あなたの名前は・2
次に少女が目を覚ましたのは、少し騒がしいと感じるほどの沢山の声が耳に届いた頃だった。
目を開ければ空が青く晴れ渡り、太陽が眩い輝きを馬車の中にも届けていた。朝日だ。
車輪が動く音はしていない。今は幌馬車が止まっているようだ。
体中は痛むし疲れも取り切れていなくて、少女はもう一度寝たいという欲求をあくびにして出す。
しかし自分をここまで連れてきたエリチェーンのことが気になって、御者台に座る彼女に目を向けた。ちょうど誰かと会話しているらしい。声から察するに、その相手は男のようだった。
どんなやつだろうと好奇心からそっと幌馬車から顔を出してみると、そこには鎧に身を包んだ人間の兵士が居て、目が合った。
「あ……」
何とも言えない沈黙がその兵士との間に流れる。
「やぁ、ごきげんよう。エリチェーン、怪我人がお目覚めのようだよ!」
それも一瞬のことで、兵士は朗らかに笑って挨拶をしてくれた。
「おはよう。もう少しで街に入れるから、いい子にしててね」
兵士の言葉にエリチェーンが御者台から振り向いて言った。
不穏な空気は欠片も感じない。辺りを見渡してみれば建物が立ち並び、日よけを立てて品物を並べ立てた人々が必死に客を呼び込んでいる。
人や亜人に幌馬車、荷車で溢れかえって長蛇の列を形成し、他愛もない話や呼び込みがあちこちで繰り広げられていて、誰も彼もが希望に満ち溢れた顔をして楽しそうに見えた。
荷車には様々なものが乗っていた。木材を載せたもの、野菜を載せたもの、何かの布地、変な石ころ、家畜を乗せているものもある。他にも少女には何に使うのか見当もつかないものも沢山だ。
歩いている方は不思議と野菜しか抱えていない。しかしどれも瑞々しくて美味そうだった。
エリチェーンの方へ視線を戻せば、彼女の肩越しに巨大な門が見えた。ゆっくりとそれが開き始めると、徐々に列が動き始めていく。
どうやらここは、大きな街の入り口らしいことが少女にも判った。
「それじゃ。さっきの話は詳しいことが分かり次第届け出るよ」
「あぁ、わかった。お大事に、お嬢さん」
身を案じる言葉を投げかけられ、少女は戸惑った。ありがとうという言葉が出せずに、おずおずと頭を引っ込める。
エリチェーンの操る幌馬車もまた動き出す。歩いて門の中へ入ろうとする人々を追い抜く度に、彼らは自分の有様を見て目を丸くしているようだった。
奇異の目を向ける者も僅かにいたものの、殆どは同情を顔に出していた。特に少女と同じ亜人達は、みな一様に少女を憐れむように見ている。
「ひどい怪我……大丈夫?」
そんな声をかけてくる者もあった。
「え、っと……」
悪気はないのだろうが、今はその視線を向けられると少女は居心地が悪い。躰中包帯だらけの姿は見れたものではないだろうと恥ずかしかったのだ。
「だ、大丈夫」
幌馬車の奥に引っ込んで、また寝床に潜り込む。
車輪が石畳を走るカタカタという音と街中の喧騒を聞きながら、少女は幌馬車に備え付けられた棚の中身を眺めたりして時間を潰すことに努めた。
「おまたせ。着いたよ」
エリチェーンから声が掛かったのは、喧騒が遠く離れてしまった頃だった。
再び少女が顔を出して周囲を見渡すと、石造りの建物がいくつも見えた。それがちょうど馬車の止まっている広い庭を取り囲むようにして建てられている。
庭の片隅には厩も見えた。何頭か馬が繋がれているが人の気配はない。
「ここは……?」
「宿屋さ。医者もここに居るんだ。怪我の具合はどう? 歩ける?」
少女は改めて自分の躰の状態を確認する。四つん這いで動き回るのはさっきまでやっていたから問題ない。
ゆっくりと立ち上がる。これも問題なかった。歩くことも可能だろう。
だが急に躰を動かそうとすると、脇腹にずきずきと鋭い痛みが走る。
「歩くのは、大丈夫。でも、急に動いたらおにゃかが痛い……」
「わかった。それじゃゆっくり行こう。おいで、案内するよ」
庭に降り立ち、少女は改めて周囲の建物の造りの見事さに感嘆する。どんなに強い風が吹いても、大粒の雨がいくら叩きつけようとも壊れたりしない、理想的な建物の姿がそこにあるのだ。
