商人の生活・2
炎が家屋を舌先で掠めるだけで、乾いた木材でできたそれはあっという間に燃え盛り、目も開けていられないほどの熱を浴びせる。
村を守る為立ち向かったフェルパーの戦士達の鬨の声が、少しずつ少しずつ、悲鳴に塗り替えられていくのが耳に届いた。
一面が赤く染まる。炎が村を包む。フェルパーの戦士達が次々と人間の振るう凶刃に倒れ、矢に射抜かれ、魔術に貫かれ崩れ落ちていく。
その光景を、ルナは足で踏みつけられ、地面に顔を嫌というほど押し付けられたままの格好で眺めることしか許されなかった。
「フェルパーなんぞ掃いて捨てるほど居る。一匹で十分だ。管理も楽じゃないしな」
頭の上でそんな声がする。自分を捕らえた『亜人狩り』の首領らしい男だ。
やめて、とルナは力の限り叫ぶ。仲の良かったフェルパーの首が切り裂かれ、血飛沫を上げたのが見えた。
「そりゃあ無理な相談だ」
男の嘲笑が返ってくる。それでもルナは何度も叫んだ。この惨劇を止めてほしいと、惨劇を引き起こした張本人に何度も訴える。
「止めてどうなる? それで俺達が何か得をするのかね、お嬢さん? しないだろう。それにうちの連中ときたら殺すのが好きな困ったやつばかりなんだ。たまには発散させてやらんとな――」
その時、こちらに怒号を上げて向かってくる一匹のフェルパーが見えた。
「その子を離せェェッ!!」
そのフェルパーのことは、ルナが誰より知っていた。
怒りに目を血走らせ、今まで見たこともないような恐ろしい表情を浮かべたフェルパーは風を切るがの如く男へと肉薄し、鋭い爪を剥き出しにして振り上げた。
同時に男が大剣を抜き放つ、冷たくぞっとするような音がした。
「やめてぇーーーっ!!」
勝負は一瞬で決着がついた。
ルナの目の前に、ごとりと首が落ちてくる。目を見開いたままのそれと目があった。
「お、かあ、さ」
母親の首だった。大粒の涙がぼろぼろと零れた。
「娘のために勝てもしない勝負を挑む。泣ける話じゃないか? ちょうどいい、ご対面だ。母親に別れを告げておくといい。まぁ聞こえてるかどうかは知らんがね。ははは」
「あ……あぁ……おかあさっ……おかあさんっ……!」
もう村の中に生きているフェルパーは居なかった。無理矢理に引き起こされ、下品な笑みを浮かべてこちらに集い始める醜悪な男達を前に、少女は何度も首を横に振る。
「やっ……! いやっ! いやぁっ!!」
「そしてようこそ。今日からお前は俺達の所有物だ。歓迎しようじゃないか。ハハハハハッ――!!」
勝ち誇った笑い声に、醜悪な男達の勝利の雄叫びが村を埋め尽くす。
「わぁぁァァーーーッ!!」
ルナはそれらを掻き消し、目の前の現実を認めたくない一心で叫んだ――。
「――ルナ?」
「……大丈夫っ」
エリチェーンの言葉に我に返り、いつの間にか零れた涙を乱暴に拭い、ルナは目の前をきっと睨みつけた。
「アイツらは……全部で、16人。馬車を1台持ってた……。全員人間の男で、多分、リーダーは……」
その16人はルナにとっては憎悪しか向けられない。殺してやりたいほど憎い奴らばかりだ。
だが特徴となると、全員詳細に口にできる自信はない。
「……片耳の男、だった。おっきにゃ剣を使ってた」
しかし、唯一ルナの記憶にはっきり残っているものがあった。それがあの"亜人狩り"の長である男の特徴だ。
あの男には、片方の耳が無かったのだ。
「片耳の男。……間違いなく?」
「間違いにゃい。食い千切られたかにゃにかで、殆どかたっぽの耳が残ってにゃかった」
女性は真剣な顔つきで紙に何かを書いている。
しばらくして、女は顔を上げて言った。
「大変貴重な情報です。霊術による調査結果とも照らし合わせますが、おそらく、あなたの情報は正しいものでしょう。本当にありがとうございました。この情報は必ずや、成果に繋げてみせます」
