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LUNAQUEST  作者: 昼空卵
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 満月が輝く夜空の下、1つの人影が森の中からよろよろと歩き出てきた。

 銀色のショートヘアが月の光を受けて輝いている。ややつり上がったルビー色の目はキョロキョロとあたりを見渡していた。

 利発そうな顔をした美しい少女だった。

 しかし、少女は人間ではなかった。

 頭の上には人間にはない大きな猫の耳、銀色の毛に包まれた下半身も猫のもので、尻尾だって生えている。

 それは少女がフェルパーである証だった。今日日珍しくもない、亜人と括られる種族の一つだ。

 いずれの種族であれ綺麗好きで知られる亜人だが、今の少女は汚れたぼろの服を纏っていて、その毛並みにも泥があちこちついてしまっている。それでも少女の美しさは一つも損なわれておらず、月を見上げる姿など男なら誰もが目を奪われてしまうことだろう。男にとって理想的な美貌を備える亜人の特徴を、少女もまた持っている。

 そんな少女の顔には焦燥の色が濃く浮かんでいた。汚れを落とす余裕などないほどに。

 恐ろしい存在から必死に逃げているためだ。

 本当は森の中で撒くつもりだった。しかし後ろ手に縛られ、自慢の俊足を奪われた事を計算に入れなかったがために失敗した。

 ゆえに追跡の手は止まることがなく、少女の背後に追い縋り続けている。

 一歩一歩確実に、だが瞬きほどの僅かな時間でも早く足を前へ出さなけねばならない。何処かへ逃げなければならない。さもなくば――。

 恐ろしい光景が少女の脳裏をよぎる。震える猫足で地面を何度か強く叩きつけ、恐怖を少しでも紛らわすのに苦心する。

 だが、もはやそんなことをしても何の励みにもならなかった。ここは隠れられるような場所の無いなだらかな丘陵の続く草原。そばの川を泳いで逃げようにも、両手が使えなければ溺れ死ぬだけだと判りきっている。

 これ以上逃亡の案は頭になく、それでも何処かへ逃げなければならない。だがもう何処へ逃げればいいのか少女には見当もつかなかった。

 自らが大地を踏みしめる音に混じって、後ろから男の怒号が響く。振り向けば森から2つ人影が這い出てきたのが見えた。恐怖が確実に距離を詰めてきている。

 姿がよく見えているのだろう。これだけ月が出ている夜だ、昼間のように鮮明に見えているに違いない。

 なにか、なんだっていい、少しでも今よりマシになれそうなものはないかと辺りを見回しながら足を動かす。

 もうどれだけ歩いたのかわからない。焦りと疲れが足をもつれさせる。辺りに注意を払うほど、足元が疎かになっていく。

 それでも少女は懲りずに何度も辺りを見渡した。そうするだけ自分にとって最悪の存在が近づいてくるのが判っていても止められなかった。

「――!」

 声が出ない。本当はこの胸の痛みや重たい苦しみを力の限り叫んで吐き出してしまいたかった。しかしそれができない。

 カラカラに乾いてしまった喉は叫ぶだけの力を残しておらず、代わりに発せられるのは、歯の根が合わずガチガチと震える音だけだ。

 それでもなんとか助けを求めて声を上げたかった。たとえか細く弱々しいものでも、それでなにかが変わるはずだと少女は信じていた。

「――っ……!!」

 つい数秒前までは。

 何度見ても視界の中に人影はおろか動くものすら見当たらない。

 今ここに自分を助けてくれる存在は、居ない。

 例え声を上げたところで何も変わらない。認めたくない現実がそこにはあった。

 涙が頬を伝う暖かな感触は夜風によってすぐにぞっとするような寒気へと変わり、まだ遠くから聞こえているはずの怒号が自分の耳元でがなり立てられているように聞こえてめまいがする。