「そんなに珍しい?」
「……うん。あたしの里にはにゃかったから……あっ」
エリチェーンの問いかけにそう返すが、見惚れている場合ではないと気づいた少女は慌てて駆け寄ろうとした。急に躰を動かしたら痛みが走るとさっき確認したばかりだというのに。
「ごめんにゃさっ……!」
案の定鋭い痛みが躰を刺して、少女は地面に膝をついてしまう。
すぐにエリチェーンがその躰を静かに抱きしめ、痛みを散らすように背中をゆっくりと撫でてくれた。
「大丈夫、謝ること無いよ。……誰も貴女を急かしたりしないから、自分の躰を労ってあげて」
「うん……」
呼吸を整え、少女はエリチェーンの肩を借りてもう一度立ち上がる。誘導に従って一歩ずつ歩みを進め、一つの扉の前にたどり着いた。
「おはよう先生。居るかな?」
エリチェーンが扉を開け、中に声をかける。するとすぐに初老の男がやってきた。
男は少女を見ると破顔して言う。
「どうした、また冒険者仲間がドジ踏んだか」
「いや、そうじゃない。この子はおそらく『亜人狩り』の被害者だ」
「なに?」
男の顔から笑みが消えた。"亜人狩り"という単語にひどく不快感を覚えた、そんな表情を隠そうともしない。
「入れ。すぐ手当してやろう。骨は折れとるのか?」
中に入るよう手招きして、男は診察用のベッドへと向かっていく。
一転して不機嫌そうな顔になった男を見て、少女は不安になってエリチェーンの服を強く掴んだ。
彼女は安心させるように微笑を浮かべて撫でてくれると、共にベッドへと向かう。
「見た限り折れてはないみたい。一応自分で歩けるし、腕も平気。ただ、急に動くとお腹が痛むって言ってる」
「わかった。ではそこに横になりなさい。……ろくでもない連中はいつになっても居なくならんなぁ」
「本当にね」
少女はベッドの上へ寝かされ包帯を全て取り去られた。白く美しい肌のあちこちに青あざが浮いた、無残な姿が露わになる。頬も腫れていて、少女が本来持つ美しさが損なわれてしまっていた。
男は神妙な顔つきで傷を眺め、手を脇腹に伸ばした。
「確かにこれは、腹を随分やられたな。……動いた時痛むのはここか?」
「いっ……!」
微かに力を込めて触れられただけで痛みが走り、思わず少女は悶えてしまう。
その様子に慌てて手を離し、男は言った。
「すまん、もうやらんよ。……骨にヒビが入っとるようだ。急に動くと痛むのはそのせいだろう。あとは打撲と……口の中も切っとるな」
「お金は私が出すよ。できる治療を全てお願い」
「よかろう。事情が事情だから少々負けといてやる。……しかしお前さんが面倒見るのか?」
「ここで放り出すような薄情なヤツだと先生に思われてるなら心外だな」
二人の会話を聞きながら、少女は治療をされるがままだ。
炎症を抑える薬効の湿布を貼られ、脇腹には包帯をきつく巻かれる。こうして固定をしなければ最悪肋骨が折れるのだと男は教えてくれた。
「<癒しの手>も掛けておいてやろう」
男の手が仄かに輝き、少女の脇腹に添えられる。すると不思議なことにそこから暖かさが湧き上がるような感覚がして、痛みが薄れていく。
続けて男の手が頬へ伸びた。頬の痛みもやはり薄れていった。
「これで一週間ほど安静にしとれば治るだろう。フェルパーは回復が早いからの。その分の湿布と包帯も出しておくぞ」
「あ……ありがとう」
今度はただ同情の目を向けるだけではなく、手当を施してくれた相手だ。緊張もしたが、少女は今度こそ礼を述べることができた。
そうすると、男は再び破顔して言った。
「なに、これが仕事だ」
それから男はエリチェーンに顔を向ける。
「……で、エリチェーンよ。金の方だが2ゴールドだ」
「……そんなに安くていいの?」
「構わん構わん。その分お前さんが交換をやるからな。清潔にしてやれよ」
「もちろん。ありがとう、恩に着るよ」
エリチェーンが懐から財布を取り出し、その中から金貨を2枚取り出した。
男はそれを受け取って、再び少女を見て言った。