「……よほど犯罪を重ねてきた男のようですね?」
エリチェーンの言葉に、女性は頷いてみせる。獲物を見定めた猛禽類の如く鋭い視線で、たった一言呟いた。
「――えぇ」
ハンターギルドを後にして、ルナはもう一度その建物を見上げた。
やはり中に居たのは尋常の者ではなかったような気がして、不安に眉をひそめる。
「エリチェーン……ここ、にゃんだったの?」
「ここはね、大きな犯罪を犯した連中を『狩る』人が集まる場所さ」
「『狩る』……?」
通りを行き交う人々を眺めながら、エリチェーンは言った。
「街中で犯罪を起こせば、殆どの場合すぐ捕まって罰を与えられる。だけど外となるとそうは行かない。現に貴女が暮らしていた場所が襲われたって話はやっと持ち上がったばかりだった」
同じ鎧を着た何人かが、街を颯爽と歩いている。彼らはこの街の兵士で、ああやって街を見回って異常がないかを確認していると彼女は教えてくれた。
「街の外で起きた事件は、街から遠ければ遠いほど発覚が遅くなるし、伝達も遅れる。……となると、その犯罪を犯した連中はとっくに逃げているだろうね。貴女を助けてもう一週間。事件はそれより前に起きている筈だから、逃げるには十分すぎる時間だ」
淡々と事実を告げられ、ルナは頭では理解できても納得したくなかった。
今すぐにでも奴らを捕らえて、相応しい罰を、死を与えてほしいと願っているのに。
「街の兵士もそいつらを追いかける訳にはいかない。彼らにとって大事なのは、街の中と、良くて門前市までの事件。人里離れた場所で起きた事件まで抱え込むことはできない」
悔しくて、ルナは俯いた。固く手を握りしめて、唇を結ぶ。
「……ずるい。アイツらは、ずるいよ……」
その躰を優しく抱きしめてくれる存在があった。他でもないエリチェーンだ。
「あぁ、ずるい。私もそういう連中は許せない。だからこのギルドがある」
ルナは、もう一度ハンターギルドの建物を見上げた。
「このギルドはね。そういう連中に賞金を懸けてくれるんだ。その賞金を目当てに、色んな人が追いかける。賞金首は生きていても死んでいても構わないから、殆どの場合殺されると聞くけれど」
「……ルニャの住んでたところを襲った奴らも……殺して、くれるの?」
その問いに、エリチェーンはしっかりと頷いてくれた。
「いずれ、必ず。……女神様は、そういう連中を決して逃しはしない。世界はそういう風にできてる。……だけど貴女には新しい生活が待ってる。だから、この話はここでお終いにしよう?」
真剣な表情で見つめていた彼女の顔が、綻んだ。
それは少し、寂しい笑みのようにルナには見えた。
「ん……」
完全に割り切ることなどルナにはできない。まだ自分の中ではつい昨日のことのように思えるほど鮮明に思い出せるのだ。
しかし、ここでぐずついてエリチェーンを困らせるのも嫌だった。
いつか必ず、自分の仇が討たれる事をルナは願い、もう一度ハンターギルドの建物を見上げる。
「頼んだ服がそろそろ仕上がってる頃合いだと思う。行こう、ルナ」
「……うん!」
それでひとまず気持ちに整理をつけた。
湿っぽい空気を吹き飛ばすように、エリチェーンの手をしっかりと握りしめる。
「おかえりなさいませ。ちょうど出来上がっていますよ!」
もう一度職人通りに戻って服を頼んだ店へ訪れると、店員の女性が待ちかねたように出迎えてくれた。
やっぱりそれは変な毛織物の布切れに見えたけれど、着けてくれた時にはしっかりと躰にフィットするレギンスになっているのだから不思議なものだった。
「うん、よく似合ってる。動きづらくもない?」
「ん……大丈夫。思いっきり走り回っても平気!」
軽やかに石畳を蹴ってステップを踏んでも、レギンスはしっかりと身についている。
その光景を見た店員の女性は自慢気に胸を張っていた。
