黄金の果実を求めて・2
海辺の砂浜には美しい貝殻がいくつも落ちていること、海の水は塩っ辛いこと、漁師は夜明けとともに出港し、日没には成果を船に載せて帰ってくること、新鮮な魚介類の美味いこと、人々が寝静まっても波の音は永遠に止まないこと、様々をルナは知った。
あちこち見て回り、港街ならではの光景を存分に目に収め、あるいは実際に体験して、皆と笑いあった。
楽しさに時間を忘れ、あっという間に休息の三日間は過ぎ去ってしまった。今、ルナ達は『太陽の槍』の三人に別れを告げ、再び交易に精を出している。
近場の街を二人で回って何度か売買を繰り返し、秋がすっかり深まった頃には、ルナはランズベルという国や、海という雄大な存在を身近に感じるまでになっていた。
「葉っぱの色が変わってる。もうすっかり秋ににゃったね」
「今日みたいに天気が悪いと少し肌寒くなってきたよね。こうなると夏のあの暑さが恋しいよ」
「あははっ。ルニャ達、にゃつの間は『暑い、暑い、早く涼しくにゃればいいのに』って言ってたのにね!」
「ふふ。まったく自分勝手なものだよね。でもきっと、この感覚は誰も変えられそうにない」
辺りの景色はすっかり様変わりしていて、翠緑に富んでいた筈が今や眩いばかりの黄金色と、燃えるような赤色の葉っぱが風を受けて音を鳴らしている。こうして聞くと、葉の擦れる音は波音によく似ていた。
「秋ににゃるとね、ルニャの里はおとにゃににゃる儀式をするんだよ」
「どんなことをするの?」
「んっと、狩猟の女神ロニャ様にいっぱいお祈りを捧げてね、それからにゃまえを付けてもらうの。ルニャ達はね、一人前ににゃって初めてにゃまえが貰えるんだ」
麦穂が実り秋の衣装を纏った大地の姿を見ると、どうしてか里の事を話したくなってしまう。
「――ルニャもほんとだったらこの時期に儀式を受けるはずだったの」
話すほど自分の気持ちが沈むなど判っていたはずなのに。
「……あ。ご、ごめんね!? あたしにゃにはにゃしてるんだろ……!? にゃまえはもうエリチェーンに付けてもらったのにね!?」
エリチェーンの気分まで沈めさせてはいけないと慌てて取り繕うも、時すでに遅く彼女は深刻そうな表情で考え込んでいた。
「儀式……儀式、か。うーん……」
「エリチェーンったら! 気にしにゃいでってば!」
「あ、あぁ。ごめん」
「謝らにゃくっていいよルニャが悪いんだから!? ……さっきのはにゃし忘れよ!? 楽しいことはにゃそうよ!? ほら、えっと……ルニャ、あのはにゃしの続き聞きたい! 女神様のはにゃし!」
「ん……わかった。どこまで話したかな……」
それからルナは女神にまつわるおとぎ話をたっぷりと堪能し、宿駅までの道中をそれで持たせることに成功した。天気が崩れつつあったために早めに宿駅に入ることになったのも幸いした。
しかしほっとしたのもつかの間、宿駅に到着してもエリチェーンの表情がどこか浮かないものなのを見て、改めて里の儀式のことを話してしまったことを後悔することになる。
「ね、ね。時間もあるし勉強したいにゃ! 教えてくれる?」
「もちろんいいよ。勉強熱心だね、ルナ。えらい」
擦り寄ってみたり甘えたりしてみてもあまり効果はなく、ならばと最終手段として勉強に付き合ってもらってみても、手が空くと何やら一人で考え込んでいるのを見て、ルナはどうしたものかと頭を抱えた。
「(言わにゃきゃよかったぁ……)」
もやもやとした気持ちを抱えたまま、ルナはエリチェーンに出された問題をひたすらペンと紙を使って解いていく。
「……あ。雨」
どれぐらいそうしていたか、やがてエリチェーンがポツリと呟いたのでルナは顔を上げた。
夜の帳が下りてしまった外の光景は窓から見てもはっきりは分からないが、音の調子からすると雨脚は強いようだった。
「降ってきちゃったね。明日止むかにゃぁ?」
「秋の雨はこういうのが長続きすることもあるから何とも言えないな……。雨が強かったらここに少し滞在していこう」
「うん!」
行商をしていた頃も、天気があまりに悪ければ宿に留まるのが当たり前だった。
運悪く商品を仕入れた後にこのような事態に見舞われた場合でも、エリチェーンは無理に馬車を走らせることはなく、日数がかかっても悪天候をやり過ごす選択を取ってきている。