「別にここで寝てても構わんが、この子は人間慣れしてないようだな。わしより直接助けたお前さんの側にいるほうが安心するじゃろ」
「そのつもり。私も一週間ゆっくり休んでいくよ。……さ、行こうか? 動ける?」
エリチェーンが少女に手を差し伸べる。少女は頷いてその手を取って、ベッドから起き上がった。
治療を施される前を思えば嘘のように躰が楽になっていて、もうエリチェーンの肩を借りる必要もない。
二人で一緒に入り口まで歩き、エリチェーンが扉を開く。開いたところで男の方へ向き直って言った。
「それじゃありがとう先生。また来るよ」
「あぁ、ゆっくり休め」
ひらひらと手を振って見送る男を背に、少女とエリチェーンは建物の外へ出た。
「あの先生、いい腕だろう? 大抵の怪我はあの人に任せれば安心なんだ。……次はあっちだね」
そう言ってエリチェーンが指差したのは正面の建物だ。難なくたどり着き、エリチェーンが扉を開く。
「ただいま」
その建物は、幾つもの丸テーブルが並んだフロアになっていた。奥にはカウンターに、グラスやジョッキの仕舞われた戸棚も見える。
隅の方には椅子が綺麗に積み重なった状態で置かれていて、中央には掃除に精を出す女性が居る。女性はエリチェーンの姿を認めると笑顔を見せた。
「あらエリチェーンちゃん、おかえり! ……って」
しかし少女を見ると、手を口に当てて驚きの表情を浮かべる。
「その子はどうしたの? ひどい怪我じゃない!」
「色々あってね。私が保護したんだ。……一週間個室を取れるかな? できれば二人一緒がいいんだけど」
「大丈夫よ。お金は後でいいから、まずはその子を寝かせておいで? えーっと鍵、鍵……はいおまたせ!」
この建物の主人らしい女はすぐに鍵を持ってくる。それを受け取りながら、エリチェーンは言った。
「ありがとう。それともう一つお願いしたいのだけど」
「何かしら?」
「軽く食事を取りたい。そうだな……オートミールに蜂蜜を入れたものを二人分頼める?」
「お安い御用よ。用意しておくから、あとで取りに来てちょうだいね」
「わかった。お金もその時に」
女主人に見送られ、少女はエリチェーンと一緒に2階へと上がる。細長い廊下の一番奥まった場所にある扉にエリチェーンが鍵を差し込み、開く。
その部屋にはベッドが2つ設置されていて、あとは必要最低限の家具しか置かれていない。
それでも少女からすれば、この部屋の光景はあまりに上等だった。
ベッドに腰掛けてみると、ふかふかとした感触が返ってくる。馬車の中の寝床が劣悪だったわけではないが、それでもこのベッドの寝心地は比べ物にならないだろう。
「食事はすぐ持ってくるよ。お腹空いてるだろう?」
汚れた上着をバスケットに放り込みながら訊いてくるエリチェーンの言葉に返事をする前に、腹の虫がぐぅと鳴いた。安心したところで騒ぎ出したらしい。少女はそれが恥ずかしくて顔を赤らめながら、小さく頷いた。
くすくすと笑う声が静かに響く。エリチェーンのものだ。微笑むばかりで感情をあまり表に出さない彼女が、今初めてはっきりと可笑しさに笑っているのだ。
「あぁ、ごめん。ゆっくりしてて。すぐ戻るよ」
謝罪の言葉を口にしてから、彼女は再び階下へ向かっていった。
部屋に一人残された少女は、自分はあの地獄からついに助かったのだと思った。
幸運にもエリチェーンに救い出され、手当を施され、見たこともない建物の中で極上の寝心地の寝床の中にいるのだ。
ゆっくり、大きく息を吸い、そして吐き出す。
「……?」
微かにその吐息は震えていた。
ここから事態が急転するなどありえない。それなのに何故震えているのだろう。少女は首をかしげる。
「おまたせ」
その疑問に対して深く考える時間は無く、少女はエリチェーンが持ってきた食事を一緒に食べることになった。
木の食器に入ったできたてのオートミール。蜂蜜と一緒にドライフルーツも混ざっているようで、熱々の湯気が空腹で敏感になった鼻腔を刺激する中で、微かに果物の香りを感じることができた。