「どうしてもフェルパーさんのレギンスは紐で結ぶ箇所が多くなってしまうので、最初は戸惑うかもしれませんけれど、着心地は最高であることを保証しますよ!」
「下着とレギンス、一人で履けるようになるまで練習だね。夜に教えてあげる」
「うん! がんばる!」
服屋の店員に礼を言って、ルナは下半身を包む感触を楽しむようにステップを刻みながら職人通りを戻る。
「……あっ」
その途中、ハーフリングの職人が必死に傷をつけていた板に見事な花の絵が完成しているのを見て声を上げた。
ひと仕事終えたといった様子で椅子に座ってのんびりしていた職人が、顔を向けてくる。
「悪いねー、それ注文された品なんだ。売れないよ」
「あっ。いやっ……出来上がったんだにゃあ、って」
「ん? 作ってるの見ててくれたの?」
「さっきここ通った時に、ちょっとだけ。……すごい、綺麗」
率直な感想を呟くと、職人は誇らしげに胸を張っていた。
「我ながらいい出来だと思うわよー。これならあのディオロード家だって満足するはずだわ!」
「誰が見ても大満足すると思う! すごいね!」
「こういうの好きでねー。もう30年もやってるのよ。でも流石に手こずったわね、今回は。納品したらひとっ風呂浴びたいわー」
職人に別れを告げ、一度宿に戻ることになった時にはもう、ルナの心は晴れやかだった。
図らずも職人通りでのこういった細かな出来事が、先程ハンターギルドの中でルナの心を蝕んだ悪い感情を洗い流してくれていたのだ。
宿に戻ったときはちょうど昼時で、ルナは食事を取ることになった。この一週間は部屋でエリチェーンが持ってきてくれる物を食べていたので、初めてこの宿の食堂兼酒場での食事だ。
広場で見たパンと干し肉にチーズがあまりに美味しそうだったから、それをねだってみるとエリチェーンは快諾して買ってくれた。
「……♪」
果たして口にしたその食事のなんと美味しいことか。初めて食べるわけではなかったけれど、適度な空腹と、頭の中でこれと決めた食事の味が期待通りだった時の感動はひとしおだった。
エリチェーンは控えめに食事を食べながら、微笑みながらじっくりと見守ってくれているようだった。
食事が済んで満足感にお腹を擦っていると、彼女が切り出す。
「とりあえず後は部屋を移って、荷物を整理したらもう一つ出かけるとしよう」
「今度はにゃにするの? ルニャ、がんばるよ!」
彼女は商人だとルナは聞いていた。彼女の下で働くとなると、数え切れないほどの修行がきっと待っているのだろう。
どんな修行だって熱心に取り組んで見せると、ルナのやる気は満ち溢れている。
「頼もしいね。けど、今度は頑張ることじゃないよ」
「頑張ることじゃにゃい……?」
「この一週間、躰はなるべく清潔に保ってきたけれど、それでも限界があったからね。ルナもちょっと気になってたんじゃない? だから、さっぱりしにいこう」
「んっと……」
今までは怪我の治療に包帯を巻いていたために、湿布の交換をする時にエリチェーンが熱心に躰を拭いてくれていた。
それでも申し訳ないことにルナにとっては物足りなかった。頭ももっとしっかり洗いたいし、体毛に包まれた下半身だってそうだ。
「さっぱりしにって、水浴びしにいくの?」
「いや、それよりもっと良いことかな?」
「お風呂に行こう、って言ってるのよ、エリチェーンちゃんはね。はい、どうぞ!」
「わぁ……!」
新鮮な果物を切り分けたものを載せた皿を持ってきた宿の主が笑いかけてきて、ルナは耳をぴょこんと立てた。果物は大好物だったのだ。
「これはお祝いよ! 怪我が治って良かったわね、ルナちゃん。それにすっかり元気になった! エリチェーンちゃん、いいことしたわね」
「ん、ありがとう。頂くよ」
「ありがとう! ……あ、えっと。お風呂、ってにゃに、エリチェーン?」