 自分が何を考えているのかさえ解らなくなっていく中で足を前へ前へ踏み出していく少女の表情は、絶望に染まりきってしまっていた。

「ぎゃっ――!!」

 どれぐらいの時間逃げ続けたのか、或いは何も考えられなくなってすぐだったのか。

 背中に強い衝撃を受けた少女は、自らの身を守る動作も許されず顔面から地面に思い切り叩きつけられた。

 その痛みが少女を我に返してしまったのは、不運としか言いようがなかった。

「テメェ……」

「……ひっ!?」

 野太く、今にも炸裂しそうな怒気を孕んだ男の声が背中にかかり、少女の全身の毛を逆立てた。間髪入れず仰向けに引き倒され、目に映ったのは二人の人間の姿だ。

 それは少女にとっての恐怖、受け入れ難い現実そのものだった。醜悪な顔つきに屈強な躰を傷だらけの装備が包んだ戦士の男達。少女の自由を奪った連中の一味。

「あ、あぁ……!!」

 少女を引き倒した男が大きく手を振り上げた。反射的に身を守ろうとしても手は縛られたままで何の意味もなく、少女の頬は無防備なまま屈強な男の掌で思い切り叩かれていた。

「ぎっ! ひいっ! ごめんにゃさいっ! ごめんにゃさいぃっ!!」

 いくら謝ろうとも男の手は止まらない。頬を真っ赤に腫らし口の中が鉄の味に満たされるまでそれは繰り返されていく。

 続いて乱暴に服を剥ぎ取られた。少女の躰が月明かりに照らし出される。人間の上半身は色白で細くしなやかで、2つの膨らみはつんと上向きに美しい形を保っている。それは男にとって理想的な体型だった。