いくら幌に防水加工を施していても強い雨には太刀打ちができないし、運転する自分達は当然濡れ鼠になる。商品が濡れて価値が落ちたり、大風邪をひくリスクを天秤にかけると、悪天候は安全な場所でやり過ごすの一択だと彼女は教えてくれた。
「んー……」
建物を雨音が包み込み、聞いている内に頭の奥がずんと重くなるような感覚が生まれる。それは胸の内に抱えたルナのもやもやとした感情を膨れ上がらせていった。
里の事を口に出したことが悪いことだとは思わないし、きっとエリチェーンも同じことを言うだろう。それでもお互いに居心地の悪い思いをしたのは事実だ。そしてそれは今も続いている。
いつもなら簡単に解ける問題がやけに難しく感じられて、ルナはテーブルに突っ伏して後ろ頭を乱暴にかき回す。
「どこかわからない所があった?」
そんなことをしても当然もやもやが晴れるはずがなく、エリチェーンの注意を惹くだけだった。
「えっ? う、ううん? ちょっと考えてるところ。大丈夫……」
「そっか。いつでも教えるから、言ってね?」
「うん……」
慌てて取り繕い、問題を解くふりをしてテーブルの上の紙とにらめっこを再開するも、思考は遅々として進まない。
もともとこれだってエリチェーンの気をなんとか惹こうと提案しただけのもので、それが失敗に終わってしまった以上力も全く入らないというものだった。
このもやもやを抱えたまま眠りにつくなんてルナには考えられない。今日が終わる前に胸の内をすっかり吐き出してしまいたい。
そのためには、やはりエリチェーンが何を考えているのかを聞き出す必要がある。ちらりと横目で様子をうかがうと、彼女は窓の外をぼんやりと眺めていた。けれど口元に手を当てていて、何かを考えているのは明らかだ。
彼女の考える何かと、自分の抱えるもやもや、おそらくそれは同一のものなのだとルナは確信めいたものを持ち、決意した。
「ねぇ、エリチェーン」
「ねぇ、ルナ」
しかし吐き出してしまおうとエリチェーンの名を呼んだのとほとんど同時に、彼女もまた自分の名を呼んでこちらを見据えていた。
「「あ……」」
お互い見つめ合ったまま言葉を失う。エリチェーンの目は驚きにまんまると開かれていて、まさか同時に話しかけることになるとは思わなかったと感じているに違いなかった。
「エ、エリチェーンからどうぞ? ルニャはその……た、大したことにゃいから!」
もちろんルナも似たような顔をしていた。慌てて笑顔で取り繕って、そう持ちかけた。
「あ、いや。ルナからでもいいよ? 私も大したことじゃ……いや……大したこと、かも」
「じゃあエリチェーンから! 大事にゃこと優先ね!」
「わ、わかった」
エリチェーンはなかなか踏ん切りがつかなかったのか、視線をあちこちに動かし落ち着かない様子だ。
それでもしばらくすると、"よし"と小さく呟いて、じっとこちらを見据えて口を開いてくれた。
「……その、ね? 忘れてって言われたけれど、私はどうしてもそれができなくて、ずっと考えてたんだ」
「ルニャの里の儀式のこと、だよね?」
「うん……ごめん。でも、これは忘れちゃダメだって私は思ったんだ。無かったことにしちゃいけないと」
「どうして?」
「きっとルナはその儀式を、『大人』と皆に認めてもらえるのを、凄く楽しみにしてたんだろうなって思ったから。だから、その気持ちを見て見ぬふりしたり、無かったことにするのはダメだと思ったんだ。……名前は私が付けてしまったけれど、それとは別に何かの形ではっきりと貴女が『大人』になったという証明をしてあげられたらとずっと考えてた」
「にゃにかの、形で……。でも、どうやって?」
「それが……」
エリチェーンは表情を暗くして、申し訳なさそうに言った。
「まだ、何も思いつかない。私一人が貴女を認めても、ちょっと違うよね? 私以外の誰か、それもなるべく大勢の人達に認めてもらわないと、儀式の体を為さないだろうから。でも、それをどうしたらいいのかわからないんだ……」
エリチェーンの推測する、ルナの儀式に対する思いはこれ以上無いほど正確だった。そして彼女が考えていたことは、やはりルナの想像した通りのもので。
彼女の思慮深さと優しさにはいつも胸を打たれ、暖かな気持ちになる。
ルナの頭からは里の儀式の話を無かったことにしようという選択肢はすっかりと消え、代わりにどのように解決してしてしまうかただ一点に集中することになった。