それは少女には大変なごちそうだった。囚われの身であった時は、地面に這いつくばってカビかけの硬いパンと、塩漬けの辛くて冷たい薄汚れた肉ばかり食べさせられていたのだから。
「手は変化できる? 私と同じように」
エリチェーンが少女に自らの手を見せる。少女は頷いてみせた。フェルパー特有の猫の手が、光り輝き人間の手へ変化していく。
原理を問われても少女には説明できない。フェルパーなら誰だってできる呼吸のようなものなのだ。
「うん。それじゃ、食べようか。熱いから気をつけてね」
木のスプーンで掬い上げ、ふうふうと息を吹きかけてエリチェーンが一口食べる。少女も真似してオートミールを口に入れた。久しぶりの甘い食べ物に歯が疼き、思わず身震いしてしまう。
目は器の中身に釘付けになって、掬っては息を吹きかけ、口に入れを繰り返し、いつしか冷ますことも忘れて一心不乱に食べ続けた。
熱さで口の中の怪我がしみるが気にならなかった。温かい食事が喉を通り胃の中に落ちる感覚がする。
安全な場所で、暖かく柔らかな寝床で、美味しい食事を口にする。躰が生の充足感で満たされていく。
「……?」
器が空っぽになったその時、ぽたりと少女の手に雫が落ちた。
「っ……!」
涙だった。
なぜ先程自分は震えていたのか。その理由を少女は理解した。
「みんにゃ」
自らの生活、自らの友人。
「おかあ、さん」
自らの家族。
「みんにゃ……みんにゃ、死……死んじゃった……。あたし……これからどうしたらいいの……?」
二度と還ってこない数々のモノへ対しての喪失感だったのだ。
エリチェーンは明らかに動揺した様子を見せる。返事はなかった。
「あたしだけ生き残って……だからにゃんにゃの……? 元気ににゃっても帰る場所、もう、にゃいのに」
全て少女は奪われた。生きる目的すら例外ではない。躰が満たされるほど心にぽっかり開いてしまった虚無が少女を打ちのめしてしまう。
「お願い、教えて……答えてよぉ……。これからにゃにして生きればいいの……? あたしわかんにゃいよぉ……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を手で覆い隠し、少女は泣き腫らす。今まで無意識に押さえ込んでいた怨み辛みが滲み出る。
「にゃんでっ! にゃんであたしだけこんにゃ目に遭うの!? こんにゃの嫌だ! こんにゃっ……! こんにゃ事ににゃるぐらいならっ、あたしはあそこで――」
命の恩人の目の前で決して言ってはならない言葉だと頭では判っていても、止められなかった。
それはあっという間に膨れ上がり。
「死んだほうがマシだった!!」
爆発した。
その瞬間部屋の空気が凍りついたのを少女は肌で感じた。
「……そんなこと、言わないで」
透き通った声の持ち主は食器をテーブルに置いて、困ったように眉をひそめて少女を見つめていた。
「もうやだっ……嫌にゃの、生きたくにゃいのっ……! みんにゃに逢いたい……お母さんに逢いたいよぉっ……!」
エリチェーンは怒るだろうか。それでも構わないと自暴自棄な思考は巡る。
だが少女の予想に反して、彼女の声は相変わらず優しかった。
「駄目だよ……。貴女のお母さんもお友達も、そんなこと望んでない。生きてほしいと願ってるはずだ」
少女の脳裏に全てを奪われた時の光景が蘇る。命を賭してまで自分を守ろうとした母親の姿は忘れようにも忘れられない。
一度は絶望の果てを見たものの、少女はこうして生きている。その命を自ら捨て去るのは、母親の覚悟を無駄にするのと一緒だと解ってはいた。
「そんにゃことわかってるよっ!! でも……寂しいの……! もうあたしを褒めてくれる人も、叱ってくれる人もいにゃい……! 友達だって、一人も……! ……誰も、誰もいにゃいのぉ……!」
現実はあまりに重い。例え亡き母や友を想っても、少女一人ではその悲しみを受け止めきれなかった。
生きる希望を失くした少女の泣き声だけが部屋を満たしていく。
「……私がする」
突如聞こえた言葉が信じられなくて、少女はエリチェーンを呆然と見た。