「ぐえぇっ!? うげ、ぇっ!!」

 しかし今はその躰に向けて容赦なく握り拳が振ってくる。一撃一撃叩き込まれる度にさっきとは比べ物にならない痛みが少女を襲い、苦悶の声を引きずり出していく。

 夜風が頬を優しく撫でる度、川のせせらぎが耳に届く度、少女は何度も"これは悪い夢だ"と思い込もうとした。目の前の男から顔を背けようとした。

「さっきはどうもありがとうよ。えぇ?」

「っ!? ぁ……がッ……!!」

 それすらも許されない。顔を背けた瞬間、首にゴツゴツとした汚い指が食い込んで苦しみを与えられながら、男の顔を見ることを強要された。

 男はまさに手負いのイノシシと言った様相で怒りで目をギラつかせている。

 腹を殴りつけた男の腕が眼前に差し出された。そこには応急的に包帯が巻かれただけで大きな染みが赤々と滲んでいた。

 数刻前、逃げ出す際に少女が思い切り噛み付いてやった痕だった。

「お陰でお頭にはぶん殴られるわ、『名誉の負傷』で仲間の評価も上々だ――」

「ォ゛ッ……!!」

「野良猫一匹ろくに管理できない間抜けだってなぁ……!」

 更に指がきつく食い込み、呼吸ができなくなる。

 思わず足をばたつかせるもののすかさず腹に一撃を加えられ、酸欠の責め苦を存分に味わわされる。夢ではないことを思い知らされる。

「おいどうしたよ? 逃げた時みてぇにもういっぺんやってみろよ?」

 空気を求めて開いた口に、包帯の巻かれた腕が押し付けられた。

 だがもはや少女には男の挑発に乗る勇気も無かった。歯を立てようという思考にすら行き着かず、白目を剥いて痙攣を繰り返すしかできない。

「う、ぐ……げっほ! ゲホッ! うええっ……!!」

 突如締め付けが緩んだ。躰が呼吸を求めて大きく息を吸い込んだ時に、口の中に溜まった血や涎が咽させる。

 恥も外聞もなくそれらの入り混じった物を咳と一緒に吐き出していく度に鈍い痛みが全身を駆け巡り、更に体力を奪っていく。

「ごべっ……ごめんにゃさっ、ごめんにゃさいっ……!」

 少しでも呼吸が整えば、少女はひたすら謝罪の言葉を口にする。心はもう折れていた。

「もう逃げたりしませんっ!! 逆らわにゃ――!?」

 それでもなお、男は少女を甚振る。

「ぐぇっ、ぁっ……!!」 

 再び首をきつく締め上げられ、少女は陸に打ち上げられた魚のように躰を細かく跳ねさせる。

 残虐な笑みが目の前にあった。自分を殺すことなど欠片も躊躇しない獣の顔だ。

 二度。三度。同じことが繰り返される。

「おい、その辺にしとけよ! 使いモンにならなくなったら俺までぶっ殺されるだろうが!」

「チッ……!」

 もう一人の男がようやく歯止めを利かせてくれた時にはもう、少女には許しを請う気力すら残っていなかった。

 虚ろな目で美しい月を見上げ、全てを諦めたようにただ呼吸を繰り返す。ほんの少し前まで美しかった姿が、今や見る影もない。

「クソ猫が」

「歩ける程度に手加減してやれよ……。これを背負って帰るのは面倒じゃねーか。それに汚え。お前背負えよ」

「あぁ?」

 二人の男が自分を見下ろしながら何か喋り合っている。

 それがだんだんと熱を帯び一触即発の空気になろうとも、少女にとってはもう興味の惹かれない光景だった。

 それよりも、あの綺麗な月が通りすがりの雲に隠れていってしまう様子のほうが気になった。

 自分という存在が、今まで生きてきた時間が、あの月が完全に隠れた時本当に終わってしまうような、そんな気がしてならない。

「そんなんだからテメーはこんなガキに『名誉の負傷』をすんだよこのバ――」

 月が完全に隠れる間際のことだった。

 突如、甚振りに参加せず傍観していた方の男が鈍い音とともに吹っ飛んだ。

「っ……!?」

 それは少女の意識を再び男達へと引きずり戻すには十分すぎる光景だった。

 今まで影も形も気配もなかった筈なのに、そこには確かに馬が居た。

 月も隠れてしまったのに、それでも仄かに青白く輝く鎧を着込んだ馬が、後ろ脚蹴りを男に放っていたのだ。

 その馬上には人の姿があった。その人物の長い髪が蹴りの勢いで激しく振り乱され、マントがはためいている。

 蹴られた男はうめき声を上げていた。身につけていた革鎧のお陰で息はあるようだが、あれではもう立てないだろう。

「……は?」

 つい先程まで喋っていた仲間が目の前で突然吹っ飛んで、残された方の男は理解が追いつかなかったのか呆けていた。

 その顔めがけ馬の前足が振り上げられた。男が慌てて武器を抜き放とうとしてももはや間に合わず、強かに顔面に前足が叩きつけられ屈強な躰が崩れ落ちていく。

 僅か十数秒で行われたこの圧倒的な暴力の嵐を前にして、少女もまた呆然とするしかない。

 月が雲に隠れている今、馬上の人物の表情は少女からはよく見えなかった。しかしお互いの視線が交差したのが気配で判った。

 自分も奴らと同じように、馬に踏み潰されるのだろうか――。

 少女はぼんやりとそんなことを思いながら、じっとその人物の顔を見つめていた。

「生きてるね?」

 透き通った、優しい女の声が降り注いで少女の体に染み込んだ。

 月が再び雲間から顔を出し、女の姿を光の下にさらけ出す。美しい女だった。

 ヘアバンドに纏められたくすんだピンクブロンドの長い髪は夜風に揺れていて、ヴァイオレットの瞳は少女を静かに見つめていた。

 身につけている衣服はどこにでもある毛織物の平凡なもので、それは女が騎乗している馬には似つかわしくないように少女には見えた。

 女の口は一言発してからは真一文字に結ばれている。整った顔立ちは殆ど表情を変えないままでいて、少女はこの女が果たして自分を助けにやってきた者なのかすら計り知れなかった。