「……ルニャはね、エリチェーンに『にゃに考えてるの?』って聞こうとしてたの。多分ルニャがはにゃしたあの儀式のことだろうにゃあって予想はしてたんだけどね? やっぱり、合ってた。ルニャね、それでずーっともやもやしてて、どうしようかって考えてたの」
「ごめん――」
再び謝罪の言葉を口にしたエリチェーンの手を、ルナはぱっと握りしめて、その顔をまっすぐに見つめて笑みを浮かべてみせた。
「あやまらにゃいで? ルニャ、エリチェーンのはにゃしを聞いて決めたよ! どうにかする方法を一緒に考えよう? ルニャもエリチェーンも、それですっきりするはずにゃの!」
エリチェーンは暫くの間、ルナをじっと見つめていた。
「……わかった。私一人じゃ何も考えつかなかった。でも、ルナと一緒ならきっとなにかいい案が思い浮かぶはずだと私も信じるよ」
次に口を開いた時にはもう、エリチェーンに思い悩む姿はなく、あのいつもの優しい笑みを携え、ルナの頭を優しく撫でてくれていた。
「見つけよう、ルナ。貴女が心の底から喜ぶ解決策を、一緒に」
「……うん! それじゃあ……まずは、エリチェーンの経験からヒントを見つけるっていうのはどうかにゃ!?」
「私の経験から?」
「うん! だってエリチェーン、物知りだもん。エリチェーンが経験してきたことが、にゃにかのヒントににゃるかもしれにゃいよ! エリチェーンはどんにゃことして、おとにゃって認めてもらえたの?」
そう尋ねてみると、エリチェーンは視線をふいと逸して困ったように笑った。
「あぁ……それは……」
「……? どうしたの?」
「間違いなく参考にならないと思うけど、それでも聞く?」
「聞く!」
「わかった。……とりあえず座り直そう」
促され、ルナは席に座り直した。エリチェーンは困ったように頬を撫でていた。
「私も村育ちではあるんだけど、村でそういう儀式を受けたことはないんだ。ガープさんにそれっぽいことをしてもらったことはあるけどね」
「どんにゃことしてもらったの?」
「……まず酒場に行って沢山の料理を頼む。商隊は大所帯だったから、皆が食べきれないほどの量をね。ご馳走さ」
「うん!」
ルナの脳裏に、思いつく限りのご馳走がずらりと並んだテーブルが現れる。勿論主役は自分だ。
「次に酒場の在庫がなくなる勢いで酒を頼む」
「うん! ……うん?」
そこにドカドカと山ほどのジョッキが並びだして、想像の中の自分が戸惑い始めた。
「大人になるのを認められる私は食事は程々にして運ばれてきた初めての酒をガンガン飲む。……というか飲まされる」
エリチェーンはどこか遠くを見つめながら続けた。
「周りの景色が歪んで、変な光が見えて、皆が何を言ってるのかさっぱりわからないぐらいまで酔っ払ったら、無事に私はガープさんと対等に飲み交わす飲み仲間として認められましたとさ。……おしまい」
「ちょちょ、ちょっと!? おとにゃって認めてもらうのは!?」
想像の中の自分はすっかり酒に飲まれて朦朧としていた。楽しいはずが台無しだ。
「ガープさんは『俺と一緒に酒が飲めるのが何よりの証じゃねぇか』、とか言ってたな」
「えぇ~……」
「無茶苦茶だよね、まったく」
エリチェーンはそうは言いつつも満更ではなさそうだった。
「最初は『なんだこの変な味のする飲み物は。この親父、顎を殴りつけてやろうか』……と思ったものだけど、今やすっかり酒飲みだよ。夜の一杯が欠かせないし、ついにガープさんを潰すほど慣れてしまった」
「うーん、でもそれはちょっと参考ににゃらにゃいね……。エリチェーンの言うとおりだった」
「でしょ? 私が言うのも何だけど、あんなものがぶがぶ飲んだりしなくていいよ。もっと素敵な方法はあるはずだし、なによりルナにはまだお酒は早い」
「……エリチェーンがお酒飲んだの、にゃんさいの時?」
ルナはふと、エリチェーンが"大人"として認められたのがいつの頃だろうと疑問に思って訊いてみた。
「え、えぇと」
彼女はその質問にふいと視線を逸して苦笑してしまったのだが、ルナはぐいっと顔を近づけて問う。
「……にゃーんーさーいー?」
「……じゅ、14」
「えぇ!? ルニャとおにゃいどしじゃにゃい!? にゃのにルニャにまだ早いっていうのにゃんかおかしくにゃい!?」