「私が、貴女の成長を褒める。私が、貴女の間違いを叱ろう。……私が、貴女の帰る場所を作ってあげる」
心なしかそのヴァイオレットの瞳が情熱的に潤んでいるように見えた。
「私は貴女の親の代わりにはなれないかもしれない。だけど出来る限り貴女のために尽くすよ。寂しくなんかないように、友達にだってなる」
「にゃんでっ……? にゃんで、そんにゃにしてくれるの……? あたしは、あにゃたにきっと迷惑ばっかりかけるのに……」
「迷惑を掛けられたっていい。……私は貴女に死んでほしくないんだ。そのためなら何だってする。だから――!」
エリチェーンは立ち上がり、少女に詰め寄る。
息を詰まらせたように言葉を一度切って、堪え切れないように少女を抱きしめてから彼女は続けた。
「お願い……! ――生きて」
「っ……!」
何故ここまで自分に良くしてくれるのか、少女には少しも解らなかった。
けれど自分を抱きしめる温もりや、感情の篭った言葉一つ一つが胸に突き刺さる。
少女はそれ以上何も言い返せず、エリチェーンの胸元に顔を埋めて泣くことしかできなかった。
泣いて喚いて疲れ切ってしまうまでの長い間、彼女は片時も抱擁を止めたりはしなかった。
少女がもう一度見上げた時、そこには不安げに自分を見つめる顔がそこにあって、それは何を言うべきか迷っているように少女には見えた。
「……ごめん、にゃさい」
だから今度は自ら口火を切る。自らの無礼を詫びる。
これほどまでに献身的に尽くしてくれた恩人になんて酷いことを言ってしまったのかという後悔を感じられる程には、少女は心の平穏を取り戻すことができていた。
「私こそ、ごめんなさい。辛い選択を押し付けてしまって」
「そんにゃこと、にゃい」
「……ねぇ。貴女には、名前が無い。そうだね?」
「うん……」
「考えていたんだ。どんな名前が貴女に相応しいのか。……聞いてくれる?」
名前を授けられることは、少女にとって大きな意味を持つ儀式だった。それを今、エリチェーンが行おうとしてくれる。
今となっては、その儀式を執り行えるのは目の前の彼女しか居ないと少女も信じている。大きく頷き、その時を待った。
「ルナ」
名を呼ばれた瞬間、少女の胸の内に何かが満たされるような感覚がした。とても暖かいものだ。
「街に帰りながら思ったんだ。ひどい怪我をしていたけれど、それが治れば月のように綺麗な子だろうなって。だから、ルナ。月に住む女神様の名前さ」
「……ルニャ」
「ニャ、じゃなくて。ナ。ル、ナ」
「ル、ニャ」
「……別の名前を考えたほうがいい……?」
「い、いやっ! それでいい! ルニャがいい……うぅ」
真剣に考えてくれたものを否定することは少女にはできなかった。
"な"が全部"にゃ"になってしまう、そのクセさえ自分になければと悔やむが、いつか絶対直してやると思うこともできた。
「わかった。……貴女の名前は、ルナ。これから貴女は、この名前を持って生きるんだ。誰かに名前を聞かれたら、教えてあげてね。上手く言えないのはこれから直せばいいさ」
「うん……うん!」
泣きすぎて目が痛い。けれどこの涙も止めることができそうになかった。
悲しみの涙も嬉しさの涙も、少女ルナは我慢する術を知らなかったのだから。
「私と一緒に生きよう、ルナ。……忘れることはできないかもしれないけれど、それ以上に楽しいことをしていこう」
「……エリ、チェーン?」
エリチェーンは不安な顔を隠そうと必死に努めていた。それはきっと、自分で言ったことが本当にできるのかという不安からくるものだと、ルナにはなんとなくわかった。
「……約束する」
しかし大きく頭を振ったあとには、エリチェーンの表情には決意が溢れていた。
「ルニャは……エリチェーンを、信じる」
その決意にルナも応えた。
躰が痛むのも構わず、思いっきりエリチェーンを抱きしめてその信用を示した。
「ありがとう……」
再びルナは泣き続けた。
「ゆっくり休んで、元気になってね」
胸の奥に宿った暖かさに包まれて、いつしか眠りに落ちるまで。