「簡単に言うと、暖かい泉さ」
「暖かい泉!?」
ルナにとって躰を清潔にする行為は欠かせないものだ。冬に差し掛かればみんなで水を汲んできて、湯を沸かしてそれを使っていた。
それは大変な労働だったが、それでも皆嫌がることなく熱心に湯を作っては躰を洗っていた。綺麗でなければ落ち着かないし、里にやって来る人間の男達との"取引"に支障をきたすからだ。
躰を清潔にすることは自分の住んでいた場所の発展に直結すると言っても過言ではなかった。
それがどうもお風呂とやらは、最初から温かくできている泉らしい。なんて素晴らしい場所だろうと胸が弾む。
「とっても気持ちいいよ。きっとルナも気に入ると思う」
「うん! 暖かい泉……えへへ。楽しみ!」
食事を済ませた後、ルナは一週間使った個室を引き払い、エリチェーンの案内のもと別の部屋に訪れていた。
そこは大部屋で二段ベッドが詰め込まれており、少し窮屈な印象を受けた。
「今日からはこの部屋で寝泊まりするからね。見ての通り一つの部屋にたくさんの人が入るから、今までの部屋とはちょっと雰囲気が違うかな」
「どうしてお部屋を移ったの?」
「答えは簡単。あの部屋は高いんだ。ちょうどこの部屋の倍、一人一泊1ゴールドさ。この部屋は一人一泊5シルバー」
"このベッドが私達に割り当てられたやつだよ"と示してくれたのは、ちょうど部屋の角に設置された二段ベッドだ。
エリチェーンは上の段のベッドに昇り、備え付けの長い箱の中に荷物を仕舞うと手招きしてきた。
招かれるままルナもベッドに上がり、座り込む。
「お風呂に行く前に少しお金の勉強をしておこう。簡単だからすぐ済むよ」
「う、うん!」
エリチェーンは掌の上に3枚の硬貨を乗せて見せてくれた。金貨、銀貨、銅貨だ。
ルナはそれを見るのは初めてではないが、その価値までは詳しく知らなかった。
よく見れば、この3つの硬貨は大きさも違っていた。金貨が一番小さく、銅貨が一番大きい。銀貨はその中間だ。
「私達の生活で使われているのはこの3つ、金貨、銀貨、銅貨だ。それぞれゴールド、シルバー、カッパーと言う。金貨が一番価値が高くて、金貨1枚は銀貨10枚分の価値がある」
頭の中で計算してみる。これはすんなりといった。
「銀貨は1枚で銅貨10枚分の価値だ」
銀貨と銅貨の繋がりも理解した、が、金貨と銅貨はどうだろうと考えるとルナは眉をひそめる。答えがすぐに出てこない。
「えっと……じゃあ、金貨1枚は銅貨……えっと……」
「100枚分、ってことさ」
「う……うん」
「とりあえず、銅貨10枚が銀貨1枚になって、銀貨10枚が金貨1枚になる、そう覚えておくと良いよ」
「わかった!」
10枚集まれば次の硬貨に変わるのだ、そう頭に叩き込んでルナは頷いた。
「これで部屋を移った理由が解るかな? 一人1ゴールドの部屋に二人で一日泊まったら?」
「えっと……2ゴールド!」
エリチェーンは満足したように頷いてくれた。
それから指を一つ立てて、続けて訊いてくる。
「正解。じゃあ、一人5シルバーの部屋に二人で一日泊まったら?」
「一人銀貨5枚だから……二人で……あ、1ゴールド!? 半分だ!?」
「そういうこと。こんなに違うんだよ」
「そうにゃんだ……! しらにゃかった……!」
「さっき『従者の証』を渡した時に言ったけど、これからルナには私の仕事を手伝ってもらう。私は貴女の生活を保証する代わり、貴女に支払うお金をとっても安くする。具体的に言うと一週間で1ゴールド。一月で4ゴールドだね。それが主人と従者の関係だ」
「ルニャは、エリチェーンと一緒にゃらお金いらにゃいよ?」
その言葉に、彼女は首を横に振った。
「それはダメだよ。お金の使い方も覚えて貰わなきゃいけないからね。手元にあるお金でルナが何をするか、それを考えるのも勉強のうちさ」
