黄金の果実を求めて・5
肩をゆっくりと揺さぶられ、ルナは目を覚ました。そこには自分を見下ろすエリチェーンの姿がある。
いつもの微笑を携えている彼女の姿を見て、緊急の用事で自分を起こしたわけではなく、見張りの交代の時間がやってきただけだとすぐに判った。
いつもより睡眠時間はずっと短くて、伸びをしても眠気が飛んでくれるか心配だったが杞憂に終わった。思い切り躰を伸ばしたあとは、すっかり思考が冴え渡ったのだ。
「おはようルナ。見張りの交代だよ」
「……うん、わかった。任せて」
「蝋燭はあそこに立てる場所を作っておいた。あとスープの残りも温めておいたから、よかったら飲んでね」
「ありがとう」
小声でエリチェーンと短くやり取りを交わし、新しい蝋燭に火を灯しながら示された場所を見る。
焚き火の傍に平たい石が置かれていて、その上にはさっきまで火を灯していたであろう蝋燭の溶け落ちた残骸があった。早速その上に蝋を数滴垂らして、新しい蝋燭を立てた。
その間にエリチェーンはさっきまで自分が寝床にしていた場所に寝転がっていた。
そこは焚き火の温もりが適度に届いて、干し肉の入った革袋が枕代わり。それなりに気持ちよく眠れたので、おそらく彼女も同じぐらい心地よい思いをしながら眠れるはずだ。
「それじゃあ、暫くの間よろしくね。おやすみ」
「あ……エリチェーン」
「ん?」
ルナは枕元に座り込んでじっとエリチェーンの顔を見つめた。目を閉じかけていた彼女は、不思議そうに見上げている。
「なあに?」
「……えっと。にゃにかあったら起こすから」
「あぁ。様子がおかしいと思ったらすぐに起こしていいからね」
「でも、それまではぐっすり寝てね? ルニャ、ちゃんと見張りできるから。心配しにゃいでね?」
「うん。頼りにしてるよ。貴女に任せれば私も安心して眠れる」
「……うん。えと、それだけ……おやすみ」
「おやすみ」
枕元を離れ別の場所に座り直し、ルナは周囲を見渡した。
夜目は絶好調だ。木々に阻まれ月光の届かない場所もはっきりと見ることが出来る。野生動物らしい影も形もなく、辺りは焚き火の音と葉が風に揺れ擦れ合う音、そして小さな寝息だけが支配していた。
安全を確認したあと、ルナはもう一度エリチェーンを見た。焚き火の赤色が彼女の顔を仄かに照らしていて、目を閉じて落ち着いた様子で呼吸を続けているのがよく判る。
この調子ならもうすぐ彼女も眠りに落ちるに違いないと考え、ルナは胸を撫で下ろした。
自分を信頼している、そう口にした彼女に嘘偽りが微塵もない証だと思ったからだ。
けれどまだ、ルナの心は晴れない。
「(結局、どんにゃ事をエリチェーンに言ったらいいのか、わかんにゃかった)」
エリチェーンに自らの弱さを認めてもらい、家族である自分に頼ってもらう。
そのためにどのような言葉をかければ良いのか、ルナはその答えに行き着くことがまだできていない。
寝ようとした彼女に咄嗟に声をかけたのも、そうすれば突如何か閃くかもしれないという一縷の望みだったのだが、出てくるのは当たり障りのない言葉ばかりで芳しくない結果に終わった。
なんだか自分が情けなかった。焚き火に枝を何本か追加して、ルナは小さくため息を零す。
「(にゃんでもかんでも、エリチェーンに抱え込んで欲しくにゃいのに……)」
ふと、視界の端に白い煙が見えてそちらを見た。
「……あ」
それは鍋から立ち上る湯気だった。中を見れば干し肉のスープがまだ熱々の状態で残っている。
きっとエリチェーンは、見張りが交代する直前にスープを温めたに違いない。新たに見張りに立つ自分のために。
「(ほんと、すごいにゃ)」
その優しさと心配りにルナは笑みをこぼす。自分も見習わなければと思うのも、これで何度目だろうか。