「もう大丈夫」

 再び口を開いた女の声は、風やせせらぎのように心地よく少女の耳に届く。相変わらず女の表情は変わらないままだったが。

 女は馬から降り、少女の側に駆け寄るとゆっくりと抱き起こした。後ろ手に縛っていたロープを解き、それから。

「……大丈夫」

 服が汚れるのも構わずに少女をしっかりと抱きしめる。

 それは少し力が篭っていて、暴行を受けたばかりの少女には痛みを感じた。けれどもそれ以上に冷えた躰を包み込んでくれる温もりが心地よくて、決して嫌だとは思わなかった。

 胸元に顔を埋め、背中を撫でられる感触に少女はしばらく身を任せる。

「立てるかい? ……ここは危険だ。安全な場所へ行こう」

 少女は女の言葉に頷くと、差し出された手を取って立ち上がった。

 まだ完全に目の前の女を信用したわけではない。女もまた、自分を捕らえ苛烈な暴行を加えた連中と同じ種族、人間だったからだ。

 けれどここで女に噛み付くほど少女も馬鹿ではない。一人で逃げられるような体力はとうに尽きているし、彼女に従うほか道は残されていないのだと理解している。

「ま゛て……」

 ゴボゴボという気味の悪い音を伴った、自分達を呼び止める声。

 少女はその声の元、男達を一瞥した。声を発したのは馬に蹴り飛ばされた方だった。

 なんとか起き上がろうとしているが、口から血の泡を吹いていてそれどころではない。もう一人は完全に意識を飛ばしているようだ。胸がすくような思いがした。

「慌てなくていい。ゆっくり」

 女も男達にさしたる脅威を感じていないのだろう。むしろ視線は転がった男連中より周辺に向けられていて、異常が無いかに神経を尖らせているようだった。

 少女は痛みを堪えながら女と一緒に馬の背に乗る。腕を回して、馬を操る女にしっかりしがみついた。

 改めて周囲を見渡して、少女は首を傾げる。

「どこから……来たの?」

「すぐに判るよ」

 はぐらかされたのかと訝しむが、それは間違いだとすぐにわかった。

「えっ」

 馬の頭が、先端から徐々に風景に飲み込まれるように透明化していく。

「ま、待って」

 少女は慌てて女に声をかけてみるも、後ろを振り返り少女を一瞥した女は微笑むだけだった。

 馬だけではない。それに乗っている女も、自分も景色に同化するように消えていく。

 恐怖から、少女は咄嗟に目を固く閉じて――。

「……あ、れ?」

 しばらくして恐る恐る目を開けて呆けた声を上げた。

 別に躰に異常が起きたわけではない。周りの景色が激変したわけでもない。目の前の女が恐ろしい本性を露わにしたわけでもなかった。

 ただ、今までそこにはなかったはずの小さな野営地が目の前に出現していたのだ。

「私が来たのは、ここさ。……奴らは間抜けにも人のキャンプの目の前で貴女を襲っていたというわけだね」

「でも、こんな場所さっきまでにゃかった……」

「うん……? <ラムニーの隠蔽術>は初めて見る?」

 幌馬車と馬を繋ぎ終えると、女はランタンの明かりを点けてから少女を幌馬車の中へと招き入れた。

 中はその大きさに見合った広さで、日用品や食料が収められた棚などが据え付けられており、さながら移動する家だ。2、3人はこの中で快適に寝泊まりができるだろう。

 片隅に空っぽの麻やリンネルの袋や空樽が整頓されて置かれているのが少女は少し気になったが、それも手当を施され始めると思考の片隅に追いやられていく。

 女は少女の汚れた身体を綺麗に拭いて、軟膏を塗りつけた布を包帯で躰のあちこちに巻きつけて、清潔な衣服まで着せてくれた。

「自己紹介ぐらいはしておこうか」

 その途中、女は自らをエリチェーンと名乗った。

「貴女、名前は?」

 自分の名前を訊かれたら、少女はもう空の袋や空樽のことなど頭から吹っ飛んでしまった。

「にゃまえ……。にゃまえは、にゃいの」

 俯き、首を横に振る。信用していない相手に教える名前が無いというわけではない。

 本当に少女には名前が無かったのだ。

 名前があればこんな惨めな状況でも少しは胸を張って答えられただろうかと、少女は気分を更に沈めた。

 エリチェーンはそんな少女を見て少し考えていたようだった。しかし表情からは何を考えているのか、少女には読めない。どうやら彼女は感情の起伏が極端に少ない人物らしい。

 怒られてしまうか、最悪放り出されてしまうか。

 今の少女の考え方は常に後ろ向きだ。俯き目を瞑り、膝に猫の手を強く押し付け不安を抑えながら彼女の返答を待つしか無い。

 しかしそんな考えを霧散させてしまうかのような出来事が起きた。少女の頭をエリチェーンの手が撫でたのだ。

「わかった。ひとまず貴女のことをなんて呼ぶかは保留にしよう。まだ完全に危険から逃れたわけじゃない。奴らには仲間が居る。だから急いでここを離れて、街まで戻らなきゃいけない」

 恐る恐る少女が目を開いて見上げれば微笑を浮かべたエリチェーンの姿があった。彼女は安心させるかのようにもう一度優しく少女を抱きしめてから、寝床に横になるよう促す。少女も大人しくそれに従った。

「今はおやすみ。朝になったら医者に診てもらおうね」

 ランタンの明かりを吹き消し幌馬車から出ていくエリチェーンを見送って、少女は目を閉じる。

 何処へ連れて行かれるのか、それを考え不安になったりすることはもうない。躰の緊張は解れ始めているし、呼吸だって深く落ち着いている。

「エリチェーン……」

 少女は自分を助けた女の名を呟く。その存在を、自分の中に確りと刻み込む。

 特に根拠があるわけではない本能的なものではあったが、少女は彼女を信用していい人間かもしれないと考えていたのだ。

 ほどなくして、軽い振動が躰を揺さぶった。車輪の鉄が地面をしっかりと噛み締める音がする。

 その振動と音が心地よいと感じ始めた頃には、少女の意識は微睡みの中へ飲み込まれていった。

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