第05話 夜間会議――(2)
公妾イグレイン・ワームは、生涯遺恨の念を抱きつづけたが、決して後悔はしなかった。
産声弱々しい赤子を生きるか死ぬかの賭けに投じるなど、気狂いのすることだ。己の地位が脅かされて日陰者になろうが、下卑た噂話に苛まれてもなお、この判断は間違っていなかったと胸を張れる。
彼女にとっては妾腹である第二王子リチャードが、次期王太子の位から失墜したことは清々しいことだった。かたや儀式をおこない、かたや儀式をおこなわず。王家の伝統儀式など、なんの意味もなさなかったのだと、答えがだされたのだ。
「ああ、胸のすく思いだわ。あの子が、王になれないなんて」
「そろそろお開きにしませんか、私はもうずっと前から眠くてしかたがないので」
「ふふ、お前の弟は、なんてかわいそうなのかしら」
「はあ……もう眠ってください、母上」
安楽椅子の肘かけで、美しく乱れた髪にうつ伏せた彼女、イグレイン・ワームは微睡みの中にあった。
息子の第一王子クロスは、兄弟の会話もそこそこに自室へと退いていた。母親が訪れることを予見していたのだ。事実、彼女は葡萄酒を煽りながら、祝杯をあげんとして大杯を持って現れた。
その姿は普段の理知的な雰囲気からはみる影もなく、おそろしく草臥れていた。今は意識朦朧、管を巻きながら安楽椅子に腰かけて、静かに頭を垂らしている。
「わたくし、何故こんなところに嫁いでしまったのかしら」
「さあ? 王に望まれたのでしょう?」
「そうなの、あの人ふたまわりも年下の小娘にむかって――顔が好きだって」
彼女は身体を震わせて笑いはじめた。ひとしきり身悶えてから脱力すれば、乱れた髪の隙間から、息子である第一王子の、王にそっくりな瞳をみつめて、うわ言ように呟いた。
色恋艶事に無頓着、無関心を貫いていた晩生の王が、はじめて求愛した娘こそ子爵令嬢であったワーム家の彼女、イグレインであった。
身分差は雲泥万里であったが反発する者は現れず、トントン拍子にことは運ばれて、求愛から三月もしないうちに、彼女は権謀術策たちかわる王家の基盤、宮殿へと身一つで飛びこんだ。
ワーム家は新興の官職貴族にすぎなかった。家系を潤す領地をもたず、上流階級の社交など構いなしに勉学に励んで、奸計を働かせ議会の席を与えられた一代貴族の傍系であった。イグレインはワーム家の末娘として育てられた。
彼女は狡猾な父母に似たもので、一見凡庸であっても感は鋭く、家の階級にふさわしい立ち位置、分相応を理解していた。
いっそ社交界など興味なければ良かったが、イグレインは教養がある集団、美しく着飾った女の集まりを眺めるのが特別好きだった。
幼少期はまだしも、デビュタント(社交界に参加)を済ませて以来は壁の花に努めていた。彼女は道理をわきまえて、悪戯に目立たず卑屈にならず、交流するのも同様の家の者だけにとどめて人生の舵をとっていたが、しかし運命は彼女に夢をみせてしまった。
多感な年頃、十五歳の誕生日に王じきじきに乞われたのだ。
ずっと気になっていたと。
壁の花とはよくやったものだ。数多の貴族令嬢に笑われもしたが、それは嘲笑の部類であって、非難めいた声をあげる者はいなかった。かつて王妃の位を夢みて諍いあった貴族令嬢らは、大昔にとうがたって他家に嫁いでいた。孫までいる者もいた。つまり王は親子ほど孫子ほど年の離れた男であった。
もうずっと昔から貴族らは王家に御子を望んでいたのだが、しかし公然としてラングリー家との確執、継承順位に関して火種を抱えていたため問題視する建前もできず、便宜上の縁談話をくりかえして今日まできた。
王には王の理想があり、議会には議会の理想があって、折りあいつけるには丁度よい、ということであった。
「わたくし望まれて貴方を産んだのよ」
「ええ、わかっていますよ」
「だから、天が罰をくだしたの、あの女とあの子に」
第一王子は、管を巻きながら眠りに沈んでいった母親を寝具に運びこんで、そうしてやっと一日を終えることができた。
空いた安楽椅子になだれこみ、窓辺からさす薄明かりに肩を落として息を吐けば、何処からともなく釣鐘をうちならす音が聞こえてくる。朝が来てしまった。
しばらくして公妾仕えの侍女が二人、衣擦れもさせずに現れた。死体がごとく運ばれていった母親の姿勢をみて、我知らずに笑い声を漏らしてしまった第一王子は、己自身をも嘲弄した。
親の因縁に板挟み。愚痴を聞かされ完徹。
なれど、次期王になれとは、ついぞ言われなかった。
次期立太子の失墜を企てた者は、得られぬものは奪いにいくしかないと、見本のとおり唾棄すべきことを容易くおこなってくれた。彼らは野蛮な帝国史に名を残すため、ずっと躍起になっている。今後おこりうる面倒事を顧みずに。
第一王子は思い悩んだ。疑われ嫌われ罵られる御位だ。そこに自由はない。
王家であることに一体どれだけの価値があるのか。
すると弟リチャードは幸運だった。奸計の貴族らに諭され弓ひかねば、生涯を煩わされず一切が自由になる。王家から廃嫡されたわけではないが、それは、しがらみから開放されたと同義でもあった。
これで良かったのかもしれない。そう思えば幾らかは心持ちまともになれる。
ただただ、兄にとっては人生翻弄されっぱなしの、哀れな弟にすぎないのだ。
「しかし――弁当持参とは……おかしい子だな」
価値を失ったところに降ってわいた怪しげな娘、ヘーゼル・ミュレックス。アルゴード家、アルブ家、ミュレックス家、この新たな御三家が、新たな火種を呼ばなければいい。
願わくば間者でないことを、第一王子は祈るばかりである。
こうして長いながい夜が明けていった。