゃったか。なんか思ったよりこの女、優しいな。
しかしその可哀想な奴を見る眼はどうにかしてくれないだろうか。それならまだ最初の喜々とした表情の方がマシだ。
「ねえ、キミ。名前はなんていうの?」
「いきなりだな。それよりお前が何者なのか先に答えてほしいんだけど」
「いきなり話してもいいんだけどちょっと長いかもだしねえ。先にお互いの名前くらい聞いておきたいだけだよ」
「長いのか?」
「短くしてほしい?」
「俺、人にはせっかちって言われる」
「んじゃ短めにするから名前教えて」
「おう」
……あれ、なんかおかしいな? 結局先に名前いう事になってる。まあいいか。
「明坂大智。一応先に行っておくけど、大智の方が名前な」
というと、彼女は面白い程いい表情をした。それは悪人が見せる怪しげで恐ろしげな笑みだ。名前ひとつでどんな恐ろしい妄想をしているのだろうか。逆に気になる。
「ナクアテッドだ。ナクアって呼んでよ」
彼女はニッコリと最上級の笑みを浮かべて、俺を戦慄させた。
「ナクアって蜘蛛女――ッ!?」
思いだした。その名を聞いただけで簡単だった。
十三魔人将のナクア……。
蜘蛛の魔族。十三魔人将の中でも最古参と言ってもいい人物だ。というのも【異世界戦線日記】の中で序盤から登場した存在だからだ。
「……その名で呼ぶ奴は私の敵だけだ。どこでその名を?」
彼女――ナクアは明らかに機嫌を害していた。マズイ。
いきなりで状況を逃してしまいそうになる。落ち着かなければダメだ。
この降って湧いて出たチャンスを絶対に逃してはならないのだ。
「その前に一つ。はっきりさせておこう。このままじゃ誤解を生みかねない。そしたら俺達は互いにいい関係を築けなくなると思う」
落ち着け。俺も、ナクアも、落ち着いてくれ。チャンスはピンチである。この好機を逃してはもう二度とない。
「うん。そうかもしれないね。分かった、大智君の言い分を先に聞こう」
「ありがとう、助かる」
彼女は一旦矛を収めてくれるように、言い寄るのをやめてくれた。
よかった。彼女との協力関係を失うのは今後絶対によくない。むしろ彼女こそ俺にとっての女神と言ってもいい。
「で? 何を話してくれるのさ?」
「俺の目的と、俺の背後に居る奴の目的だ」
「……続けて」
なぜならナクアは――
「俺の目的は、元居た世界に帰る事だ」
――異世界を越える術を持っているからだ。