第03話 王妃にふさわしい
宵闇、王城内に設けられた宮殿の私室にて。高台に設けられたねぐら、窓辺の縁に腰かけた第二王子は、眼下に広がる帝都の光を、じっと見つめていた。
遠目の視界には映らないものがある。彼は朧げな記憶を手繰りに、自身の軽はずみな理想を自省した。
改築が繰りかえされる古い家。ひしめきあう狭苦しい路地。河川に繋がれた大小の漁船。酒宿の残飯をあさる野犬。橋桁を宿屋根する浮浪者。夜の帳、腕を絡める男女は夫婦ではない。
帝都の様子は、見張るものがいなければ、不埒者が指揮権を握る。昼と夜で怖ろしく違う。しかしそれは都だからこそ。地方の都市におもむけば戒律などあってないようなもの。
第二王子はもともと、土地を管理して人に礼節を与えることが、昼と夜、その差を埋めるために必要なことだと考えていた。実際、貴賎の垣根をなくした学園には、成績優秀者を頭において、学業の結果における平等の自由が敷かれていた。
しかし、貴族の学窓とされる高等院の校舎には、庶民出の生徒は一歩たりとて踏みはいることはできなかった。許されている許されていないに関わらず、そこには強固な身分差があって、上のものが下のものに罰を与える習慣が、表立ってまかり通っていたのだ。
「私には理解できません。いったいなにが違うというんです。性別ですか、それとも顔の良し悪しですか、。そんなくだらないもので責められるならまだしも、私が誰の腹から生まれたことって、そんなに悪しきものなんでしょうか。この床をふむのだってただの靴底のなめし革ってだけです」
「忌々しい……その考えを口にすることこそが愚かで恥知らずだってわからないのか」
「おっしゃりたいことはわかります。私がしたことで他の平民の生徒を、だから礼儀がなっていないのだと、そう責めたいのですね。そしてその可能性を考えずに仲間をまきこんでこんなことを、貴方たちの領分であるこの校舎に踏みはいってわざわざ発言していることが、愚かで恥知らずだと」
「わかっているなら早急に、その頭を下げて腰を低くして、我々の目の前から消えてしまえッ」
「いいえ。この校舎を通りぬければ学長室にいちばんはやく着けるのです。先生は私にお話があるのだといって呼び出されました。私がこの学園で誰かのいうことを聞くとすれば、それば尊敬できる方々以外にありません」
「なんだと……それはどういう意味かッ!」
「私は貴方の命令には従えません、パース・トリテミウス様」
第二王子が元恋人の娘と出会ったのは、娘が高等院の校舎に迷いこんだことからはじまった。
喧嘩を売られ買ったという騒動に、急いでかけつけた彼は、それを諌めた。亀裂を生まぬよう、事を荒立たせぬよう。同じ人間なのだから憎みあわずとも話しあえば理解しあえるはずだと。
心のうちではそう思っていても、立場上それを軽はずみに口にすることは、どうしてもできなかったが、思いはひとつだった。
第二王子は娘の言葉に感じいるものがあった。
たしかに、くだらなさで言えば、靴底に違いなかったのだ。
貴族の筆頭である王族、第二王子である彼が、娘を学長室まで送りとどけることで騒動はひとまずの収まりをみせた。
勝負をしかけたわけではない。口喧嘩ともいえない。しかし娘が長スカートをひるがえして高等院の廊下を歩く姿は、相手方を屈服させた、そう言わんばかりに勇ましかった。本人はいざ知らず、騒動を傍観していた貴族生徒の目には、そう見えるのだった。
「リチャード様は怒らないのですね」
「ああ……学園の理念に反することでもあるし」
「そうですか……でも本心は? 私の存在は卑しくありませんか?」
「まさか。どうしてそんなこと……、いや私は君に反省をうながすべきだったな」
「すみません。わかっています。それに一応反省はしています。ただ今日は――無性に腹立たしかったのです。この道を通るなといわれれば通りたくなる。話しかけるなといわれれば話しかけたくなるものでしょう。たいがい人って理性で踏みとどまっています。でも無理な時がある」
「言いたいことはわかるよ」
「ええ、だから今日の私はたしかに愚かでした。あの男を怒らせることが、目的だったのです」
「パースを? 君たちは顔見知りだったのか」
「はい。私は庶民出の娘、父は爵位持ちの貴族ですが、同じく尊い血が流れてるとは思えません。卑しい男と卑しい女が契約をやぶって子をなした。それだけで罪深いとパース様は言いたいのですが、まさか大衆の目前で口にできるはずもなく。幼馴染である彼は底まで意地悪くはないのです」
「そうだったのか。しかし昔からの知りあいで、あの言いようとは……」
「それは、ただただ身分をわきまえず、貴族社会の既成観念を疎かにして馴染むどころか切り崩しにかかっている、そんな私が哀れでしかたないのでしょう。それが怒りに転じているのだと、私は彼のことわかっています」
「では本来の君たちはお互いをよく知っているのだな。パースは君のために叱りつけたのか」
「そうですね。ですから、さっきの口喧嘩はなんの意味もないただの日常のひとつです。見物されていた方々はたいがい私を、ルール知らずの思いあがった侵略者だと思われたでしょうが」
「いいや。敷かれた道の上、違える者同士がしんに理解しあうのは難しいことだ……けれど君がいうように、私たちの靴底にはなんの違いもないな」
「…………」
「だから私は君の考えを尊びたい。が一生徒としての矛盾も抱えている。心苦しいことに私は君を責めるべき立場にあるから」
「リチャード様……」
「それでも……今は無理でも私たちはきっと理解できる。そう強く願っているよ」
「ありがとうございます……私、リチャード様の、貴方様のお心が本当にうれしいです。こんなことってなかなかない。私たちってもしかして、同じ夢をみているのかもしれませんね」
娘の無垢な微笑みに、第二王子は夢をみた。不屈の精神をもった理想がそこに体現している。貴族の妾腹でありながら平民であることを貫いた娘が。人は生まれによって卑しくなるのではない。必要なのは両者がそうと知っていることなのだと。
彼は熱に浮かされた。関係を深めるのも早かった。
舞台が整いすぎていたのだ。
つかず離れず語らいつづけた。理解ある婚約者。周囲の応援。不思議なことに、彼らを諌める者、咎める者はでてこなかった。
誰もが羨望の眼差しでメリジューヌ・アルバニーを見つめていた。王族の相手に遜色なく不足なし。媚びるのもやぶさかではない。きっと王妃になられる。
ただし前提となる次代の王座は、この時点では誰とも決まっていなかったが――。
しかし誰もが口さがなく噂した。第二王子は兄たる第一王子を退けるだろうと。
第二王子は一連の出来事を反芻させて大きな溜息をついた。エントランスガーデンの制裁によって彼らが夢みた道は完全に違えていた。しかし極々近況のことであるので、ぼうっとした瞬間にとめどなく蘇るのだ。
短けれども満ちたりた日々は、今もなお哀愁ただよわせて、胸をするどく突いた。第二王子は過去への妄執を振りきるように目を伏せる。
その時、ガチャリと、合図もなしに私室の扉が開かれた。
「リチャード、話があるんだって?」
「兄上、お呼びだてして申しわけありません。お疲れでは……」
「いいや。それに、最近はろくに喋っていなかったからね、寂しかったよ」
宵闇に忍んで現れたのは、兄たる第一王子、その人であった。