商人の生活・1
「……さあ、痛むところは無いかね?」
一週間の後、ルナはエリチェーンと一緒に老医者のところに再び訪れていた。
包帯と湿布を取り外され、ルナは躰をグイグイと動かしてみる。
痛みは嘘のように引いていた。温かい寝床で寝て、美味しい食事を食べたお陰で、鈍った体を思いっきり動かしたいと思えるほどの好調だ。
「……うん! どこも痛くにゃい!」
「アザもすっかり引いたね。綺麗になってる」
机の上から何か四角いものを手にとって、エリチェーンが見せてきた。
「わ……」
そこには猫の耳を生やした、銀色の髪の毛にややつり上がったルビー色の目を持った少女が不思議そうな顔をしているのが映っている。
それが最初自分の姿だとなかなか判らなくて、ルナはその四角いへんてこな板をじっと眺めていた。
「あぁ。鏡を見るのは初めてだったかね」
水鏡よりずっと鮮明で、顔どころか躰まではっきり映してくれるそれは、透き通るような美しい白い肌に、きゅっと引き締まったくびれ、銀色の体毛に包まれた猫の体躯の様子をルナにこれ以上無いほど理解させてくれた。
「これ、すごい! 水に映ってるルニャと全然違う!」
「どこも変なところ、無いだろう? 綺麗に治って本当に良かったよ」
エリチェーンに服を着せられながら、ルナは嬉しさに耳をぴくぴく動かして尻尾を左右に振ってみせた。
老医者も顔を綻ばせてルナを見ていて、思わず微笑み返してしまう。
「一週間で随分人馴れしおったなぁ。お前さん、案外好かれるんじゃの」
「案外とは失礼な。私はこれでも善良な人間だよ、先生」
「うん! エリチェーンは、すっごくいい人間にゃの! ……あ、えっと、先生も!」
「はっはっは! まあこれからも色々あるだろうが、この娘と一緒なら問題なかろう。少々無愛想だが間違ったことはせんからの」
エリチェーンがルナを引き取るという話は、老医者にも既に話してあった。
彼はその選択を心の底から喜んでくれているようで、最初に訪れたときとは打って変わって破顔しっぱなしだ。
「そんなに無愛想かな、私?」
「商人らしくはないのう」
「あれは他の商人が大げさすぎるだけだよ」
「ルニャは、エリチェーンのお顔、素敵だと思うよ?」
二人の会話に割って入り、ルナはへんてこな板――鏡をエリチェーンの顔の前に差し出してみせた。
彼女はしばらくじっと鏡を見入って、それから微笑んで言った。
「うん、我ながら美人。変に愛想笑いしなくても十分さ」
「自分で言いおるか」
「商人の観点から見ても、これは間違ってはいないと思うけど?」
エリチェーンがそう言うと、もう一度老医者が笑った。
「ま、これから二人で頑張りなさい。あんまり怪我してわしのところに来るんじゃないぞ? 健康が一番じゃからの」
「うんっ! 先生……ありがとうございました!」
「ありがとう先生。また暇な時にでも酒場で飲もう。その時は奢るよ」
「はっは。楽しみにしておくぞ?」
老医者に別れを告げて、ルナはエリチェーンと一緒に外へ出た。
見上げれば、晴れやかな朝の空が広がっている。
「さて、と。今日はちょっとやることが多いけど、頑張れそう?」
「うん! ルニャ、平気だよ!」
「よし。それじゃまずは服を仕立ててもらおう」
その提案に、ルナは首を傾げた。
「……? 服、もう着てるよ?」
「あぁ、上は良いんだけどね。……そっか、ルナは下着、身につけたこと無い?」
「下着?」
「これから生きていく上では、ちょっとその格好だと色々よろしくないからね。ここにも服を身につけるんだよ」
そう言うと、エリチェーンは自分の下腹部をとんとんと叩いて指し示している。
「……」
服の裾を捲ってみた。銀色の体毛に包まれた自分の下半身が見える。ここにも何か身につけると考えてもいまいちルナにはピンとこない。
捲っていた手を優しくエリチェーンに戻され、彼女が言う。
「フェルパーの世界だとその格好が当たり前かもしれないけど、人間の世界ではそうじゃないんだ。まぁ、なんていうか……はしたない、とされてね」
「はしたにゃい?」
「いやらしいとか、そういう意味。あまりいい顔をされないんだ」
「よくわかんにゃいけど……。でも、エリチェーンと一緒に暮らすのに、下着っていうのが必要にゃんだよね?」
「うん。最初は違和感あるかもしれないけど、慣れて」
「うん!」
エリチェーンに手を引かれるがまま、ルナは街の中へと繰り出していく。