ルナはスープを器に掬い、それを一口飲んだ。ほんのりとした塩気と肉の旨味が溶け出した素朴な味わいに、冷えた躰を芯から温めていくその熱い液体は、ルナの憂慮を忘れさせてくれるようだった。
「(にゃやむのは、また後にしよう)」
スープを飲み終えたルナは立ち上がり、その手を猫の手に戻して周囲に目を凝らし始める。
「(……よしっ!)」
暗闇の山中で、ひとりきりの見張りが始まった。
こういった仕事をするのはルナは初めてだった。普段は宿でぐっすりと眠る見張りの必要が無い生活だし、里にいた頃も見張りは大人の役割で、子供はやらせてもらえなかったのだ。
感覚を研ぎ澄ませ少しの異常も逃さないように気を張っていると、色々と判ってくる。
「(暗くて見えにゃいものはにゃい。おかしにゃところもにゃい)」
静かで、何も動くものは無くて。全ての命が眠りに就いてしまっているようだ。
「(でも……)」
――それが、ひどく恐ろしいと感じた。
焚き火のぱちぱちという爆ぜる音がなければ耐えきれずにエリチェーンを起こそうと考えたかもしれなかった。
ルナはこの場において焚き火、即ち"火"こそが全ての拠り所になると確信する。薪を追加し、決して火を絶やさぬように務めた。
「(ウィルとリテルスは、これ以上に怖い思いをしてたんだ)」
火を起こすことすらできずに一夜を明かした兄弟の恐怖はどれだけのものだったのか、計り知れない。
だからこそ今、ぐっすりと眠り楽しい夢を見ているらしい二人の寝顔がルナの何よりの救いと励みになった。
見張りは何事もなく過ぎていく。ふと見れば蝋燭は4分の1程度の長さになっていた。交代の時間が近い。
「(スープあっためておこうっと)」
エリチェーンの心配りを早速見習って実践する機会だとぼんやり考えていた、そんな時だった。
「……ん……?」
大木の裏手が仄かに輝いているのに気づいた。
月明かりでもなく、火の灯りでもない青白い輝きは、ルナは初めて見るものだった。
「(あの裏は……泉だったよね)」
輝きは収まらないが、それ以上強まる気配もない。だが、何かこの場に異変が起き始めていると考えるのが自然だろう。
エリチェーンの寝顔を見て躊躇するが、ここで一人持ち場を離れてしまうのは最も愚かなことだと言い聞かせ、ルナは素早く彼女の枕元に跪いた。
「エリチェーン……起きて、エリチェーン」
小声でそっと肩を揺らしただけなのに、エリチェーンは一瞬で目を開けて起き上がった。些か乱暴に目元を拭ったかと思えば、傍らの弓を掴み取り周囲の警戒を始めている。驚くほど素早かった。
「何かあった、ルナ?」
「ちょっと気ににゃることがあって。あの裏、光ってるの判る?」
「……本当だ。あの光は一体?」
「ルニャが行って調べてくる。エリチェーンはその間ここで見張ってて欲しいの。お願いしていーい?」
「それはいいけど……私が行ってもいいんだよ?」
「お願い。ルニャにやらせて?」
エリチェーンを起こすことに躊躇したのは、彼女があの謎の光の所へ行くと言い出すのではないかという危惧があったからだ。それは見事に的中した。
「今は、ルニャがみんにゃを守る時間。だからエリチェーンでも……今はルニャの指示に従って欲しいの」
しかしルナも、今度ばかりは引き下がれない。あの蝋燭が燃え尽きるまでの間は、自分の意思を貫き通したかった。
「……大丈夫、だから。危険だと思ったら助けてって、すぐに言うから」
我儘を言っているようなものなのは自覚している。真剣な表情でじっと見つめてくるエリチェーンの顔を見ていると、緊張で汗が浮かんだ。
「……わかった」
しかしエリチェーンは諭すことも、叱ることもなかった。代わりにそっと抱きしめてくれて、耳元で囁いた。