「にゃにをするか……」
母親が金貨や銀貨を使ってそれらしい取引をしていたのを見た覚えはある。
けれど、具体的にどんなことができるのかルナには全く見当がつかなかった。
「よく、わかんにゃい」
「難しく考えなくていいよ。ルナに渡すお金はルナのものだ。お菓子を食べたくなったり、他に何か素敵なものが欲しくなったり、そういう時に使えばいい」
広場にあった店には甘い香りを漂わせている物もあった。あの店の食べ物がほしいと思ったら、今後手に入る自分の金貨を使えば良いのだろうかとルナは思いを巡らせる。
「もちろん無理に使わずに、貯めておくことだって正解だ。そういうのもこれから判るさ」
「……わかった。ルニャの考える風に……お金を使うね?」
この発展した文明の中にどんなものがあって、そしてどんなものが魅力的に映るのか、それを見定めなければならない。ルナは漠然としてはいたものの、ひとまずの目標を立てることができた。
エリチェーンは財布の中身の殆どを箱の中に仕舞って鍵をかけると言った。
「うん。これでお金の授業の初歩はおしまい。お風呂に行こう?」
「うん!」
ベッドからぴょんと跳んで、ルナは華麗に着地する。これぐらいの事は造作もない。
エリチェーンは梯子を使って降りてきて、それから手を握ってくれた。
「これから行くお風呂は、二人で1シルバーってところかな」
「じゃあ、一人5カッパーだね!」
「その通り。スポンジや石鹸を持っていくなら二人でその値段で済むんだけどね。新しいのを手に入れたかったしちょうどいい」
銀貨1枚、毛織物のタオルを4枚革袋に入れただけで、後は何も持たない身軽な状態で宿を出て、広場を抜け、通りを進んだ先にそれはあった。
それは石造りのしっかりした建物だった。機能性だけではなく、外見も凝っている。
「わぁ……! これにゃに? 綺麗! でも……こんにゃ人達は見たことにゃいかも」
入り口の両脇に美しい女性の姿が二つ立っているのだ。石造りのその女性達の背中には鳥の翼が生えていた。ハーピーに似ているが、彼女達は背中に翼など生やしていない。ルナは首を傾げた。
エリチェーンは像を指差しながら教えてくれた。
「火の女神フルム様と、水の女神クリテ様の像だね。お風呂は火と水を使うから、それぞれ司る女神様をこうして崇めているのさ。ルナは女神様のこと、聞いたこと無い?」
「ううん、あるよ! お母さんに教えてもらったの。そっか、フルム様とクリテ様にゃんだね。ルニャ、お姿を見るのは初めて!」
「そっか。ルナの住んでたところも、そういう知識はきちんとあったんだね」
「うん! ルニャのところにそういうの教えに来てくれる人がいて、狩りの前は女神ロニャ様にお祈りを捧げたりしてたよ」
「狩猟の女神、ロナか。ルナも狩りを?」
受付に銀貨を手渡し、石鹸1つとスポンジ2つを受け取りながらエリチェーンが訊いてくる。
ルナはちょっと自慢げに胸を張って答えた。
「ルニャ、けっこー狩り上手にゃんだから! みんにゃに褒められたことも……」
けれど、その思い出が全部"二度と来ないもの"だと思い知らされて、すぐに耳と尻尾を垂れ下げてしまう。
「……あった……かにゃ」
エリチェーンが、少しかがみ込んで目線を合わせて微笑んでくれる。不思議とそのヴァイオレットの瞳を見ていると、ルナの気分は安らいだ。
「今度、ぜひ腕前を見たいな。ルナのその力が役立つ事がこの先あるんだ」
「そうにゃの……?」
「詳しい話はまた今度してあげるよ。今は躰を綺麗にする方を優先ね」
お風呂はきちんと男性と女性で分かれているようで、エリチェーンの案内で訪れた場所――脱衣所といって、ここで服を脱ぐらしい――に居るのは女性ばかりだった。
人間も亜人も、爽快な気分で顔を綻ばせている者もいれば、期待に胸を弾ませている者もいる。皆いい顔をしているのは共通していた。