宿屋は街の中心部から外れたところにあって静かなものだったが、それが次第に喧騒に包まれていく。
「……!?」
広場についた時、ルナはその光景に目を丸くした。
どこを見渡しても人や亜人が行き交っていて、皆自分の仕事に熱心に打ち込んでいるのだ。
「焼きたてのパンだよー!」
「いい肉仕入れてるよー!」
「採れたての野菜だよー! 安いよー!」
「朝食にチーズはいかがー!」
日除けを立てた程度の簡易的な店がずらりと立ち並び、所狭しと食品が並んでいる。
朝食は宿で済ませてきたけれど、あんまり長居すると腹の虫が鳴り出しそうだ。
「どれぐらい切りましょう?」
「ちょっと前髪が鬱陶しくてねえ……」
右を見れば椅子を一つ置いて、そこに客を座らせてハサミで髪の毛を切っている店もある。
「はいお次の方。何をお書きしましょうか? ……あぁ、なるほど。では耳打ちでこっそりとお願いしますね」
左を見れば小さな移動式の机の上にインク壺とペンを置き、紙を広げた女が、赤ら顔で耳打ちをする娘の言葉を聞きながらペンを走らせていた。
その女の胴体は蛇のもので、ひと目で亜人、ラミアだと判る。
「よっと。おはようございまーす! お届け物ですよー!」
突然上から少女が舞い降りてきた。どうやら誰かに文書を届けに来たらしい。
翼を人間の手に変化させつつも、その大腿から下は鳥のまま。少女が亜人、ハーピーである証だ。
ルナはその仕事ぶりを見ているだけで目が回りそうだった。
「どう?」
エリチェーンにそう声をかけられて見てみれば、彼女は微笑んでいる。
「ようこそ、ルナ。王都レネリスへ」
それはルナにとって初めて見る発達した文明だった。
圧倒されてしまうが、その手をエリチェーンがしっかりと握りしめていてくれて、呆然とするのはなんとか避けることができた。
「さぁ、いこう。服の仕立てはあっちの『職人通り』だよ」
手を引かれるがまま、ルナはきょろきょろと周りを見渡しながらついていく。
広場を抜け、通りを一つ入れば、そこはまた新しい音が響いていた。
「ここは職人ギルドに所属する職人が集まってる通りなんだ。武器や防具、日用品、服……いろんなものがここで造り出されて店で売られてる」
材木を巧みに切り分けて、そして組み合わせている店があった。
「あれはベッドを作ってるみたいだね。……あっちの店は梯子だ」
同じ材木でも、作るものは全く違う。
更に歩みを進めていけば、真っ赤な塊をガンガンとぶっ叩いている店がある。逞しい体つきの男ばかりだった。
「あれはにゃに?」
「あれかい? 剣を作っているんだよ。ここはショートソードを作ってるみたいだね。あっちの店はクレイモア、その向かいの店は……サーベルかな?」
「同じ剣にゃのに、みんにゃ別々のお店で売るんだね」
「いくつも作ろうと思うと熟練した技術がいるし、一つの店でいくつも一緒に売ろうとするとその分税金を多く取られるんだ。だから同じ剣でもこうしていくつも店がある」
「ぜーきん?」
「この街が街であり続けるために必要な、この街に住んでる人や、この街に入る人から取るお金のことだよ」
「おかね……」
「ふふ。あとで説明してあげる。……あ、見てご覧。ハーフリングの職人さんだ」
亜人もここで働いているのか、とルナはエリチェーンに示された方の店を覗き込んでみた。
「わぁ……」
店先に座り込んで太陽の光を受けながら、小さな少女が熱心に何かの板に傷をつけている。この少女が亜人、ハーフリングであることはルナにも直感で判った。亜人同士は、不思議と判るのだ。
闇雲に傷をつけているわけではないことはひと目でわかった。光を受けて反射するその板には、美しい花の絵が描かれていっている。
違う店を見てみれば、ハーピーやラミアが美しい飾り紐を編んでいた。
「みんにゃ、すごい……」
「私にもあんなのは真似出来ない。すごいよね」
ルナは一日中ここに座って仕事ぶりを眺めていても飽きない気がした。
更に通りを行くと、様々な服を展示している店がずらりと立ち並ぶ場所へたどり着く。
エリチェーンがその中の一件に近づいて声をかけた。
「やぁ。おはようございます」
「いらっしゃいませ!」
妙齢の人間の女性が現れて、にこやかに挨拶をしてくる。
「今日はどのような御用でしょうか?」
「この子の下着と履物を仕立てていただきたいのです。お願いできますか?」