「気をつけてね。ウィルとリテルスのことは私に任せて」
「……! うんっ」
その言葉がルナにとってどんなに嬉しいものだったか。
そっと抱擁を解いて、ルナは音もなく軽やかに地面を蹴って大木へ向かって駆け出した。
気配を消して大木に寄り添って息を潜め、それからじりじりと裏手へ向けて躰を動かし、そっと顔を覗かせて様子を窺う。
泉の方からは水の滴る音が静かに響いている。何かが居る。
だが、まだ姿は見えない。更に躰を乗り出して、ルナは泉全体を視界に収めた。
「っ……!?」
そして目を疑う。そこにあったのはルナの予想を遥かに超える光景だったのだ。
一人の幼い、美しい少女の姿があった。その少女が水面に裸足で立っている。
彼女はそっと屈み込んで水を手のひらにすくい上げ、気品ある動作でこくこくと飲み干していた。
見たこともない白く美しい花を飾った亜麻色の波巻きの長い髪はさらさらと夜風に揺れ、同じ色の瞳は泉の反射を受けて静かに輝いている。
月光を吸収し青白く輝く美しい布を幾重にも纏い衣装とし、それを留めているのは全て植物の蔦や根っこだ。装飾品も全てが植物で作られていた。
一番目を引いたのは、少女の背中だ。純白の美しい翼が生えていて、時折思い出したかのように開いたり、閉じたりしている。
「(まるで……)」
――女神様じゃないか。
街のあちこちで祀られている女神の石像を思い出し、それと少女の姿は非常に似通っていると気づく。
ルナはいつの間にか身を隠すことも気配を消すことも忘れ、神秘的な少女に目を奪われてぼんやりと見つめていた。
「あら……?」
我に返ったのは少女が自分に気づいて声を上げた時だった。びくりと肩を震わせ、耳も尻尾もぴんと立ててしまうが、ルナはなんと声を出していいのかわからない。
少女はふわりと微笑んで、一歩一歩こちらへと近づいてくる。少女が泉の上を歩くたびに波紋が水面に広がっていった。
柔らかな大地に足を降ろしてから、少女は言った。
「こんばんは、絆の子よ」
「……こんばんは」
少女の声は躰に染み込むような心地よさを伴っていて、ルナは緊張が嘘のように解れていく。
同時に初めてエリチェーンと出逢った頃を思い出していた。あの時の彼女の声も、同じように響いた覚えがあった。
「あの……あにゃたは、だあれ?」
頭も回り始め、ルナは真っ先に少女に何者かを問う。
「わたしは、ルク」
少女は微笑みを携えたまま、小さな手を自らの胸元に当てて答えた。
「……あなた達が『女神ルク』と呼び、崇めている者です」
「女神……さま?」
「はい。わたしのよく知る人の力を感じてつい姿を見せてしまいました。あまりしてしまうと、怒られてしまうのですけれど」
「よく知る人って?」
「わたしの姉、ロナです。狩猟の女神と言えば通じるでしょうか? ……正確には、彼女の加護を受けた人間の気配をこの近くに感じたのです。絆の子よ、何か知っていますか?」
こんな山中に自分達以外の誰かがいるとは考えられず、この神秘的な少女、女神ルクが探し求めているのはここで野営をしている誰かだというのはすぐに見当がついた。
「あ、あの。良かったらあたしたちのキャンプに来ませんか? 女神さまが探してる人はそこにいると思うんです」
不思議なことにルナは彼女に対してどのように接すればいいのか悩むことはなかった。
彼女の言っていることは真実だと自分の心は告げている。であれば、敬うべき人物として相応しい態度を心がけるべきだとすぐに決めることができたのだ。
「まぁ……」
女神ルクは祈るように胸の前で手を組んで頷いてくれた。
「もちろん喜んで参りましょう。案内をお願いできますか?」
「はい。……あ、っと。あたしはルニャ、って言います。……上手く言えにゃいんだけど、ホントはルニャじゃにゃくて……」