「い、いやそうなんだけどね? でもルナだって飲み過ぎたらどうなるか知ってるでしょ? ほんとはもうちょっと歳を取ってから飲むのが正解なんだよ。それもあんなふうにならない程度にね?」
エルフィトの街でエリチェーンが飲みすぎた時のことは、ルナも勿論覚えていた。一歩間違えれば悪夢のような時間を持ってくるあの液体は、もう少し分別を身に着けてから付き合わないと酷い目に遭いそうだとは理解している。
「……確かに、そうかも」
「うん。ルナが良ければだけど、もうちょっと歳を取って、そしたら一緒にお酒飲もうね。ルナの好みに合いそうなお酒もあるから、楽しめると思うよ?」
「わかった! 約束ね! ……って、はにゃしが脇道に逸れちゃった」
「流石に私もこういうのはどこから手を付けていいのかわからないからね……うーん」
それから二人して知恵を巡らせても妙案が閃くことはなく、夕食時に差し掛かったのもあり、考えを中断して食事を摂ることになった。
「今日明日で何かしないといけないわけではないから、焦らず考えていこう。秋はどの村や街もお祭りを行うことも多いから、何かきっかけがあるかもしれないよ」
「そうだね。……ねぇねぇ、どうして秋にお祭りが多いの?」
「春に蒔いた麦の収穫もこの時期だし、冬に備えて家畜を潰して蓄えたりもするから、村や街の食糧事情が一番豊かになるのが秋なんだ。お祭りをする余裕が一番あるってことだね。それに女神ルクの祝福が最も強い季節だとされている」
「女神ルク……ご飯を食べる前にお祈りを捧げてる、豊穣の女神様、だよね? 今日はにゃしてくれた」
「うん、そうだよ」
宿駅の道中で聞かされた女神の話の中に、豊穣の女神ルクの話もあった。エリチェーン曰く、少女の姿をした女神で、手には黄金の果実を持ち、巨大な鹿をお供に従えているのだという。
豊穣の名を冠する通り、この女神は大地に実りを与える力を持っていて、彼女が歩いた大地には豊穣が約束されると言い伝えられていた。
「お祭りは女神ルクへの感謝の印でもある。お陰で誰も飢えずに済みました、また次の秋も、豊作でありますように、家畜が健やかに育ちますようにってね。お酒も女神ルクの祝福あってこそだよ」
エリチェーンはそう締めくくって微笑むと、夕食の注文に席を立った。
夕食は白身魚のバターソテーとパンだった。ヘイズベルトで食べた味が忘れられず、この宿駅でも提供していると聞いて一も二もなく飛びついた。
ただ、街で食べたそれよりは幾分味が落ちている。街で食べた同じ料理は、噛みしめればほろりと身が崩れ肉汁が溢れ、ちょうどよい塩気が何とも言えない美味を生み出していたのだが、ここの魚は少し塩辛かった。
「ヘイズベルトのおさかにゃと違う……ちょっと塩辛い」
「多分、塩漬けの魚を仕入れてるんだと思う。これはこれで私は好きだけれどね」
「うん。おいしくにゃいわけじゃにゃいから、ルニャも大丈夫」
身に掛かったバジルソースをつければまた違った味わいに変わるし、これは付け合せのじゃがいもや人参に絡めても格別な味だ。何より塩辛いとパンを食べる手が進む。魚を食べ終えた頃には、ルナのお腹はすっかり満足してしまっていた。
人心地着いたところでルナは改めて宿の中を見渡した。食事の間に新たに客が何人もなだれ込んできており、そう広くない宿の店内は満員状態になっていた。
その客達には共通点があった。全員が男で、泥に汚れ、野良仕事のために仕立てられた布の服を着ている。雨の中でも仕事をしていたのか、皆一様に濡れていた。おそらくこの近所の村の人間なのだろうが、どうも様子が可笑しい。
彼らの表情は深刻そうで、食事も頼まずにヒソヒソと何かを話し合っているのだ。
「明日もう一度皆で捜索するしかないだろう」
「だがこの雨じゃ……」
「山に詳しい奴も今居らんからなぁ」
「しかし放っておく訳にもいかん……」
その様子は、何か大きな問題が起こっているようにルナには見えた。
食事の後にはまた二人で食堂に居座って相談をしようと思っていたのだが、どうもそれが許される空気ではなさそうだ。
「ルナ、部屋に戻ろうか。寝る準備しよう」
「うん」
彼らの話し合いはエリチェーンの耳にも届いていたようで、やはり彼女も長居は無用と判断したようだった。気にはなるが、無闇に首を突っ込むわけにも行かなかった。
「大丈夫だろうか……」
部屋に戻る途中、背中越しに聞こえた最後の言葉は、悲痛な響きを伴っていた。