「もちろん! 承りますよ。ではどうぞこちらへ」
女性に案内され、ルナは店内に招き入れられた。
「では、そこに立って頂いて……少し失礼しますね」
服の裾を捲りあげられて、ルナはしばらくくすぐったい思いをすることになる。
「ふむ。この分でしたらちょうどぴったりなのがございますね」
そう言って女性が持ってきたものを見た時、ルナにはそれがへんてこな布切れにしか見えなかった。
もう一度女性がかがみ込んで、何やらもぞもぞと手を動かしていたかと思うと、毛織物の感触が股を包んだ。
「いかがでしょう?」
覗き込んでみると、あの変な布切れが自分の股にぴったりと張り付いている。左右を紐でしっかり結んであってずれ落ちたりもしない。
「どう、ルナ? ぴったりかな?」
「う、うん……。大丈夫だと、思う?」
こんなものを身につけるのは生まれて初めてだったから、あまり自信はなかったが、悪い気はしない。
軽くジャンプしてみても、しっかりフィットしている。
その様子を見て、エリチェーンも満足げに頷いていた。
「では、これを頂きましょう。そうだな……同じものをもう6着ほど貰おうか。履物は手直しが必要でしょうか?」
「えぇ。少々お時間を頂きます」
「ではそちらは後ほど取りに伺いましょう。履物も3着ほどお願いしたい。全部でお幾らになりますか?」
「それでしたら……6ゴールドになります」
エリチェーンが女性に金貨を6枚手渡すと、女性は"確かに!"と言って微笑んだ。
「また後ほど」
「ありがとうございました!」
まだ身につけた"下着"とやらの感覚がむずがゆいが、歩いているうちに慣れるだろうと思いながら、ルナはエリチェーンに手を引かれ職人通りを戻り始めた。
「仕上がるまで時間があるし、先にもう2つほど片付けておこう」
「今度はにゃにをしにいくの?」
「商人ギルドに立ち寄って、ルナの身分を確かなものにして。それから……」
「……エリチェーン?」
突然彼女が眉をひそめるものだから、ルナは怪訝な顔をして見やる。
「あぁ、いや。嫌なことを思い出させることになる、と思ってね。……貴女が暮らしてた場所で起きた出来事を、話しに行かなくちゃいけない」
「え……」
忘れようとしていたことなのに、それを思い出さなければならない。
ルナは気落ちして耳と尻尾を垂れ下げてしまった。
「ごめん。必要なことなんだ。これは……絶対に」
けれど、エリチェーンの表情は真剣そのものだった。決していたずらに思い出させようとしているわけではないことはすぐに判った。
「エリチェーンがそういうにゃら……」
「私も一緒に立ち会うよ。だから心配しないで」
「……うん」
広場を抜け、また別の通りへと向かう。
そこにある立派な建物の中に、ルナはエリチェーンと一緒に入った。
「おや、こんにちは」
神経質そうな男性が、エリチェーンの姿を見て声を上げた。
それから自分に視線を向けて、明らかに異質なものを見るような目つきになる。
そんな様子を彼女は意に介することもなく、つかつかと歩み寄ってこう言った。
「こんにちは。『主従の証』を買いに来ました」
「『主従の証』……ですか? そちらの……フェルパーの方を?」
男は大いに驚いたらしい。“信じられない”と目を丸くしているのがルナにもわかった。
こちらに向けられる目が居心地悪くて、ルナはなるべく視線を男と合わさないようにした。
「そう。売っていただけますね?」
「それは、まぁ。お断りするようなものではありませんし……10ゴールドになります」
金貨を渡す音と、代わりに何か金属製の物が受け渡される音だけが室内に響く。
「このところ何か変わった事は?」
エリチェーンの質問に、男はすぐに答えた。
「2、3件野盗の類に商品を盗まれた、といった報告は上がっていますね。被害は軽いようですが、警戒するに越したことはないでしょう」
「いつも通りということか。では、また」
長居する気はエリチェーンにも全く無かったようで、あっという間に建物から出てしまう。ルナにとってはありがたかった。
「さて、ルナ。大事なことを教えるよ」
「う、うん」
通りの端っこで歩みを止めて、改めてエリチェーンはルナをしっかり見据えて話し始めた。
その様子にルナも姿勢を正して聞き入る。
「これから貴女に渡すのは、『従者の証』。私が身につける『主人の証』と対になる品物だ」