「えぇ、わかっていますよ。あなたの正しい名前は、ルナ。そうですね?」
「あっ……は、はいっ! そうです!」
何度も説明をしなければならないか、エリチェーンが助け舟を出してくれるか。そうしなければルナは自分の名前を正しく相手に伝えることができなかった。
しかし目の前の少女はそんな過程を一気に飛ばしてルナの名前を正しく把握していた。それはもうルナにしてみれば神業の現れのように見えた。
「(この子……本当の女神さまだ! 間違いにゃい!)」
ルナはすぐに猫の手を人間の手に変化させると女神ルクに差し出し、その小さな手をしっかりと握りしめた。大木の陰から姿を現し、野営地で警戒を続けていたエリチェーンを遠目に認めると大丈夫だと大きく手を振ってみせる。
彼女はすぐにこちらの姿に気づき手を振り返そうとしたが、女神ルクの姿がよほど驚きだったのだろう。片手を上げたまま硬直していた。
ルナはそのまま女神ルクの手を引いて、野営地へと戻る。
「こんばんは、人の子よ」
「……え、あ。こんば……んは?」
エリチェーンと正対した女神ルクは同じように挨拶をする。しかしルナとは違い、まだエリチェーンは戸惑っているようだった。
呆気にとられた表情で彼女は女神ルクを見回して、それから額を手で抑えて暫く俯いてから、顔を上げ、何を思ったか自分の頬をかなり強く抓っている。
「エリチェーン?」
「夢を見ていると思ったけど、痛い。……えぇ、と。その。君は一体? どこから来たの?」
膝立ちになって視線を合わせたエリチェーンは、女神ルクの顔をしっかりと見据えて質問をしている。
彼女は笑顔を浮かべて安心させようか、それとも疑いの視線を向けたほうがいいのか迷っているようだった。
「わたしは……」
戸惑うエリチェーンに、女神ルクは微笑みを崩さず、白い翼をゆっくりと広げて答えた。
「『女神ルク』。そう言ったほうが、あなたにもきっと伝わると思います」
「女神っ!?」
「エリチェーン……! しーっ……!」
「あっ……!」
驚きのあまり大きな声を上げたエリチェーンを、ルナは人差し指を口の前に立てて諌める。すぐに彼女も口元を両手で覆って、寝袋の中で眠っている兄弟が起きないか視線を忙しなく向けていた。
幸いウィルもリテルスも起きる気配はない。もぞもぞと少し動いたかと思えば、変わらぬ寝息を立てている。
「その……なんて言えばいいんだろう……。えぇと……」
相変わらずエリチェーンは狼狽えたままで、女神ルクを目の前にして大いに悩んでいるらしい。
まだ信じきれていないのだとルナは考え、助け舟を出すことにした。
「本物の女神さまだよ、エリチェーン。だってルニャが説明しにゃくても、ルクさまはルニャの正しいにゃまえを知ってた。それにルクさまの姿は、街でよく見る女神さまの石像の姿と一緒だよね?」
「あ……あぁ。子供の悪戯だなんて思ってないよ。こんな夜中に子供が一人でここまで来れるわけがない。姿も、ルナの言う通りまさに女神のそれだ。どこを見ても泥汚れ一つ無い神々しい姿、夢でもない。だけどその、どうしても頭の整理がつかないんだ……。本物の女神様が眼の前に居るなんて……」
一つ一つエリチェーンは考えを口にして、目の前の現実を少しずつ認識している。実に彼女らしいやり方だとルナは思った。
そんなエリチェーンの手を女神ルクの小さな手が包み込む。彼女は言った。
「驚かせてしまってごめんなさい。わたしはあなたの気配に惹かれたのです。それでどうしても、姿を見せたくなってしまった」
「私、の?」
「はい。……人の子、エリチェーンよ。あなたからはわたしの姉、ロナの力が感じられます」
「ロナ……。狩猟の、女神……」