買ったばかりの下着とレギンスはエリチェーンに脱がして貰い、お互い生まれたままの姿にタオルを巻き付けて。
「あれ……?」
そこでルナは、初めてエリチェーンが首に包帯を巻いていることに気づいた。
「エリチェーン? 首、どうしたの?」
「ん? あぁ、これ? 怪我してるわけじゃないから大丈夫だよ。首元に変なアザがあってね」
「そうにゃんだ?」
「生まれつきあったらしいけどね。人に見せるの恥ずかしいから巻いて隠してるんだ」
それ以上ルナは追求はしなかった。なにせお風呂が待っているのだ。手を引かれるがまま、中へと入った。
「わぁ……!!」
中は広々としていて、一度に何人も入っても一つも狭く感じないことが容易に判る。
恐る恐る泉に触れてみると、これがまたちょうどいい温度で気持ちがいい。本当に"温かい泉"が湧いているのだ。
興奮に尻尾を振って、ルナは言った。
「……すごい! ほんとにあったかい!」
「まずはこっちで全身をよく洗うんだ。あれに座って躰を濡らそう」
案内された先には、腰掛ける場所に湯が降り注いでいる設備がある。座れば頭から湯を被ることになるだろう。
もうエリチェーンは腰掛けて湯を全身に浴びていた。目を閉じて心地よさそうだ。
「……!」
真似してルナも座ってみると、期待通りの気持ちよさが頭の天辺から滑り落ちてくる。あまりに気持ちよくて耳がピクピク動くのが止まらないぐらいだ。
しばらくそうしていると、躰をつつかれる感触がして目を開けた。エリチェーンが手招きしている。
招かれるまま、今度は少し開けた場所で彼女が腰を落ち着けたので、ルナも膝をついた。
彼女は革袋から石鹸を取り出して、既に濡らしてあったスポンジにたっぷりとこすりつけて泡立てている。
「自分でやる?」
「うん!」
それで躰を洗った経験はルナにもあったので、泡立てたスポンジを受け取って早速躰をごしごしと擦った。
久しぶりの感触に、もうすっかり気分は元通りだ。
"亜人狩り"に捕われてから今日までの汚れを欠片も残さず洗い落とすように、ルナは丹念に自分の体を洗っていく。
髪の毛もふわふわの泡が乗るまで綺麗にしてみせた。心なしか頭が軽い。
「エリチェーン、エリチェーンっ」
「ん?」
「せにゃかお願いしていーい? ルニャもエリチェーンのせにゃか、洗ったげるから!」
「あぁ、お安い御用さ」
手の届かない部分は頼んで洗ってもらう、これも当たり前のことだった。
すっかり綺麗になった後は、エリチェーンの背中を洗う。
「一体どんなふうにして、この温かい泉ができてるんだろう? エリチェーンは知ってる?」
その最中ルナは尋ねてみた。後ろ髪を束ねて背中を晒しながらエリチェーンは答えてくれた。
「薪を燃やして温めていると言うのは変わらないみたいだね。建物自体すごくよく考えて造られてあって、そのお陰で寒い思いをしなくて済むと聞いたな」
「じゃあ、冬もこんにゃにあったかいの?」
「うん。寒い日のお風呂はまた格別だよ」
そんな日が来るのはまだまだ先だが、ルナは今から待ち遠しくなった。
泡だらけの全身をまた湯を被ってすっかり流し終えた後、ルナはエリチェーンと一緒にお風呂の中に入っていた。
心地よい暖かさが全身を包んでくれる。もうなんとも言えなくて、顔が綻んでしまう。
「お風呂は気に入ってくれた?」
「うん! こんにゃに気持ちいいのは初めてにゃの!」
「ふふ。よかった。私も街に居る間は毎日入りに来てるんだ。ルナもよかったらそうしようか?」
「うん!」
改めて周りを見渡してみると、この建物はどうやらかなり大きな造りであることがわかった。
建物の奥はまだ続いているし、そこを人々が行き来している。
「汗をかくためのもっと熱い部屋や、冷たい泉もあるんだよ。それに談話室や、軽い運動もできる場所もね」