エリチェーンが見せてくれたのは金属製の丸い板で、それはお金のようにも見えた。首に提げるよう出来ているらしい。
何かプレートには文字が刻み込まれているが、ルナには読めなかった。
「これを身に着けている限り、貴女は私の従者としてその身分が保証される。ただし、もし貴女が犯罪を犯してしまったりしたら貴女は勿論、主人である私にもその罰が下る」
「そっ、そんにゃことしにゃいよ!?」
「わかってるよ。けれど一応、説明はしておいたほうがいいからね」
エリチェーンは微笑んで、"従者の証"を首に掛けてくれた。
「そして主人である私は、貴女を薄給でお仕事をさせる代わり、寝る場所や食べるもの、着るもの……全てを保証する。つまり、貴女の生活を私が面倒見ますよ、ってことだね」
「う、うん。はっきゅーってよくわかんにゃいけど……」
「あぁ、お金の話をする時にしてあげるよ。……とにかく、これで貴女は私の家族であることが、誰の目にも明らかで、自信を持って言える立場になった」
「家族……」
ルナは"従者の証"を握りしめた。一度は失ってしまったものを、彼女は確かに蘇らせてくれたのだ。
「エリチェーン……ありがとう」
「ん。改めてよろしくね、ルナ」
「……うん!」
嬉しくてついエリチェーンに抱きついてしまう。彼女は優しく抱きとめてくれて、頭と背中を撫でてくれた。
「さて……。嬉しいところ申し訳ないけど、ここからは少し嫌なことをしなくちゃならない。わかるね?」
「ルニャの暮らしてた場所で起きたこと……はにゃしに行くんだよね?」
「……そう」
「大丈夫……。きちんと、はにゃせる。怖くにゃいよ」
抱擁を解いて、ルナはできるだけ笑ってみせた。思い出すのは本当は怖かったけれど、あまりエリチェーンに心配をかけたくなかった。
「うん。こういうのはさっさと片付けてしまおう。それが一番さ」
そうして、今度は街の入口近くまで歩いて、一つの建物の前で立ち止まった。
そこにある建物はなんだか妙に威圧感があった。
「おはようございます」
エリチェーンが扉を開き中に入ると、そこには何人かの人間とハーフリングが居て、一斉に視線を向けてきた。
「ようこそハンターギルドへ。どのようなご用件でしょう?」
受付に立っていた人間の女が微笑んで、硬い雰囲気を解きほぐしてくれる。
「『亜人狩り』の情報は入っていませんか? ここ最近……フェルパーの里を襲ったと思われる奴らです」
「少しお待ちくださいね」
棚から丸めた羊皮紙を幾つか取り出して、女はその中身を改めていたようだった。
しばらくして、女が顔を上げた。
「……一件、ありますね。この件について、何か?」
「既に調査が進んでいるかもしれませんが、情報提供に」
エリチェーンのその言葉に、ギルドの中に居た全員の視線が鋭くなった。
それは受付の女も例外ではなかった。けれど彼女はすぐにその視線を収め、もう一度微笑んでみせた。
「こちらへどうぞ。お話を伺いましょう」
促され、ルナはエリチェーンと一緒に別室へと通された。椅子に腰掛け、女と対面する。
引き続き受付の女が話を聴いてくれるようだった。
「ここから東部にあるフェルパーの里が襲撃に遭い、壊滅していたのが確かに報告されています。建物には火が放たれていて、魔獣ではなく人の手による犯罪の可能性が非常に高いと思われます」
女は真新しい紙を広げながら言った。
「発覚してまだ日が浅く、霊術の調査結果も出ていない状態です。どのような情報でも我々にはありがたい。お聞かせ願えますか?」
「えぇ。……ルナ、話せるね?」
「……うん」
エリチェーンの言葉にしっかり頷いて、ルナは目の前の女を見据えて口を開いた。
「ルニャは、その襲撃を受けた……生き残り」
女は驚いたようだった。
「それは……。あぁ、すみません。なんと言っていいか……。さぞ、辛い思いをされたでしょう……?」
「うん。……でも、大丈夫。今は、エリチェーンが居てくれるから」
隣りに座るエリチェーンの手を握った。彼女もしっかりと握り返してきてくれた。
「えっと……どんにゃことをはにゃしたらいい……かにゃ?」
「そうですね……。その襲撃を行った連中の人相、できればその襲撃を主導した……あぁ、えっと。つまりリーダー格というやつです。なにか、特徴がわかれば良いのですが」
ルナは目を閉じて、思い出すことにした。
――あの、憂惧の日を。