なんとなく、ルナは女神ルクの探し求める人物がエリチェーンのような気がしていた。
それは大好きな人がそうであればいいという願望が殆どではあったが、当たっていたのだ。嬉しさに頬に熱がこもるのが判る。
「あなたの首筋に浮かぶ印は、ロナの紋章。彼女の加護を授かった命である証。全ての命に生きる術を教える彼女の力があなたの中に宿っています。……心当たりはありませんか?」
エリチェーンは次々と告げられる内容にすっかり放心してしまっているようだった。
「――弓の腕。ルクさま、そうだよね?」
だからルナが代わりに答えた。常人離れした彼女の弓の技量は、女神の力を授かっていると考えれば合点がいくと考えたのだ。
女神ルクはこちらに顔を向けると、頷いてみせた。
「そのとおりです、ルナ。女神ロナの放つ矢は山を超えた先にある一つの小さな林檎も、あの頭上の星々も、形無きものですら射抜く。どんなに深い森でも迷うことはなく、険しい山々の中でも自然達が敬意を払う。動物は喜んで集い、必要とあらばその身を差し出す」
それからまたエリチェーンの方へ向き直り、彼女は続けた。
「人の子であるあなたにも、その女神ロナの力が僅かに宿っているのです」
エリチェーンは何も答えず、女神ルクの顔をじっと見つめている。それから暫くして、彼女は俯いた。
「……ルク様。一つ、よろしいでしょうか」
落ち込んだような暗い声。
「どうして……私にそのような、力が?」
そして震える声で、彼女は続ける。
「私は……私はただの商人です。確かに自分の弓の腕に助けられたことは何度もあります。動物も私によく懐いてくれて、それが役立ったこともある。……でも、そんな、大きな力が自分にあるなんて……夢にも思わなかった」
もう一度顔を上げた彼女の表情には、明らかな恐怖の色が見えた。それを見て、ルナは驚いた。
女神の加護、力の片鱗。それが自らに宿っていることの何が恐ろしいのかわからなかったからだ。
「数百年も昔、『魔族』が人間と亜人と戦争をしていた混乱の時代、それを収めるため女神様が選ばれた人間に力を授け、戦争に終止符を打ったと。そんな人達を、人々は『英雄』と呼んだことも。私にとってはおとぎ話でしたが、今貴女を眼の前にしている以上、それはきっと真実なのだと思えてなりません」
魔族、戦争、英雄。次々と口にされる単語にルナもようやく思い出す。同じおとぎ話を、つい最近エリチェーンから聞いたばかりだったことを。
エリチェーンに女神の力が宿っているということは、つまり。
「私に何か使命があって……? 何かを成し遂げさせるために、私に力を授けられたのですか?」
――世界が再び混沌に包まれようとしているのではないか。
「っ……」
背筋に、寒気が走った。ルナもエリチェーンの抱く恐怖を理解してしまったのだ。
女神ルクは何も答えず、エリチェーンの言葉を静かに聞いている。それがなおさら、ルナの恐怖心を煽った。
「どうか教えて下さい。……私は怖いんです。ささやかな生活をその子と一緒に過ごし続けたい。それが私の願いなんです。それは、叶わないのですか?」
暫くの沈黙が続く。焚き火の爆ぜる音がやけに大きく聞こえた。
「――いいえ」
その沈黙を破ったのは女神ルクで、そして彼女の答えは、ルナもエリチェーンも望んだものだった。
彼女はそっとエリチェーンの手を離して、3歩後ろへ歩みを進めて距離を取る。
「エリチェーン。ルナ。あなた達を恐れさせてしまったことを謝罪します。軽率にあなた達の前に現れてしまったことも。……本当にごめんなさい」
目を伏せ、女神ルクは精一杯の謝罪の気持ちをその姿勢に表している。そして彼女は続けた。