ここで一日が潰せそうな気がして、ルナは改めて発達した文明に圧倒される。
「ここは身分の関係なく、楽しめる場所。日雇いの労働者も、貴族も、ここに来れば皆同じ。流石に女性の貴族がここに来ることは無いけど」
「じゃあ、その人達はどこでお風呂に入ってるの?」
「自分のお屋敷さ。魔道具で水を作って、それをお湯にしてね」
「まどーぐ?」
「簡単に言えば、特定の魔術の効果を発揮する道具さ。この建物もかなりの量の魔道具が使われているんだ。<水の生出>って魔術が掛かったものがね。だから水に困らない」
「へぇーっ……!」
エリチェーンは軽く伸びをして、続けた。
「魔道具はこういう都市の発達には欠かせないものなんだ。何気なしに汲み出してる水は、実は魔術由来のものだったりするかもね」
「それがあったら川を探さにゃくていいし、水汲みもしにゃくていいし、良いこと尽くめだね!」
躰がすっかり温まったので、一度ルナはお風呂の縁に腰掛けた。エリチェーンも手で顔を仰ぎながら続く。
「確かにそうなんだけど、高いからね。私には手が出せない。それにあったらあったで、仕事する上で余計な心配事が増えるからね。水は樽に入れて持ち運ぶに限るよ」
仕事と聞いてルナは思い当たった。
「ねぇ、エリチェーン?」
「ん?」
「ルニャは、これからどんにゃお仕事をするの?」
そこで思い切って訊いてみた。自分がこれからどんな風に生きていくのか、気になったのだ。
エリチェーンはその質問にしばらくきょとんとしていたが、"あ"と一言思い出したように口にして続けた。
「……そうだった。言ってなかったね」
苦笑しながら彼女は言う。
「私は行商人なんだ。街で仕入れたものを、街の外にある村に売りに行く。いくつか決まった場所を定期的に回って商売をするんだ。呑気なものだよ。ルナもそのお手伝いだね」
それは野山を駆け回り、獲物を捕まえて褒められていたような今までの暮らしとは全く違う事がわかった。
「ルニャ、上手にできるかにゃ……?」
役に立ちそうな能力が思い当たらなくて、ルナは不安に耳と尻尾を垂れ下げる。
「まずルナがしなくちゃいけないのは勉強だ。読み書きはできる?」
「ううん……」
「お金のこともさっき初めて知ったばかりだから……。当面は読み書きと、お金のお勉強かな。細かい仕事も手伝ってもらうけど、それはその都度私が指示するよ」
「わかった。が、がんばるね」
エリチェーンを失望させてはいけない、できるだろうかという不安が心の中で渦巻く。
「大丈夫さ。私も最初はそうだったんだから」
けれど彼女はそれを見透かしたように頭を撫でてくれた。
「それに、ルナはもう私にはない魅力を持ってる」
「えっ?」
続けて言われた言葉にルナは驚いた。そう言われても全く自分に思い当たる節がなかったのだ。
エリチェーンは言う。
「私は人前で笑うのがあんまり得意じゃなくてね。先生に無愛想だって言われてただろう? でも、ルナはそうじゃない。よく笑うし、貴女の笑顔はとても魅力的だから、きっと色んな人に歓迎されるよ」
――あなたの笑顔を見てると、元気になるわ。
――いい顔で笑うよね。
ルナの脳裏に、懐かしい声が響く。
母親や友人も、エリチェーンと同じことを言っていたと思い出せたのだ。
「……ルナ?」
「あ、ううんっ! にゃんでもない!」
親代わりになれないかもしれないと不安な顔をして言っていた彼女だが、そんなことはないとルナはここで確信した。
他人からすれば些細な理由かもしれない。けれどルナにとって、彼女のその言葉は何よりも嬉しかったのだ。
本当の母親と全く同じことを言ってくれる存在が、親になれないわけがない。
「その……嬉しかった、だけ。ありがと……」
「ん」
ぎゅっと手を握りしめると、エリチェーンもまた握り返してくれた。