【愚者編】16
目覚まし時計がけたたましく朝を知らせる音がする。
『……あれ?』
目を開けると、自分の部屋にいた。いや、最初から部屋にいたのだったか。
長い、悪い夢を見ていた気がする。などと、言うつもりはなかった。何故か、ハッキリと思い出せる。嘘みたいに何度も死んで、痛みのともなう夢だった。
『死んだから、目が覚めた? おいおい、不死の呪いってまさか回数制だったりしたのか? あっけない』
いや、あんなの出来の悪い夢だ。自分の書いた小説に自分が迷い込むだなんて、ただの俺つええ系の創作物の妄想じゃあないか。いや、多大に己は弱かったが。
気を取り直して、部屋を出る前に着替えてリビングに向かった。
そこには見慣れた、会話のない家族の風景があった。
食事は各自用意、誰かが一緒に同じ行動をしないように、父も母も自分も、別々の行動をおこなう。
父はインスタントの何がしを食べ、母はパンにジャム、俺は冷蔵庫を見て、昨日の晩ご飯の残り物を電子レンジで暖めて部屋に持って帰って食べるのだ。
これが、我が家の日常だった。
いつ頃からだったが、父と母の関係が険悪になった。俺もどうしてか、両親に苦手意識を持ってしまい、どう接していいか分からないまま、気がつけばこんな感じだった。
千円札が二枚、毎日俺の席に置かれていて、たぶん二人とも別々に置いてるんだろう。
『いただきます』
欲しいものは、安寧だった。そんな気がする。いまでもそれはココにある。でも、何故だろう。
本当に自分はココにいるのだろうか。
自己の存在への確証が、よくわからなかった。
『ご馳走様』
口に出すこと全て独り言のようで、外にでれば友人が待っている……というわけでもない。
俺は、どこにいても、何をしていても、自分がこの場所に居て良い権利がない気がした。
リビングに戻ると、そこには誰も居なかった。
どこかへ行ったんだろうか。
『……誰がだ?』
おかしい。ここに誰が、居たんだ。そんな疑問が浮んだ。
確かに、覚えているはずだった。ぼんやりとした者が、確か二人、居た筈なのだ。その証拠に、ポケットにしまった千円札は、二枚存在していた。
手にとって、目を見開いて、千円札を取り出してみた。やはり二枚存在した。
『どう、いうこと、だ?』
わからない。わからない。わからないけど、これはまずい気がした。目が覚める前の悪夢を、俺は鮮明に覚えていた。
焦りを感じて、気がつけば走り出した。玄関を開けて、とにかくどこか遠くへ、いいや違う。自分が、本当はどこにいるのかを知る必要があった。
玄関を潜った先には外ではなく、白と黒の垂れ幕が壁を囲んだ和室だった。見慣れたわけでもなく、人生でたった一度だけ訪れたことのある場所だった。
葬式場である。
『うそだ』
そこには、一人の男の写真が、目に入ってきた。
赤子の笑い声が聞こえてくる。翻弄される俺を見て、両手を叩いて笑っているのだろうか。そんな光景が目に浮んだ瞬間、全てを悟った。
『ここは、俺の記憶? じゃあ、さっきのリビングは、俺の家? 部屋? な、なんだ。だんだん、わからない……いや、思い出せない?』
怖くなって、握り締めていた二枚あったそれを見ようとした。だが手に握っていたはずの、二枚あったはずの何かは消えうせ、触手と目玉がニヤリと嘲笑っていた。
『ウワアアアアアッ!?』
消されている。記憶が、思い出が、知人が、あの化物に、奪われている。
『なあ、大智』
突然、周りの空気が死んだ。
俺の目が、耳が、心が、全力で名前を呼んだ存在に向けられた。
そこに立っていたのは、写真に写っていた人物その者。
兄さんだった。
声が出なかった。大好きな兄、尊敬する兄、背中を追い続けた兄、かっこいい兄、憧れの兄――もう死んでしまってこの世に居ない兄。
その背後に、不気味に笑う、あの赤子地蔵が口をあけて嗤っていた。
直後、走り出した。
忘れたくない。絶対に忘れたくない記憶から逃げ出した。
『嫌だ、嫌だ、嫌だ‼』
訳もわからずに逃げ出した。その場にとどまれば記憶から消え去ってしまいそうだから。
だが走り出したと思えば、今度は四方を壁で囲まれた場所に自分が呆然と立っていた。
目の前にはパソコンがあり、長文が随分と綴られている。ファイル名には堂々と『異世界戦線日記』と題されていた。俺が書いた小説。
俺が初めて書いた空想物語。拙い文章、間違った文脈、訂正されていない文字。情緒的で意味不明な造語。
人が目を通せばなんと御粗末な代物だろうかと嘆くことだろう。
俺自身、そう思う。こんなの、中身のない、ただ主人公が暴れただけの、無価値な小説――
『……なんで、なんでさ』
体から震えが止まらなくなっていた。
『どうして、こんなの、書いてたんだっけ』
目の前のパソコンの文字が、グニャリと溶けた。目に溜まったモノが落ちていく。
「思い出せ」
どういうわけだか、今頭の中では、あの赤子地蔵に記憶を奪われることなどよりも、目の前にある駄作小説を自分が何故書いていたのか。その理由を思い出していた。
「人は皆死ぬ。生きる為に生まれたのではない。死ぬ為に生まれたのだ」
誰の言葉だ。誰でも言いそうな言葉だった。でも俺が初めて聞いたのは誰だったか。
『なあ、大智』
兄の声がする。
「『人生ってのはどう生きるかじゃねえ。どうやって死ぬかだ。そこさえ決まってりゃあ生きるのに迷いはねえ』」
『日記』の一文目はその言葉で飾られていた。