「決して女神達はあなたに使命を与えてはいません。詳しくは言えませんが『英雄』は、この世界が混沌に包まれていなくても生まれるのです。あなたに女神ロナの力が宿っているのは、全くの偶然。……それが嘘でないことを、わたしはこの場で誓います」
「では、何故私達の前にお姿を……?」
「それは……」
エリチェーンの質問に、女神ルクは顔を赤らめ、視線を逸してしまう。
今まで神々しい女神としての威厳を保っていたはずの彼女が初めて見せた、意外な表情だった。
「……えっと。ルクさまは、ロニャさまの力を感じてつい姿を見せちゃったんだよね?」
ルナは泉で彼女と少し会話したことを思い出しながら続ける。
「それって、んっと……。そのロニャさまの力が、ルクさまにとって思わず姿を見せちゃうぐらいすごく特別にゃものだから……とか?」
女神ルクは驚きに目を見開いて、そしてますます俯いてしまった。
「……そ、そうです」
再び顔を上げた彼女の顔は赤くなっていて、それはもう翼を気にしなければどこにでも居る女の子のようだった。
「こうしてあなたたちの前に現れたことに、大きな意味はないのです。わたしはただ……女神ロナの、わたしの姉の力に惹かれて」
服の裾をぎゅっと握り、彼女は続けた。
「……わたしはこの世界の大地を歩き回り、その足跡に実りをもたらすことが役目。そして女神ロナはわたしの後を追いかけて、実りの中に生まれた全ての命に生きる術を教えて回ります。ですから、わたし達姉妹が出会うことは殆ど無い。唯一一緒に居ることができるのは、この世界が最も厳しい寒さに包まれる日だけ。だから、その……」
恥ずかしさからか、女神ルクは目を閉じて言った。
「――寂しかったんです。女神としてあるまじきことですが、もっと姉と一緒にいられたらとよく考えて。でも、そんなことをしてはこの世界の実りが不足してしまう。だから……」
再び目を見開いた女神ルナは、エリチェーンの顔をじっと見つめ、赤い顔のままでこう言った。
「どうか……ほんの僅かでも。エリチェーン、あなたの膝の上に……わたしを座らせて頂けませんか?」
それは女神という神聖な存在からの、ささやかな願い事だった。
「……もちろん喜んで。どうぞ、ルク様」
暫く呆気にとられていたものの、その後はもうエリチェーンに戸惑いの色は見られなかった。
彼女は自分に見せてくれるようないつもの優しい笑みを浮かべ、地面に座り込んで見せると膝の上をぽんぽんと叩いてみせた。
おずおずとエリチェーンの膝の上に座る女神ルクを見届けて、ルナも隣に腰を下ろす。
「……本当にごめんなさい。女神ともあろうものが……こんな。さぞや幻滅されたことでしょう?」
「そんにゃことないよ。ルニャ、女神さまがどんな人にゃのかよく知らにゃかったけど……。ルニャたちみたいににゃやみがあったりして、にゃんだか親近感が湧いたにゃ」
「えぇ。……この世界の調和を保つ。私にはとても想像がつかない程の偉大な役目……でも、そんな女神様達の中にも苦労がないわけないんだと知りました。私達がルク様の悩みを少しでも解決できるなら、それはすごく光栄に思います」
「うん、うん!」
ルナは焚き火を眺める。辺りの静寂は相変わらずだが、もう恐ろしさは感じなかった。
「あの……」
暫くそうしていると、女神ルクはまた気恥ずかしそうに口を開いた。
「抱きしめて、くれませんか? 姉さまは、いつもそうしてくれるんです」
「お安い御用です。……こんなふうに、ですか?」
エリチェーンはその要望に応え、女神ルクを後ろから抱きしめてみせた。翼を傷めないかと注意しているのか、その動きはとてもゆっくりなものだった。
女神ルクはエリチェーンの手に自らの手を添えて、心底から安らいだ表情を覗かせる。
「……まるで本当に姉さまに抱きしめられているよう。力を宿しているからだけではない……。エリチェーン、あなたは姉さまによく似ている人なのかもしれませんね」
「私が……ロナ様に?」
「はい。うまく説明は、できないのですけれど」
「それにゃら、もしルニャたちがロニャさまと逢えたらきっとすぐにゃかよくにゃれるね? きっとロニャさまも優しくて……すごくしっかりしてて……。あとお酒が好き?」
「ふふ。お酒大好きですよ、姉さまは。わたしはいつも、姉さまのためにお酒を作っておくんです。きっとあなた達と気が合いそうです」
「……女神様とお酒を飲み交わすなんて、酒飲みとしては最高の栄誉だね」
「それに女神さまの作るお酒にゃんて凄いもの、エリチェーンは絶対飲みたいよね?」
「もちろん。……ふふっ」
「あはっ♪」
それからルナ達は、女神ルクにこの山へ登ってきた経緯を全て話した。
ウルク村で起きた少年二人の行方不明事件、その解決を請け負い、無事にこの場所で二人を見つけ出したこと。
何故二人の少年が山に立ち入ったのかという理由、明日には村に戻って事件は解決するだろうという見通しも伝え、最後に勝手にこの場所へ立ち入ったことを詫びた。
女神ルクは真剣に、何度も小さく頷きながら全てを聞いてくれた。
「……この山は確かに、信仰が長い年月を重ね聖域と化した神聖な場所です。しかし二人の少年の抱く純粋な思いと、彼らの命を救うため足を踏み入れたあなた達の優しさと勇気。それをどうして咎めることができるでしょう?」
ウィルとリテルスの寝顔を眺めながら女神ルクは続ける。
「あなた達の行いは他の女神達も喜びます。良いことをしましたね」
ふとルナは蝋燭を見る。すっかり溶け落ちて火が消えていた。
会話を交わしながら過ぎた時間は、思ったより長かったらしい。
「ありがとう。もう大丈夫です」
ふわりと頬を柔らかな風が撫でた。女神ルクがエリチェーンの膝の上から降りて、その翼をゆっくりと広げていたのだ。
くるりと向き直り、女神ルクは微笑む。
「エリチェーン、ルナ。ささやかですがお礼をさせてください」
「そんな、畏れ多い……!」
「謙遜することはありません」
女神ルクは、黄金の果実が実る大樹に向かって歩き出す。かと思えば、彼女の素足はふわりと宙に浮いて、上へ上へと静かに昇っていった。
やがて大樹の傍にたどり着き、彼女は何かを乞うように両掌を差し出してみせる。
「あ……!」
ルナは大樹に実る果実の一つが眩く輝くのを目にした。その輝きはまるで女神ルクに応えるように枝から落ちて、彼女の掌の中にすとんと収まってしまった。
彼女はゆっくりと宙を漂い、戻ってくる。
「さぁ、これを」
ルナは恐る恐る両手で輝く果実を受け取った。それはどんな宝石よりも美しく見えて、思わず見惚れてしまう。
「明日、目が覚めたら4人で分け合って食べなさい。そうすれば活力が漲り、この山を降りるのにも苦労することはないでしょう」
「は、はいっ」
「……ルク様、ありがとうございます」
「ありがとうございます、ルクさまっ」
「お礼を言うのはわたしのほう……。あなた達のおかげで、わたしも心がやすらぎました。本当にありがとう」
そう言って女神ルクは満面の花笑みを浮かべて、その小さな手をルナとエリチェーンの両方の額に当てた。
「ここを発つまでわたしが見守りましょう。二人も安心してゆっくりとお眠りなさい」
その言葉とともにルナは眠気を覚え、それはすぐに目を開けていられないほどの強さとなっていく。
「人の子エリチェーン、そして絆の子ルナ。……あなた達の未来に祝福を。いつかまた、女神ガネリアの導きを経て逢いましょう――」
女神ルクが抱きしめてくれ、甘くうっとりする香りが鼻孔に届く。そして耳元で囁かれた、どこまでも優しい声。
それがその夜、ルナが最後に見たもの、感じたもの、聞いた声だった。